退職したい
井口さんは前職を辞めた時、少し奇妙な事が起きたそうなのでそれについて話してもらった。彼女が退職する時になんとも不思議な事があったそうだ。それは以下のような話になる。
『バカか! 辞めるだと! お前みたいなヤツ他所に行ってもやっていけるわけないだろ!』
だったらやめさせて欲しいと心底思ったのだが、今日も退職届を破られた。もう何度も同じ事をされているので今更この上司の行動に驚きはしない。いつもこうして完全なパワハラをしてくるのでまただな……と思いつつ、こうして役立たずのように言ってくるのに、退職は許さないんだと思わずにはいられない、身勝手な上司だった。
ただ、この上司を恨むのも半ば諦めていた。退職者が出ればこの上司の評価が下がるわけで、そうなると給与にも影響が出て……気に食わないことは確かだが、自分のことを考えている余裕しか無いのだろう。
そうしてその日も遅くまで残業をして帰宅した。帰宅するなり酒を飲んで寝てしまった。そうして翌日に目が覚めたのだが、不思議な事にベッドで寝ているかと思えば、座卓の上に退職届と書かれた封筒が一つ置いてあった。知らない間に書いたのだろうか? しかしそんなことを気にする気にもならなかった。どうせ破られるのだからどうでもいいやと思いながらその封筒を懐に入れて出社した。
その日は珍しく激務ではなかった。いや、大学の同期の就職先と比較すれば確かにキツいのではあるが、精神的に来るほどの酷さはなかった。おかげでなんとかその日は助かった。しかし珍しく上司がパワハラをしてこなかったのが気になった。
帰宅してからよく考えると、ここは自分にとって身の丈に合う会社ではないかと、当然のことに思い至り、明日試しにいつの間にか書いていた退職届を提出しようと決めて布団に潜る。
そうして散々嫌な思いをしながらも続けてきた会社に、何度目かも覚えていない退職届を提出することに決めた。
翌日、出社するなり上司に退職届を差し出した。どうせまたもみ消されるのだろうと思っていたが、上司は憔悴した様子でそれを受け取って、『今日いっぱいでいいから考えさせてくれ』と言ってそれを受け取った。その日は珍しく飛び込み営業やアポ電も無しで、新人がやるような電話番を任された。
その途中、上司がこちらをチラチラ見ていたのが気になったのだが、そんなこともあるだろうと諦めていた。
そうして定時が来た時に上司に呼び出された。始めから定時で帰れるなど思っていないのでまた残業かと思いながら向かう。
すると顔色の悪い上司が『この退職届は受け取る。会社都合ということでいいので辞めてもらえるか』と言ってきた。自己都合ではなく会社都合で退職届を受け取ってもらえる? そんなことがあるのだろうか? 不思議には思ったが、今日、上の方まで話を通したそうなので、突然のことながら退職は簡単に認められてしまった。
そうしてもう少し給与は下がるものの、それほど激務ではないところに再就職をした。会社都合になったのですぐに雇用保険がもらえ、再就職先を吟味するだけの時間があったのもよかった。
再就職して緩めの仕事をしていた時、以前の同僚から飲みに誘われた。仕事の愚痴を聞いて欲しいとのことだ。正直前のところには関わりたくはないが、それはそれとして同僚に罪はない。そこで向こうの近くにある居酒屋で愚痴を聞くようにした。
同僚からは散々上司の愚痴を聞かされ、今がどれだけ酷い状況下の愚痴を聞きながら相槌を打っていた。そんな時、突然その子が井口さんに聞きたいことがあると言ってきた。
「ねえ、どうやって辞めたの? 退職届の書き方が分かんないんだけど」
そんなことを言われても自分も知らない。たまたま記憶に無いうちに書いた退職届が受け取ってもらえただけだ。上手い方法など知らないので、彼女には縁切り神社を紹介しておいた。
それからしばらくして、彼女は退職できたと喜んで伝えてきたので、一応良いことをしたんだろうなと自分に言い聞かせた。
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