第40話 事件2  『妻を追いかける』

「応急でアロエを塗っておきましたので……」


弟の火傷の手当てをしてくれたタエが、気まずそうに僕たちに頭を下げた。


「あぁ。ありがとね。夜分に仕事させて済まなかったね」


「そんな……若旦那様、とんでもございません。また何かありましたらお呼びください。では、失礼します」


 頬を赤らめて、部屋を出ていこうとするタエを、宗一が、「ねぇ」と呼び止めた。


「……なんでしょう?」


 宗一に熱を上げている女中は多いと聞くが、タエもその一人なのだろう。宗一の目をまともに見ることさえも出来ないその姿は、琴子や僕に対する態度とはかなり違う。


「君が義姉さんにアイロンを教えたんだよね?」


「え、ええ。若旦那様のシャツは、ご自分でなさりたいと仰ったので」


 女中が何人もいる家で、そのような事をやりたがる所が琴子らしいと思った。


「君も、まさかアイロンが凶器になるとは思ってなかったんだろうから。今夜のことは気にしないでね」


 気遣ったつもりの宗一の言葉に眉をひそめるのは、僕だけではなかった。

部屋で待機している添田や父さん、そしてタエ本人も。


なぜ、場が気まずくなるような事を敢えて言うのか。

この時、宗一の目はすっかり乾いていた。


「……私は、奥様が故意にそのような行動に出られたとは信じられません。倒したり誤ってこのような事態になったのだと、そう思っております」


 笑顔を消し、ムッとした様子で宗一がそっぽを向いた。


 襖が閉まり、タエが立ち去るのと同時に、「おかちめんこが……」と呟いたのは、聞き間違いだったのだろうか。


「それにしても、琴子さんは何処へ行ったんだ? こんな時に風呂か?」


 琴子を諌め、しばらく実家に戻るように言った父さんが首をかしげる。


「もしかして……あのまま出ていった?」


 僕は、衣紋掛けの、彼女の外出用の羽織を見て、″まさか ″ と思った。


 外は先程から吹雪いていて、すきま風で窓の障子がカタカタと揺れている。


「……いや、この夜更けに雪の中、出かけていくわけなかろう……」


 父さんも急に弱い口調になった。


「車も出た様子はないですね」


添田の言葉に、僕は居ても立ってもいられなくなり、彼女の羽織を持って探しに行こうとした。


「兄さん!」


 宗一が、僕の上着の袖を掴んだ。


「雪。積もるよ。こんな夜に出ていってしまっては風邪をひくよ」


 思いの外、強い力に一瞬たじろぐ。


「それなら琴子も同じだろう」


「あんな、残酷で、しかも盗人かもしれない人なんて、もう連れ戻さない方がいいよ」


 先ほどまで泣いていたとは思えない、鋭い眼光。


 “ 盗人” ——。


『僕が、蔵の在庫数が合わなかったのは、義姉さんが実家のために持ち出したからじゃないかって疑ってしまったから』


 さっき。


『少し冷静になるために明日から、少しの間、実家に戻られてはどうだね?』


 父さんの提案に絶望する琴子の目とぶつかって、僕は小さく芽生えた彼女への疑念を逆に疑った。


 男として十分に機能していない夫の元から離れることに、何をそんなに悲しくなる必要があるのか。

 そして、こんな僕でも少しは愛されているのかもしれない、と。

 そのような寛大な心を持った女が、怒りに任せて、人を傷つけることをするだろうか。

 

 しかし、宗一のただれた火傷を見れば、弟がわざわざそんな嘘をつく理由がわからず、それを言葉にすることが出来なかった。


「お前が何て言おうと、琴子を連れ戻すよ」


 父に頼んで、車(馬)を出す手配をして貰い、上着を羽織る僕の腕に宗一がしがみつく。


「なんだ、お前は」


 子供か。それとも女か。


「手がジンジンして痛いんだよ。こんなんじゃ眠れない。それなのに一人にするの?」


 前から薄々感じていたが、宗一の僕への甘え方は少し変だ。


「それだけ酷い火傷なんだ。暫くは痛むよ。明日、朝一で病院連れて行くから」


「傷物になった僕より、あんなコソ泥を大事にするなんておかしいよ」


「コソ泥……」


 再び、宗一の大きな目に涙が溜まっていく。


「宗一くん」


 ずっと口を挟まなかった添田が、低い声で言った。


「在庫の件で、貴方にお聞きしたいことがあります。火傷が痛むでしょうが、僕の質問にお答えいただけますか?」


「……え」


 僕の腕に絡んでいた手から、スッと力が抜けていくのを感じた。

 宗一の全身が地蔵のように固まっている。


「添田、後は頼む」


 襖を開けると、侵入してきた外気で、廊下は冷え冷えとしていた。










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