ささやかだけれど確かな秘密/月夜の歌声
甘噛み。舌での愛撫。
痛くはないですが、誰かの歯が、舌が、唾液が自分の耳たぶに触れるだなんて初めてで、今まで経験した覚えのない感覚に襲われました。
「お嬢様、やめっ……てください」
私が絞り出して声を受け、ロザリンド様はその唇を耳から離します。
「そんなに嫌なの? もう片方残っているわよ。ねぇ、本当に……嫌?」
その囁き声には若干の愉悦に混じって隠せない不安がありました。後ろめたさと言ったらいいでしょうか、それとも罪悪感?
何にしても私がはっきりと答えるまでは中断したまま、身体を離してくださらない様子です。
「指で軽く摘む程度ならかまいません。でも、咥えたり噛んだりは……嫌です」
エドワードさんが言っていた噂。夜の王都を徘徊する耳なし令嬢の怪談。何も私はそれを思い起こして恐怖に身を強張らせたのではないのです。お嬢様の突然の行為にただただ驚かされ、狼狽ているのでした。
「――そうね、どうかしていたわ」
お嬢様はずっと掴んでいた私の腕を解放して、ぽつりとそう呟きました。膝から飛び退いた私に無言でハンカチを渡してきます。
それを怖々と受け取った私は、なんとも言えない感覚がまだ残っている左耳を拭きました。
「……隣に座ってくれる?」
上目遣いでそう頼んでくるお嬢様。
私は咄嗟に上手い断り文句が出てこず、慎重にソファへと腰を下ろしました。私たち二人の間には一人分のスペースが空いています。
「虐めたいわけじゃなかったの。信じてくれるわよね」
お嬢様は目を逸らしています。その深海の瞳の奥に真意を見出したく思っているのに、目線を合わせてくれないのです。
「つまり……私が知らないだけでモリビト貴族たちは従者とこのような触れ合いを日常的にするものなのですか」
「そんなわけないでしょう!」
全面的に否定なさったお嬢様はこちらを見ました。うっすら紅に染まった頰、それを確かめられたのは僅か一瞬、視線が交差したかと思うや否や、また顔を背けられてしまいます。そんなふうにお嬢様が動揺なさっていることで私は逆に落ち着きを取り戻しつつありました。
「どうしてこんなやり方を?」
「悪かったわね。魔が差したのよ……可愛らしい耳だったから」
「初めて言われました」
モリビトたちの間で、特に親しい間柄にあれば耳に触れ合うことは知識として知っていました。ただ、モリビトが珍しい私の故郷において、通りや私が働くカフェの中で見かける光景ではありませんでした。
彼らの真似事なのか、互いの耳を指でいじるソトビトの恋人たちを店内で目にしたことがあったような気はします。
それはそれとして、私の耳、その物質的な面に言及してきた人はいませんでした。エドワードさんが機能的な面を評価してくださったことはありましたが。
「それは褒め言葉として受け取っていいのでしょうか?」
「難しいところね。仮に誰かが、この私に対して同じことを言ったのなら、侮辱だと捉えるから」
「ですが、私からするとお嬢様の――」
そこまで言って、後は続きませんでした。
お嬢様が再び私へと向けたその表情はさっきとうってかわって冷たいものでしたから。今なら私の耳を噛みちぎってもおかしくない、そう思えるほどに敵意が込められていました。
お嬢様の耳、隠されずに今そこにある一対の器官。私からすれば、なんてことない耳です。誰かに辱められたり貶められたりするのが間違っているのだと言えます。
そう言いたくなりました。ですが、ダメなのです。軽々しく、しかもソトビトである私が言っていいことではないのです。
どこかぬるりとして気まずい静寂を私が裂いて「ロザリンドお嬢様」と呼びかけます。
「もし私をお呼びした用件というのが、ソトビトの耳がどんなものであるかを調べるというもので、たった今、それが済んだのであれば……退室してもよろしいでしょうか」
私の申し出にお嬢様は深い溜息をつきます。
「どこに何をしに行くつもりなの?」
不満げな口ぶり。
「そろそろ一角獣たちのお世話を終えたはずのフランカさんのところへ行って、家事を習おうかと。それから竪琴の練習をしたく思っています」
「事前に約束していないなら、やめたほうがいいわ。彼女、いろいろと忙しいのよ。私の侍女というのは肩書きの一つでしかないわ」
そういえば、とフランカさんが教えてくれたことを思い出しました。
14歳以降、お嬢様が王族の務めとして定期的に担っているいくつかの公務、それはたとえば福祉施設への慰問や文化施設への訪問なのですが、政府側および現場担当者と細かな打ち合わせをするのは専らフランカさんのようです。また、乳母ではないようですが、お嬢様が物心つく前からの付き合いだとか。
「あっ」
「何よ、そんな声を出して」
「うっかり忘れていました。ノーラさんから確認を頼まれていたんです。11日の夜は、夕食を作る必要があるのかと」
3日後の話です。どういう事情でお嬢様の夕食が不要になりそうかまでは聞けずじまいでした。どこかで盛大なパーティーでもあるのだろうとは予想していません。
なぜならお嬢様にまつわる噂の中で、そうした公の会食や夜会に参加されることがないのは事実だとご本人が認めていたのですから。どうしても参加しないといけない式典では会場の隅で大人しくしている、とのことです。
「当日の朝でもいいでしょうに、ノーラってば相変わらず何というか」
「食材の都合もありますから当日というのは……」
「こだわりが強すぎるのよ。お母様はそこが気に入っていたみたいだけれどね」
「先代女王様が?」
「そう。重宝していたみたい」
先代女王は100歳を前に若くして、ロザリンドお嬢様を生んでほんの数年後に亡くなったそうですから、直に聞いた話ではないのでしょう。
「でも、後を継いだお姉様はノーラを気に入らなかった。だから彼女は今こんなところにいる。よそに行きたければ好きにしてかまわないと言ってもね。義理堅い人よ」
「私が言っても説得力に欠けるでしょうが、料理の腕は一流だと思います」
「知っているわよ。だからこそ、この屋敷に籠らせたくないの。余生を過ごす場所にしたって相応しくないわ。……11日の件、いらないと伝えておいて。私とフランカ、そして貴女の分も」
「え、私の分もですか?」
間抜けな声で聞き返した私にお嬢様が「ええ、そうよ」と応じます。そして私が理由を聞くより先にお嬢様が「当日どこへ行くか、何があるかはまだ伝えないでおくわ」と微笑むのでした。
「さ、忘れないうちにキッチンへと向かいなさい。帰りに部屋に寄って、竪琴を持ってきて。お昼までの時間、貴女は私のために演奏するの。異議はないわよね?」
すっかりいつもの調子を取り戻したお嬢様に私は「はい」と答えて立ち上がり、部屋を出ようとします。
ドアに手を伸ばした時になってから、貸してもらったハンカチを片手に握りっぱなしだったことに気づきました。手触りのいいシルク製の無地の品。洗濯して返す旨を伝えたところ、お嬢様は首を横に振ります。
「洗った後は貴女にあげる。……勘違いしないで。そんなのもういらないって意味じゃないわ。つまり、あれよ。ささやかな贖罪。貴女に二度とあんなふうに迫りはしないと誓うわ。セインヴァルトの名にかけてもいい」
仰々しく言われて、萎縮してしまいます。ただ、ハンカチは別段、王家の紋章入りであったり、素晴らしい細工がなされていたりといったことがなく、お嬢様の所有物の中では比較的「安物」だと考え、ありがたく頂戴することに決めました。
「あと、わかっていると思うけれど、貴女の耳をあんな形で触れたのは誰にも言わないで。二人だけの秘密よ。いいわね?」
私は肯き、微笑んでみせました。
秘密。それは庶民学校に通っていた頃、ごく普通に級友たちの間にあって彼女たちの仲を深めていたもの。幸か不幸か、私とは無縁だったもの。その言葉の響きは悪くない、そう感じました。
その歌声を耳にしたのは、お嬢様と秘密を共有した2日後のことでした。
喉の渇きのせいか夜中に目を覚ました私は、水を一杯飲むために私室を出て、同じ一階にあるキッチンへと忍び足で向かいました。着替えるべきかなと迷いましたが、お嬢様にさえ見つからずにさっさと戻ってくればいいと思い、寝間着のまま進んでいきます。
無事に飲み終わってキッチンを出て、暗い廊下を窓から差す月明かりを頼りに戻っていた時、それが聞こえました。
初めそれは鳥の鳴き声のようにも聞こえ、私は窓際へと寄り、耳をすましました。
ところが、そうやってその音に意識を集中させてみると、発信源はどうも屋敷内なのです。専用の獣舎にいる一角獣を除くと、屋敷にいる他の動物は自由気ままな黒猫一匹だとお嬢様が以前に話していました。
件の黒猫にはまだ出くわしていませんが、今、耳にしている声が猫の鳴き声でないのは確かです。
音を追っていくうちに、自分が寝ぼけていたことがわかりました。聞こえてくるのは人の声、そう、歌声なのだとやっとわかったのです。
こんな夜中にいったい誰が……?
玄関ホール、暗中で私は階段を見上げます。音は上から聞こえてきているのです。
二階に私室を持っているのはお嬢様しかいません。
ですが個人に割り当てられた部屋に限定しないのなら、いくらでもあります。
誰がどんな歌を歌っているのか知りたい……私の足は自然と階段を上っていきました。手探りで手摺りを掴んで一段、また一段と上へ上へ。
しんと。二階へとたどり着いたところで歌声が止みます。
すると、それまであまり気にならなかった暗闇が容赦なく襲いかかり、急に心細くなって硬く冷たい壁に屈んでもたれました。
こんな冒険をするならせめて燭台をこっそり借りてくればよかった、と後悔します。
お願い、もう一度――。
固唾を呑んでその場で耳をすましていると、不意にランプの灯りが廊下の先に現れます。そしてこちらへ規則正しい足音と共に近づいてきました。
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