第31話 空に手を伸ばして

 俺は篠田の一挙一動を第一に考えるように動いていた。ベッドから起き上がる時、物を取る時、何らかの行動を起こそうとしている兆しが見えた時。それらを目と耳で察知して、すぐに補助に向かう。篠田は戸惑いつつも、何度も俺が補助している内にそれが当たり前のようになり、俺が来るのを待つようになった。




 そして今、俺は篠田を背負って屋上に来ている。屋上には病室とは違い壁は無く、何処を見ても空が見えた。俺の背に乗っている篠田は、見渡す限りの空に手を伸ばした。篠田は三十キロちょっとの重さしかない。しっかりと掴まって、そして俺も自分自身に引き寄せていなければ、風で飛んでいきそうな軽さだ。


     


「楽しいか?」




 篠田は俺の胸ポケットから紙とペンを取り出し、言葉を書いていく。




【やっと空が見れた】




「窓からでも見れるだろ」




【外に出て見たかった】




「……もしかして、今までずっとここに来ようとしてたのか?」




【いつも階段で諦めてた】




「あー。ここの病院は最上階までエレベーターが通っていないからな」




 篠田は俺の胸ポケットに紙とペンを戻すと、俺にしっかりとしがみついた。あまり篠田に負荷を掛けさせないように前傾姿勢になりながら、屋上をゆっくりと回っていく。




 今日はほんの少しだけ風が強い。篠田の長い髪が風でなびき、俺の顔を何度もくすぐってくる。シャンプーと、本来の髪の匂い。背負っている事を意識していなければ忘れてしまう程の軽さ。まるで、篠田と俺が一つになったかのようだ。




 こうまで篠田を意識しているにも関わらず、俺は篠田に対して全く欲が湧かない。痩せているとはいえ、女性特有の柔らかい肌や匂いがダイレクトに感じているというのに、心は平穏そのものだ。単に篠田を恋愛対象として見れないのか、あるいは見ないようにしているのか。




「……なぁ。もし、病気が治って、ここから出れたら何をしたい?」




 篠田は俺の胸ポケットから紙とペンを出すと、俺の質問に対する返答を書いていく。書き終わったかと思いきや、文の下側に言葉を書き足した。




【色んな場所に行きたい。    相馬と】




 俺は返答に困った。篠田の病を知らなければ、無責任に同意していただろう。だが、俺は篠田の病を知ってしまった。知ってしまったからこそ、こんな風に過保護になっている。




 もし、奇跡的に篠田の病を治す方法が見つかり、無事に回復したとしよう。手足は自由に動き、文字から声に変わってコミュニケーションも円滑になるだろう。そうなれば、もはや俺がいる必要も無い。介護が出来るからこそ、俺は篠田に必要とされて、俺も篠田を助けている。




【相馬は出たら何をしたい?】




 俺が考え込んでいる内に、篠田は俺に質問を書いていた。




「俺は元の生活に戻るよ。俺は記憶を失っただけだ。記憶が元に戻れば、以前の暮らしに戻るだけだ」




【相馬はどんな生活をしてたのかな?】




「さぁな。なにせ、記憶を失った原因が糖分の過剰摂取だ。相当馬鹿な生活を送ってたんだろうな」




【じゃあ、またここに戻ってくるね】




「馬鹿言え。規則だらけの場所になんか二度とごめんだね」




【私は相馬にいてほしい】




「じゃあ病院の人に頼んで、俺の両手両足を鎖で繋いでもらえよ。それで何週間かは拘束出来るぞ」 




【検討します】




「検討するな」




 こんな風に会話を交わしながら、篠田の気が済むまで屋上を回り歩いた。病室のベッドに戻すと、篠田は疲れたのか、ベッドに横になるや否や眠りにおちた。




 時刻は十五時。今からトレーニングを行っても、大した運動にならない。今日は休養日にして、適当に時間を潰そう。




 休憩室にあるコーヒーを飲みながら、雲が流れていく様を窓から眺めていると、一人の看護婦が休憩室に入って来た。気にする事でもないが、病院の職員と二人っきりというのがどうにも気まずい。飲んでいたコーヒーを一気に飲み干し、早々と出ていこうとした。




「ちょっと待って」




 看護婦が俺の手首を掴んで引き留めてきた。振り返って改めて看護婦の顔を見ると、その人物は、あの若い看護婦だった。




「ねぇ、同室のあの子とはどういう関係になれたの?」




「それ、言う必要ありますか?」




「私が聞く必要はあるかな」




「じゃあ言わなくていいですね」




 手首を掴んでいた手を振り解き、看護婦に背を向けた。




「アンタはあの子の為に、自分を犠牲に出来るの?」




 妙に聞き慣れた声色に変わった。この看護婦からは、色々な馴染みを思い出させられる。だが、名前が思い出せない。顔と姿を思い出せているのに、どうしてか名前だけがハッキリとしない。まるで分厚い小説に書かれてある文字全てが、彼女の名前になるかのような不確かさ。




 もう一度彼女の方に振り返り、真っ直ぐと見つめてくる彼女の目に負けじと真っ直ぐと見つめて言葉を返した。




「ああ。それで救われるなら」




「……そっか……なら、頑張って思い出さないと」




 そう言うと、彼女は俺の頬を二度軽く叩き、休憩室から出ていった。 

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