第十五話 失敗する蟲
《……ふぁ?》
机の上でうとうとしていたヌルスは、不意に目を覚まして困惑に触手を彷徨わせた。
夢と現実の境目が曖昧な寝起き、さきほどまで見ていたのが荒唐無稽な幻想なのか、記憶に刻まれた過去の事実なのか、あるいは今現在進行形の残酷な現実なのか。その判断をしかねて、しばし、混沌とする意識を彷徨わせる。
ふと意識をむければ、机の上には広げたままの本のページ。どうやら、魔術書を読み解いているうちに眠気に襲われ、そのまま眠ってしまったようだ。古びた本のページには、ねっちょりとした粘液がべたりと広がっている。
《やべっ!?》
惨状に眠気が吹き飛ぶ。ヌルスは慌てて乾いた布を用意すると、ぽんぽんと叩くようにして粘液を拭い始めた。普通に拭き取ると、ふやけたインクがいっしょに取れてしまう。
しかし、粘度の高い粘液はそう簡単にはとれず、さらには滲み始めたインクは文字としてぼやけはじめてしまっていた。しばし悩んだのちに、これ以上拭き取るのは諦めて本を乾かす事にする。ページ同士がくっつかないように極力気をつけて天井から吊るすが、すでにくっついたページはどうにもならなさそうだ。
《しまった。なんてことを……》
取り返しのつかない事になってしまった。後悔にぐしゃりとしおれてしまうヌルス。駄目にしてしまったのは初心者向けの魔術所、その中盤ぐらいだが、何事も基礎あっての事。まだ初心者向けの魔術を辛うじて収めた状態で、参考資料を失ってしまっては独学での魔術習得もままならない。
他に資料が無い訳ではないが、そちらは現状解読不能だ。つまらない事で大変な事になってしまった。
《ううぅ……。良い夢を見ていたと思ったんだがなぁ……》
しおしおと萎れるヌルス。あとはもう、乾いた状態である程度解読が可能な事に賭けるしかない。
疲れが残ってる状態で無理に参考書を読むんじゃなかった。後悔先に立たず、とはまさにこの通りか、とヌルスは言葉を残した人類の賢者を思い、さめざめと心で涙した。残念ながら、触手に涙腺はない。
《まあ、読んでも全然理解できてなかったのは事実なのだが……》
現状ヌルスが使えるのは、基本中の基本である“ボルト”と、それを拡散させる“ミスト”の二つだ。それらの詠唱も、正体を隠した状態では勝手が違い、つい最近ようやく成功するようになったばかりである。
その練習にうつつを抜かしすぎて、人間の間で噂になってるぞ、と物好きな冒険者に釘を刺されたのも記憶に新しい。
《……むぅ。しかし、ああいう冒険者もいるのだな》
魔術の事を考えれば、自然と彼らについて思いを馳せる事になる。
正直、前後を塞がれて逃げ場を失ったとき、自分はここまでだと覚悟したものだ。いや、全然覚悟なんかできなくて、ひたすら死の恐怖におびえて震えるだけだったのだが、言葉の綾という奴である。隠れた兜ごと持ち上げられた時は、次の瞬間に激痛が襲ってくるものとばかり思って縮こまっていた。
にも関わらず、冒険者達はヌルスにとどめを刺すような事はせず、彼をその場に置いて去っていった。
一体どういうつもりなのか、未だによく分からない。
変わり者だったのは、まあ間違いないと思う。そうでなければ、一般的に人語を理解していないとされるモンスターに語り掛けるなんて事はしないだろう。
あまつさえ、取りようによっては冒険者自身に還ってくるかもしれない助言をするなど。
かといって、モンスターを支援して人間を合法的に殺そうだとか、そういう危険思想をもっている人間にも見えなかった。
少なくともヌルスから見れば、善良な冒険者の一人……そうとしか表現できない。
《まあ、人間にも色々いる、って事なのかな》
ヌルス、というか触手型モンスターを目の敵にしキルゼムオール、サーチアンドデストロイ! みたいな冒険者がいるのなら、その逆。積極的に害する意思がないのなら放置しておく、そんな冒険者もいる、そういう事なのだろうか。やはり人間というのは、知れば知るほどわからない生き物である。
その個性というか、対応の幅が、脆弱な人間という種が外の世界で大きく反映している理由の一つなのかもしれない。人間自身は、そういった振れ幅を善悪、という概念で寄り分けているようだが。
問題は、ヌルスはどうしたいか、である。
ヌルスは冒険者から害を受け、同時に恩を受けた。それに対し、彼本人はどう振舞うべきなのか。
《……まあ、現状。贅沢は言えないな》
ヌルスはこの迷宮においては弱者である。肉体的には人間よりは頑丈ではあるが、戦えば負けるだろう。であるならば、残念ながら取れる行動は限定される。
何より優先するのは、敵を増やさない事だ。それは誰かに狙われないようにする、というだけでなく、自分からも攻撃対象を増やさない、という事だ。敵意というのは相互補完だ。誰かを敵視すれば、その誰かから敵意を受ける。
状況をおさらいしよう。
迷宮内でモンスターが一致団結するのは、外敵である冒険者を相手にする時だけだ。そうでない場合は、疑似的な生命体としての弱肉強食が優先される。その中で最弱であるヌルスは、いうなれば遭遇する全てのモンスターが敵である。魔術を使えるようになった事で撃退可能な相手も増えたが、どっちにしろ危険な事に変わりはない。
対して、冒険者。こちらはどうか。
確かに、ヌルスのような触手型モンスターを執拗に追撃してくる手合いはいる。が、一方で、敵意を見せなければ攻撃してこない、それどころか友好的に接してくる冒険者もいる事が分かった。魔物としての本能で潜在的な敵愾心は存在するが、理性と知性を得たヌルスはそれを無視して行動する事が可能だ。つまり、少なくともヌルスは、冒険者を敵に回さないよう立ち回る事が出来る。
つまり。ヌルスはモンスターではあるが、冒険者よりも同じモンスターの方が脅威であり、むしろ冒険者と友好的な関係を構築した方が、彼に取って利点の方が大きいのである。
言うなれば、助けられた恩を返した方が、ヌルスにとっては良い方向に話が転がる訳だ。善悪、という概念はまだなじみが薄いヌルスだが、それはいかにも、都合が良い話のように思える。
迷宮に生まれたモンスターとしては間違った行動ではないか、という考えが無い訳でもないが、そもそも一般的なモンスターはそんな事を考えて生活してない。少なくともヌルスが知るモンスターというのは自分の事だけ考えて行動しており、それが結果的に迷宮のためになっているだけだ。裏切り、という概念がそもそも存在するか怪しい所である。
《もともと冒険者に擬態するつもりではいたが。ただ擬態するだけでなく、冒険者に利するように動いた方が、最終的なリターンは大きい……のか?》
触手をこねこねしながら思い悩む。
モンスターとしてふるまえば、モンスターと冒険者、その両方を敵に回す。
冒険者に擬態すれば、少なくとも冒険者との敵対は減らせ、モンスターから生き延びる事に専念できる。
冒険者と協力しあえば、モンスターを相手にする際に助力を得られるかもしれない。
《課題は多いがな》
まずそもそも、モンスターが冒険者を敵視するのは、彼らの最終目的が迷宮の完全消滅であるからである。迷宮が消滅すれば、そこにしか存在できないモンスターは全滅する。勿論、ヌルスもだ。現状のために冒険者と協力した結果、迷宮を攻略されてしまえば結局消えるしかない、それでは意味が無い。
冒険者を知りたい、というのはヌルスにとって重要な行動指針だが、それ以上に、生存こそが優先されるのは大前提である。
それに、冒険者を管理する組織があるはずだ。仮に冒険者に擬態してそのようにヌルスが振舞ったとして、それらが管理下に無い冒険者に対してどのような反応を示すかが分からない。迷宮内での事は不可侵のようだが、かといって登録にない人物が冒険者としてふるまい恩恵を得ていたら、利権の侵害として対応に出てくる可能性はある。それに当の冒険者からも、不審に思われる可能性はある。知らない顔が、知った顔で振舞っていたら、ほかならぬヌルスだって首を傾げる話だ。
そもそも、現状のヌルスでは人間に擬態するのは難しい。ある程度大きくなればサイズはごまかせるが、骨の無い触手の体でどこまで人間っぽく振舞えるだろうか。練習すればなんとかなる気もするが、流石に長期間接してバレない自信はない。
ちょっと考えただけでも色々問題がありそうだ。だが、少なくとも、冒険者を敵に回さないように立ち回る事自体は、ヌルスという個にとってメリットが大きい。
他に思いつく問題としては、そうやって生き延びた結果、ヌルスの行動を表面だけなぞった、いうなれば友好擬態型のモンスターが迷宮に溢れかえらないかという事だが……そんな事まで考えていたら、もはや何もできはしない。
とにかく、今はヌルスという個の生存をこそ最重視するべきだ。好奇心や生きる目的も大事だが、まずは自分が生きてこそだ。
《……結論は出たが、色々考えすぎて触手が絡まりそうだ。少し、気分転換してくるか。しかし、冒険者が話していたがあの地底湖が3層で、私の生まれた場所は二層らしいな……。もっと深い所かと思ったが、すぐ下だったとは》
しおしおになった体にむん、と力を入れて起き上がる。机に立てかけていた杖と触媒の袋、スクロールをいくつか手に取ると、ヌルスは出かける事にした。
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