言の葉に有らず

羽上帆樽

第1部 停滞する春

 桜並木の中を私は一人歩いていた。片手に持った鞄を揺らしながら、硬質な地面に硬質な靴底を打ちつける。辺りには誰の姿も見えない。時折風が吹き、桜の花びらが、頭の上を、踊るように、しかし、踊りきることはなく、はらはらと、零れるように滑り落ちていく。空は薄い雲の這った水色の体裁を成していた。空気は朝の温度を帯びて澄み渡り、私の喉にはやや鋭く感じられる。


 手に持った鞄は、一定の周期で、前方から後方、後方から前方へと、放物線を描きながら行ったり来たりを繰り返す。中にはほとんど何も入っていないから、実に軽々しく往復した。スクールから支給された物品は、去るときにすべて返却することになっている。唯一、制服だけが私の所有物だった。


 紺色の、少し長すぎるブレザーの袖を捲って、腕時計を見る。午前十一時半。もう少しすれば昼時だが、あまりお腹は空いていなかった。いつものことだ。私は、ときどき人形のようだと言われる。そのとおりかもしれない。人間らしい特徴が、私にはどれだけあるだろうか。


 そうだ。


 普通に歩むべき人の道からも、私は外れてしまった。


 だから、今、こうして、こんな時間に、こんな場所を歩いている。


 桜並木はずっと向こうまで続いている。振り返っても同じ様相で、もう、どこからどこまで続いているのか、分からなかった。傍にある丘にでも登ってみないと、道の端は分からないだろう。桜が並んだ遊歩道に沿って、左手に川が流れている。遊歩道と、そこから川に向かって形成された斜面以外には、人工的な気配はない。川は、うねり、曲がり、多様なベクトルの組み合わせによって流れている。そのベクトルの有り様を描写しようと試みた者が、果たしてこの町の中にいただろうか。


 歩くのに疲れて、私は途中で立ち止まる。そのまま真っ直ぐ進めば家だったが、帰るのも億劫になり、途中で道を逸れてしまった。川へと続く斜面に至り、その上に腰を下ろす。斜面は、所々にアスファルトに覆われた一帯があり、そこだけ階段のように舗装されていた。土の上に座るのが嫌だったから、私はその舗装された上に腰を下ろした。


 なんてことのない、川と、向こう岸にも同じように続く斜面と、そのさらに向こう側に広がる町並と、


 そして、その背景とでも思えるような、スクールの巨大な壁が見えた。


 再び風が吹いて、少しの間、眼前に桜のフィルターを形成する。


 フィルターが退けば、また巨大な壁が姿を現す。


 私はスクールを辞めてしまった。もともと義務的なものではないから、辞めようと思えばいつでも辞められる。だから、辞めた。言葉にすれば簡単なことだ。しかし、普通辞める者はいない。スクールに通えば、明るい将来が待っていて、そのために今を生きるのがこの町で生きる者の定石だからだ。


 では、それにも関わらず、なぜ辞めたのかと再び考えてみると、それを言葉にするのは難しそうだった。ただ、その場にはいられないという抵抗を覚えたことは間違いない。だから辞めた。やはり、簡単といえば簡単なことだ。


 スクールでの私のスコアは、客観的に見て優秀な方だったと思う。このままスコアを維持することができれば、そのまま一つ上のクラスに進むことも容易だった。けれど、用意された道をそのまま進むことに、果たしてどれだけの意味があるのだろうかと思ったのかもしれない。教えられたことを覚え、与えられた問題を解くことに、果たしてどれだけの価値があるのだろう。


 スクールを去る手続きは、何ヶ月も前から行なう必要があった。その課程で、教官から何度も引き留められた。せっかくのスコアなのだからもったいない、という意味のことを何度も聞かされた。その理屈の成否は私には分からなかったが、どうでも良いことだと思ったことは確かだ。私がスクールを去ろうと思ったことと、スコアとは何の関係もない。


 手続きが停滞したことで、実際にスクールを去る時期が、入学の時期と重なった。皮肉だろうか。ただ、見方を変えれば、美しい終わり方かもしれなかった。縁起を担ぐような趣味は、自分にはないつもりだが。


 手もとにあった適当な小石を拾い上げ、掌の上で転がす。転がすのをやめて、指先でその表面をなぞった。単調ではない、どこか心地の良い質感。とても規則を見出すことは難しいが、それでも何らかの規則を感じさせる表面だった。その質感を確かめることもやめて、私は小石を川に向かって投げる。


 視界に、誰かの陰を捉えた。


 小石が川に沈んだ音が反響したせいかもしれなかった。


 数メートル前方の斜面に、同じように腰を下ろして絵を描いている人物がいた。俯いているせいで、顔はよく見えない。長くも短くもない髪が、彼女の横顔を隠していた。細い首筋が襟もとに見える。華奢であろう身体には少し大きすぎるように感じられる黒地のパーカーを羽織り、その先から僅かに覗かせた細い指で、ペンシルを持ち、スケッチブックにその先を走らせている。衣服とは対照的に、否、ある意味では親和的に、髪は茶色く染まっていた。人工のものか、天然のものか、私には判断できなかった。


 しばらくの間、私は彼女の後ろ姿を眺めていた。


 丸まった背中を。


 じっと……。


 誰もいないはずだった。


 こんな時間に、こんな場所に。


 不意に彼女が顔を上げて、ゆっくりとこちらを振り返る。


 その、赤い目に見つめられて、私は喉が詰まるのを感じた。

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