第4部 分析する春

 私の何を観察するつもりか分からなかったが、ダストは私を椅子に座らせて、そのまま静止しているように言った。彼女が描いているのは人物画ではないから、どういうつもりかよく分からない。そう考えてから、果たして、自分は、彼女の何を、どこまで、どのように分かっているのだろう、という疑問が生じた。


 分からないことの方が多いのではないか。


 それは、彼女に関してだけでなく、自分に関しても、あるいは、この世の仕組みに関しても、そうかもしれない。


 ダストはキャンバスに向かってペンシルを走らせている。私が何も話さないと、聞こえるのは、ペンシルとキャンバスが擦れる音、あるいは、彼女が傍の机から道具を引き寄せる音だけだった。もしかすると、彼女の心音や息遣いも聞こえるかもしれないと思ったが、どれほど耳を澄ませても、それは聞こえなかった。


 天窓から差し込む陽光が、彼女の横顔を奇妙に照らしている。伸びかかった前髪でただでさえ隠れ気味の目もとに、陽光によってさらに陰りが作り出されている。その暗闇の中を、彼女の赤い目が、ときに滑り、ときに踊った。私をモデルにしているというのに、ダストは私の方をあまり見ない。なんとなく、それに耐えられないような気がして、私は口を開いた。


「ダストは、いつもここで暮らしているの?」


 私が尋ねると、ダストは鋭い眼差しのまま、しかしこちらを見ずに、一度頷いた。小さな顎が空間を滑る。頷いたとき、少しだけ上目遣いになったその角度を、私は確かに観測した。


「ずっと、一人で?」


 ダストはもう一度頷く。


 沈黙。


 不意に手を止めて、ダストはゆっくりとこちらを向く。そして、机の上から紙の切れ端を取ると、持っていたペンシルでそこに文字を書いた。



“何か、ききたいこと○あるみたい”



 彼女の言葉を見て、私はそのまま彼女の顔に視線を移す。ダストは、ときどき見せる悪戯っぽい笑みを浮かべて、私の方を見ていた。


「うん」私は素直に答えることにする。「色々、あるよ」



“言ってごらん”



「うん……」私は少し天井の方を見る。「でも、言いたいことはあるけど、どう言ったらいいのか、まだ纏まっていない」



“纏める必要はないよ”



 彼女の文字。



“思ったとおり□言うの○いいよ”



 ダストに言われて、私は、そういうものだろうか、と思った。思ったとおりに言えば良いのだろうか。しかし、思ったことを言葉にしようとすると、必ず、思ったことは思ったとおりの形ではなくなってしまう。思ったことを言葉に変換する過程で、摩擦のようなものが生じ、情報が削られてしまうからだ。


「だから、ダストは話さないの?」


 気づいたときには、私はそう口にしていた。それは、どうだろう。思ったとおりではないかもしれないが、可能な限りで思ったとおりの表現だったかもしれない。


 ダストは、キャンバスに戻していた顔を再びこちらに向けて、紙に文字を書く。



“声□はしないけど、文字□はしているよ”



 そうか、と私は思う。


「じゃあ、どうして声を出さないの?」



“絵○好きだからだよ”



「文字が、絵みたいだから?」



“そう”



「いつから、そうしているの?」



“生まれたときから”



 私は彼女の言葉の意味を考える。


「絵は、いつから描いているの?」



“生まれたときからだよ”



「生まれたときからって、どういう意味?」



“そのままの意味”



「ダストには、家族はいるの?」



“今はいない”



「どうして、いないの?」



“死んでしまったから”



 ダストはずっと表情を変えない。冷たくも、温かくもない表情だった。けれど、その赤い目だけは、ずっと私を見ている。正確には、私の目だけを追っていた。だから視線はずっと交わったままだ。私が右を見れば右へ、左を見れば左へ追従する。私が瞼を閉じれば、その赤い光も同じように瞼によって隠される。


「どうして、死んでしまったの?」



“実験で、失敗したから”



「何の実験?」



“宇宙□行く実験”



「宇宙?」



“そう”



「もう少し、詳しく聞かせて」


 私がそう言うと、ダストは初めてにっこりと笑った。それから、椅子から立ち上がり、私の傍までやってくる。一度私の正面にしゃがみ込んで、下から私の顔を覗き込むと、今度は背後に回り、私の腹部にそっと腕を添えた。


 温かかった。


 彼女の心音と、吐息が、すぐ傍に聞こえた。


 腹部に回された腕の先に、紙とペンシルを持った手が付いている。それらが動き、また文字を生んだ。



“宇宙□行って、そこ□一人の女の子△、保存しておこうとしたんだ。でも、駄目だった。その女の子○、途中で目△覚まして、帰りたいって言ったから。けれど、帰りの分の燃料は、二人分しかなかった。子ども△安全に地球□帰すためには、どうしてもその二人分の燃料○必要だった”



 私の前方で、デスクの手が止まる。


 心音。


 私は少しだけ背後に顔を向ける。


「それで、どうなったの?」


 デスクの手が再び動く。



“女の子は、無事に地球□帰ってきたよ。それで、今も元気に暮らしている。いつか、自分の力で宇宙□行くために、図面△描いているよ。ロケットの図面。でも、ただのロケットじゃない。物体△移動させるには、とても多くのエネルギー○必要で、そんなの一人じゃ無理だから、物体じゃなくて、気持ちだけ△届けるロケット”



 私は黙って彼女の次の言葉を待った。



“君となら、できると思うんだ”



「どうして?」



“宇宙□行った人は、今のところ五人いるけど、私以外、皆、途中でスクール△辞めたんだ”

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2024年12月20日 08:00

言の葉に有らず 羽上帆樽 @hotaruhanoue0908

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