第四十四話 マイネーム、イズ



 いったいどういう事だ。


 アルテイシアを前に、ヌルスは困惑のあまり立ち尽くした。


 「ようやく会えた」? つまり、自分の事を探していた? 何故? どうして?


 確かに、ヌルスは一度アルテイシアを助けた。だがあの時、彼女は落下の衝撃で気を失っていたはずだ。そうでなかったとしても、彼女の目に映ったのは胴鎧から生える触手の束だったはずである。魔物を討伐しに来たのなら悲しくても理解できるが、しかし、であればわざわざ背後を取っておきながら「ようやく会えた」などと言わないはずだ。


 今も目の前に立つ少女から嫌悪感や敵意は感じない。


 つまり、彼女は言葉通り恩人としてヌルスを探していたという事で、しかし、それにはヌルスを特定するための情報が足りないはずで……。


 理論的な結論を見いだせず、ヌルスの思考は無限ループに陥っていた。


 そんなヌルスを前に、アルテイシアは一度、トンガリ帽子の位置を直すように顔を伏せた。いっぱいいっぱいになっているヌルスには、彼女が大きな帽子のつばに顔を隠して深呼吸している様子は見えない。


 動揺を落ち着けるように深く意識して再び顔を上げたアルテイシア。その瞳には、いささかの迷いもない。


「少し混乱させてしまいましたね。恐らく、何故私が貴方様を探していたのか、そこに至った理由がわからなくて困惑されているのかと思われます」


 言い聞かせるように、静かに、しかしよく通る声で語り掛けるアルテイシア。


 その言葉にヌルスは落ち着きを取り戻す。理由は分からないが、少なくともアルテイシアに今、自分を害する様子がない、というのは間違いないようであるからだ。


 しかし、困った。


 ヌルスは、人の言葉をまだ喋れない。呪文と比べても、人の言葉は複雑に過ぎる。


 身じろぎするヌルスに、アルテイシアは制するように片手を伸ばした。


「お気遣いなさらず。貴方様があまり言葉がお得意ではない事は存じ上げております。何故それを知っているのか、それも併せてご説明させていただきたいのですが、お時間はよろしいでしょうか?」


『……ゥ……ア……』


 せめて返事はしようと思ったものの、思ったように声にならない。しぶしぶ、コクン、とヌルスは頷いて同意の意志を示した。


 途端。


 目に見えてアルテイシアが、固く整えていた空気を崩した。それは安堵によるものだったが、ヌルスはその雰囲気の変化を理解できず、ピクリ、と小さく体を戦慄かせた。


「……では。順を追って説明しましょう。4層で助けていただいた時、私はそれが貴方様であるとは“知りません”でしたが、恩人に礼の一つも言えないようでは淑女としてあるまじき、と思い、それらしき人を他の冒険者に聞いて回ったのです。そうすると、見知らぬ術者に助けられた、という冒険者が、私のほかにも大勢居た事がわかりました」


 それなら心当たりがある。


 襤褸の外套で姿を隠しつつ、窮地にある冒険者を助けて回った。いや、別にピンチを探して回ったのではなく、たまたま居合わせたのを手助けした程度だが……。


 冒険者から敵視されないよう、同じ人間であれば行うべき協調性を見せただけのつもりだったが、思いのほか冒険者の間では知れ渡っていたらしい。


 この様子だと、狙い通りの成果はあったようだが、予想外の方向にも影響してしまったようだ。


「そして、その外套」


 ぴ、とアルテイシアがヌルスの羽織るローブを指さす。


「大分色落ちしているようですが、流石に自分の着ていたものですからね。わかります。助けていただいた後、消化液のしみ込んだ外套を貴女様が持ち去ったのは状況的に明らかでしたから、あとはそれらしき物を所有している人を探せば正解、という事です。多少、手間取りはしましたが。以上が、貴方様を私が探していた理由です。ご納得いただけましたか?」


 ぐうの音もでない。


 ヌルスはこくりと頷いて理解を示しつつ、自分の落ち度に頭を抱えた。いや、触手に頭も胴もないから、気分的に、という事だが。


 言われるまでもないが、元の持ち主なのだから多少色落ちしていても見ればわかるはずである。いいもん拾ったー、と羽織っていたが、状況的に考えれば『私があの時の魔術師です』と喧伝しながら歩き回っていたようなものだ。


 いくら物資不足といっても、もう少し考えるべきだった。


「あ、あの……その。なんかすいません……」


 言葉が通じなくとも、ずーんと落ち込んだ雰囲気が伝わったのだろう。アルテイシアは気の毒そうに眉を顰める。


 気を取り直し、首を振ってしゃんとするヌルス。考えを切り替えるべきだ。


 一番大事なのは、恐らくこの目の前の少女は、ヌルスの事を風変りな魔術師だと思っており、恐らく触手の怪物だとは微塵も思っていない、という事だ。あまりここで変な動きを見せてしまえば勘ぐられる危険性がある。見たところ、この少女……魔術師として相当な腕前だ。この距離は触手を伸ばせば届く範囲だが、相手が高速詠唱の使い手であれば、十二分にヌルスを滅ぼす事が可能なはずである。


 考えすぎだという事はない。魔術師というのは、それこそどんな手札をどれだけ隠しているか、見た目ではわからないものなのだ。ヌルス自身、始原の魔力、というとっておきの切り札を隠し持っている。自爆前提の鬼札とはいえ、魔術師としてはしたっぱもいい所のヌルスであってもそうなのである。正規の魔術師が、どんな札を隠し持っているかなんて、想像すらできない。


 万が一にも正体を看破され、戦闘になる事は避けたい。


 今まで以上に擬態に気を使い、ヌルスは背を伸ばすようにして少女と向き合った。


「ええっと……。その、それでして、私としては一言、お礼を言わせていただきたいと思いまして、こうしてご挨拶に伺った訳です。……危ない所を、どうもありがとうございました」


 ぺこり、と再び頭を下げるアルテイシア。彼女が顔を起こすのを待って、ヌルスは軽く上半身を傾け、左手を胸に当てるような仕草を見せた。相手に最大限の経緯を込めた、挨拶の仕草である。


 書物からの聞きかじりのおぼつかない真似事だが、アルテイシアにはそれで充分通じたようだ。


 ぱあっと花が咲くように笑顔を浮かべる少女に、少しヌルスも嬉しくなる。人間と魔物、交わる事の無い両者であるが、意外と情は互いに通じるようである。ヌルスは少し不思議な気分になった。


《あるいは、私が特殊だからか。冒険者に好かれようなどと思う魔物は他に居まい》


「そ、それでですね。できれば、お名前を教えていただけないかと……そ、その!! ご迷惑で、なければ、なんですが……だ、ダメでしょうか?」


《えっ》


 最後はいささか早口で、前のめりに“お願い”してくるアルテイシアに、再び固まるヌルス。


 別に、それ自体は嫌ではない。むしろ歓迎したいくらいだ。


 警戒は必要だが、直接同じ冒険者、それも魔術師相手に友諠を持てるのなら願っても無いことである。何せ、ヌルスは中級者用の書物をダメにしてしまったので、そこで勉強が止まってしまっている。正規の魔術師にそのあたりを教えてもらう事ができれば、止まっていた魔術の習得もその先に進む事が出来るだろう。


 だが、さっきも言ったように、ヌルスはまだ人間の言葉をしゃべれない。身振り手振りで対応するにも限度がある。


 無言で対応に困っていると、アルテイシアは前のめりのまま、ヌルスの返答を待ち続けている。


 それはそうだろう。彼女が想定しているのは言葉が得意ではない、程度であって、まさか自分の名前すら発音できないとは思いもしない。人間社会については詳しくないヌルスだが、いくらなんでも自分の名前をしゃべれない、なんてのはありえない事ぐらい分かる。


《そうだ、良い物があった!》


 「少し待って!」と身振りで示し、ヌルスは懐から白い紙を取り出した。慌てて取り出したので地図にしていた紙とかもまとめて落ちてしまうが構う事はない。右手の籠手を動かしている触手から黒い粘液を精製し、指先で紙にさっと文字を書く。


 練習の結果、とりあえず文字と認識できるようには書けるようになったそれを、裏返してアルテイシアに見せる。


 彼女の青い瞳がきょとんと見開かれ、その唇がたどたどしく言葉をなぞった。


「……ぬ、る、す?」

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