第4話 心の余裕

 一斉に神殿がざわめきに包まれた。


「な、なんてことを……」

「あ、あいつ、何をバカなこと考えているんだ!?」

「上位スキルの二つを蹴って、わざわざ通常スキルを……!? ありえないだろ!」


 司祭が「静粛に!」と叫んだが、その声は神殿に響く驚きの声でかき消されてしまった。


「あのクソ……何考えてるんだ、頭おかしいんじゃねぇのか!」

「貴族の末席を汚す恥さらしが……!」


 苛立ちと失望の視線が一斉に向けられる中、長男のギッシュが肩をいからせながら祭壇に向かってきた。彼の重たい足音が神殿に響き渡り、険しい顔つきが一層険しくなる。

 明らかに、僕が選んだスキルに激怒しているのがわかる。


「おい、フレン……何のつもりだ? お前、恥ってものがわかってんのか?」


 ギッシュは低い声で問い詰めてきた。

 彼の顔には怒りの色がはっきりと浮かび、その眼差しはまるで僕を突き刺そうとしているかのようだった。


 だが、どうしたことか、彼の怒りが全く響いてこない。

 心が妙に落ち着いていて、彼の怒鳴り声が遠くの雑音のように感じられた。


「……あ“?」

「……ッ!?!??」


 僕は悪態をついてしまっていた。これまでなら絶対に出なかった一言——だが、


 眉一つ動かさずに、自然と僕の口から低く挑発的な声が漏れる。

 スルースキルを手にしたことで、彼の怒りも、周囲の視線も、なんだか馬鹿馬鹿しく思えてきたのだ。


 その一言にギッシュがわずかに息を飲み、周囲が静まり返る。

 神殿にいる全員が僕の言動に唖然としていた。


「……な、何だと? 貴様……ッ!!」


 ギッシュは唇を震わせ、拳を握りしめている。

 まさか僕が反抗するなど、予想だにしていなかったのだろう。いつも怯えてばかりだった僕が、こんなふうに返すとは。


「なんだよ、そんな顔して。何か文句でもあんのか?」


 僕は眉ひとつ動かさず、彼に向かってにやりと笑ってみせた。妙に気持ちが軽くて、彼の怒りがどうでもよく思えてくる。


「フレン……貴様、身の程を——」

「うるせぇよ、兄貴」


 と、冷静に切り返してみせる。


「僕が何を選ぼうが、僕の勝手だろ? お前に指図される筋合いはない」


 神殿の空気が再び緊張に包まれる中、ギッシュは震える拳をさらに強く握りしめ、顔を真っ赤にしていた。周りの人々もまた、僕の変貌ぶりに動揺を隠せないでいる。


「ああ、そうだよ。僕はスルースキルを選んだんだ。何か問題でも?」


 僕は周囲に向かって肩をすくめ、にやりと笑ってみせた。

 すると、周囲からまた驚きと戸惑いの視線が集まるのがわかったが、もうそんなものは気にしなくてもいい。


 その瞬間、ギッシュが怒りに任せてヒュッと手を伸ばしてきた。

 胸倉を掴もうとしているのがわかったが——僕の身体はなぜか自動的に半歩後ろに下がり、彼の手を軽々とかわしていた。


「よっと……」

「さ、避けてんじゃねえよ、この雑魚が!」


 怒声と共に、ギッシュの手が次々と迫ってくる。

 ひゅっ、ひゅひゅっ。


 だが、僕はひらりとその手をすり抜けて、気づけば涼しい顔で立っていた。

 相手の動きが見えているように身体が反応している。


「なるほど……これは便利だな」


 スルースキルがもたらす力に、僕は満足げに笑みを浮かべた。

 まず、ギッシュの怒号や威圧感をまるで感じない。

 彼の罵りや高圧的な態度も、ただの風の音に過ぎないかのように思えてしまう。

 これが精神的な「スルー」だ。


 そして、さらに驚くべきは物理的な「スルー」だ。

『避けたい』と思っただけで、体が自動的に動き、ギッシュの攻撃を難なくかわしてくれる。


 目の前で苛立ち顔をして拳を振り上げているギッシュが、まるで滑稽な小芝居に見えてくる。


「ははっ、本当に便利なスキルだなぁ……」


 感動で胸の奥にこみ上げるものがあったが、それすらもどこか淡々とした感覚で受け流していた。涙を流すこともない。スルースキルが、僕から恐怖も、不安も、かつての弱々しい心も奪い去ってくれているからだ。


 こんなにも変わってしまった自分を、ちょっとだけ僕は、どこか冷ややかに見つめていた。


「し、神殿でこのようなこと、やめなさい……っ!」

「おいっ、こらっ!避けてんじゃねえぞ、フレン!」


 僕は、ギッシュの荒々しい動きをサラリとかわしながら、ふと気づいた。心の中に湧き上がるはずの怒りや悲しみ——それが、まったく感じられない。いつも泣きじゃくっていた、怯えてばかりだった自分はどこにもいない。


 そう、僕はスルーしすぎて、悲しみも憎しみも、何も感じなくなっていたのだ。

 ……何も感じなくなるって、意外と怖いものだね。


 今の僕には、感情がほとんどない。

 まるで、心の奥底が冷たく凍りついたかのように空っぽだ。

 まるで殺人鬼にでもなったような虚無感。あれ、これってもしかして……ヤバいやつか?


「はぁ、はぁ……おい、ヨシュア!この家の恥さらしを押さえつけろ!」

「当然だッ!」


 気づけば、僕は兄二人に囲まれていた。

 周りの観客たちはドン引きしているっていうのに、よくここまでやるよなあ。

 家の名誉がそんなに大事なのか?


 僕を見せしめにすることで、失墜しかけたラグドール家の威厳が保たれるとでも思っているんだろう。


 まあ、むしろ逆効果だと思うけど。

 自分たちが周りにどう見られてるかも気づかずに、暴走してるのって怖いよね。


「この野郎……!」


 二人は、僕と違って鍛え上げられた肉体と高い魔力を持っている。小さな頃から、教育係に容赦なく鍛え上げられてきた彼らの身体能力と、全身にみなぎる魔力——身体強化の魔法まで発動させ、今度こそ僕を確実に捕まえようとしているのがわかる。


 これまでの僕なら、あっという間に捕まっていただろう。でも、今の僕は違う。冷静に二人の動きを見据え、ほんのわずかな隙を見て体をひるがえし、スルリとその手から逃れてみせる。


「ほら、どうした?さっきまでの威勢はどこ行ったんだよ?」


 僕は口元に薄い笑みを浮かべ、彼らの怒りがまるで退屈な劇の一場面のように思えた。

 焦りと苛立ちで顔を真っ赤にしている兄たちの姿が、どこか滑稽にさえ感じられる。


「……回避っと」


 軽く呟きながら素早く一歩を踏み出し、二人の脇をスルリとすり抜けた。

 その瞬間、ギッシュとヨシュアは僕が目の前から消えたことに気づかず、お互いの進路を塞ぐように突っ込んでいく。振り返ってみると——


「……っ!?」


 ゴツン、と鈍い音を立てて、二人の頭が派手にぶつかった。


「……うっ……あ痛ぇっ!」

「なんだよ、どこ行きやがった!?」


 二人は頭を押さえながら、痛みと混乱に顔をしかめている。

 何が起こったのか理解できていない様子だ。


 僕はただ肩をすくめ、まるで他人事のようにその様子を眺めていた。スルースキルは、こうして僕に新たな力と余裕をもたらしてくれている。


「はぁ……まさかこれほどとはね。便利だな、このスキル」


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