第10話 食材の探求 ―Secret Kitchen―
「よし、今日はここまでにするか」
薬草採取の依頼を終え、いつもの野営地へと向かう。背中の道具袋が心地よい重みを持って揺れている。以前なら、この重さに息を切らしていただろう。でも今は、まるで羽のように軽く感じる。
人目につかない小高い丘の裏手。茂みに囲まれたここは、俺の秘密の実験場だ。周囲を警戒しながら、手慣れた様子で野営の準備を始める。
「随分と道具が増えたもんだな...」
広げられた道具を見渡しながら、苦笑する。コンパクトな小型鍋に折り畳み式のフライパン。様々な香辛料の詰まった革袋。薬味を刻むための専用の包丁まで。この数ヶ月で、少しずつ揃えてきた戦利品たちだ。
全て軽量で携帯に適したものばかり。値は張ったが、その価値は十分。マリアさんから教わった料理の基本を、ここで活かすための必需品だ。
「では、始めるか...」
まずは火起こし。火打石で火種を作り、乾燥させておいた薪に移す。炎が安定するのを待って、今朝仕入れた素材を取り出していく。
ダイアウルフの筋肉は薄く切り分け、強火で手早く炒める。
トロールの皮は、柔らかくなるまでじっくりと煮込む。
ハーピーの心臓は特製スープの具材として、最後に加える。
「この香辛料で...」
マリアさんから譲り受けた秘伝の調合を加える。獣臭さを消し、素材の力を引き出すための技。
火加減を見極めながら、加護で得た知識を頼りに調理を進める。以前より確実に、腕は上がっている。料理の基本が、こんな形で活きるとは思ってもみなかった。
「いただきます...」
完成した料理を口に運ぶ。前よりも繊細に、体の中に流れ込む力を感じ取れるようになっていた。
(来る...!)
ダイアウルフの筋肉から放たれる力が、脚に集中する。
トロールの皮から染み出す堅牢さが、全身を包み込む。
ハーピーの心臓がもたらす鋭敏な感覚が、神経を研ぎ澄ませていく。
「ノクトゥルナ様...」
密かな祈りを捧げながら、次の一皿の準備に取り掛かる。夕陽に照らされた調理器具が、赤く輝いている。
調理の香りが漂う中、俺は突然の物音に耳を澄ませた。
茂みの向こうで、枝の折れる音。
(来たか...)
実は、この匂いに惹かれて現れる魔物がいることは、うすうす気付いていた。今まで何度か気配を感じていたが、今日はどうやら──
「ギィッ!」
三体のゴブリンが、一斉に飛び出してきた。それぞれが粗末な棍棒を手に、獲物を狙う目で俺を見据えている。
(ふん...最初の時とは違うぞ)
あの日、初めてゴブリンと対峙した時の恐怖や躊躇いは、もうない。むしろ、冷静に状況を分析できている自分に驚くほどだ。
「おらぁっ!」
オークの肉で強化された腕の力をその身に宿しながら、棍棒を振り回す。
最初の一体は、まるで布切れのように吹き飛んだ。
「ギャァッ!」
残りの二体が驚愕の声を上げる。逃げ出そうとする様子。
だが、そうはいかない。
「はっ!」
ダイアウルフの力で強化された脚力を爆発させ、一気に間合いを詰める。
地面を蹴る足に、ありえない推進力が生まれる。
「そこだ!」
横薙ぎの一撃。ハーピーの心臓で得た反射神経が、完璧な打点を捉えていた。
二体を同時に薙ぎ倒す。
「ギィ...」
気絶したゴブリンたちを前に、ふと考え込む。
(本当に、随分と変わったもんだ...)
最初の戦いの時は、たった一体相手に命懸けだった。汗を流し、震える手で必死に戦った。
それが今では、三体を相手に余裕すら感じる。
「申し訳ない...だが、無駄にはしない」
倒れたゴブリンたちの体から、使える素材を探る。
もう、この作業に嫌悪感はない。
これもまた、この世界で生きていくための必然なのだから。
しかし、祈りだけは欠かさない。
彼らの命も、確かな糧として受け継ぐ。
手早く現場を片付け、火を消す。
今夜の研究は、ここまでにしよう。
帰り道、雲間から月が顔を覗かせる。
体の中で脈打つ力は、確実に成長している。
それは、布教という大きな目標のための、着実な一歩。
この道の先に、きっと希望がある──
そう信じながら、静かに歩を進めた。
*
数カ月後。
「はあぁっ!」
俺の振るう鉄のメイスが、轟音と共にトロールの膝を砕いた。
(基本を忘れるな...マリアさんが言ってた通りだ)
数ヶ月の間に、確実に力をつけてきた。
オークの筋力、ダイアウルフの脚力、ハーピーの反射神経。
様々な魔物から得た力が、今の俺を形作っている。
「グオォォッ!」
怒り狂うトロールの咆哮が、森を震わせる。
だが、バットデーモンの耳で強化された聴覚は、その轟音の中にも、奴の次の動きを読み取っていた。
(来るぞ...右腕からの大振り!)
イーグルハーピーの目で得た視覚強化のおかげで、巨大な敵の動きも手に取るように分かる。まるでスローモーションのように。
討伐報酬で手に入れた鉄のメイス。最初は重すぎて扱いきれなかったこの武器も、今ではホブゴブリンの腕筋による武器操作の安定性のおかげで、まるで体の一部のように振るえる。
「そこだ!」
膝を潰されたトロールが、大きくバランスを崩す。
今だ──ストーンゴブリンの筋繊維で得た握力が、メイスを完璧な軌道へと導く。
「おりゃあっ!」
渾身の一撃を、トロールの頭部に叩き込む。
長期戦での疲労も、ヒールスライムの核で得た回復力のおかげで気にならない。
「ドガッ!」
衝撃と共に、巨体が地面に崩れ落ちる。
俺の体にできた小さな傷も、レジェネレーター・ワームの効果で既に癒えつつあった。
「ふぅ...」
汗を拭いながら、倒れたトロールを見つめる。
つい数ヶ月前まで、ゴブリン一体に命を懸けていた自分が、今では銀級冒険者でさえ躊躇うトロールを、たった一人で仕留められるまでになった。
シェイプシフターの核で得た筋肉の柔軟性を活かし、体をほぐす。
「申し訳ない...でも、お前の命も無駄にはしない」
倒れたトロールに祈りを捧げ、解体の準備を始める。
加護による鑑定で、最も有効な部位を見極めながら。
(これも、まだ通過点に過ぎない)
もっと強大な魔物との戦いは、これから先にある。
でも今は、一歩一歩、着実に。
夕暮れの中、獲物を担いで街路を歩く。
もう、俺の歩みに迷いはない。
(次は何を...)
夕陽に染まる鉄のメイスが、赤く輝いている。
まるで、これまでの成長を祝福するかのように。
*
「あなた、魔物の肉を食べてるでしょう」
夜更け、突然のマリアさんの声に、俺の心臓が跳ね上がった。
暖炉の明かりが揺らめく中、彼女の表情は普段の優しさを失っていた。
「え...」
言葉が出ない。心の中で必死に言い訳を探すが、喉まで出かかった嘘が、マリアさんの真剣な眼差しに押し戻される。
「否定しなくていい。私には分かるの」
暖炉の炎が、マリアさんの横顔を赤く照らしている。まるであの日の...火の魔法の光のように。
「短期間での成長が、あまりにも急激すぎる。最初はゴブリンにも苦戦してたのに、今やトロールを単独討伐?普通の修行じゃ、そこまで強くはなれない」
マリアさんの言葉には、確信と...そして悲しみが混じっていた。
「既にギルド内でも噂になってるわ。『あの若造、なぜあそこまで強くなれた』って」
マリアさんの目が、暗い色を帯びる。
その瞳に、過去の影が揺れているのが見えた。
「光耀神教会の異端審問官も、そろそろ目をつけ始めてる。私には分かるのよ。かつて、同じ目で見られたから」
「マリアさん...」
「あなたには、旅立ってほしい」
突然の言葉に、目を見開く。
「ここを離れて、辺境へ。この街には、もう長居はできない」
「でも...」
「昔のように、大切な人を失うことになるかもしれない。それだけは...」
マリアさんの声が震える。
左腕の火傷痕が、暖炉の明かりに浮かび上がり、その痛ましい過去を物語っているようだった。
「準備はできてる。明日の朝一で、商人の荷車が東へ向かう。私から話は通してある」
「マリアさん、俺...」
「ありがとうとか、さよならとか、そんな言葉はいいの」
立ち上がったマリアさんは、奥の部屋へと消えていった。
すぐに戻ってきて、小さな包みを差し出す。
「これ...」
「開けるのは、街を出てから。私からの...ただの餞別よ」
その言葉の意味を、胸が締め付けられる思いで理解する。
きっと、あの頃と同じような...。
まだ暗い空の下、俺は必要最小限の荷物をまとめていた。
調理道具、野営の装備、戦利品として得た武具。
そして、マリアさんからの包み。
手に取るものの一つ一つに、この街での思い出が詰まっている。
調理場での失敗、野営での実験、戦いでの成長...。
全てが、今の俺を作り上げてきた。
「行く時間ね」
背後から聞こえた静かな声に振り返ると、マリアさんが立っていた。
暗がりの中でも、その瞳が潤んでいるのが分かった。
「マリアさん...」
言葉が詰まる。
どれだけ感謝を伝えても足りない。
この人がいなければ、俺はここまで来られなかった。
「本当に...本当にありがとうございました!」
深々と頭を下げる。
目から零れ落ちる涙を、もう止めることはできない。
「ばか...」
マリアさんの声も震えていた。
「あんなボロ布みたいな少年を拾って、面倒見て...私の方が、充実した日々を過ごせたのよ」
「違います!」
顔を上げると、マリアさんも涙を浮かべていた。
「俺に家族を...家を...全てをくれたのは、マリアさんです。料理のことも、生きることも、優しさの大切さも...」
声が掠れる。
もう、感情を抑えきれない。
「俺の...俺の母親は早くに亡くなって、よく覚えてないんです。でも、きっとマリアさんみたいな人だったんだと思う」
「ユウト...」
マリアさんが強く抱きしめてくる。
その温もりは、確かに母のものだった。
「もういいの。あんまり泣くと、商人の荷車が出てしまうわ」
「はい...」
別れを惜しむように、ゆっくりと身体が離れていく。
この温もりが、最後になるのかもしれない。
「強くなりなさい。でも、その優しい心は忘れないで」
「はい」
「困ってる人がいたら、助けてあげて」
「はい」
「そして...」
マリアさんの声が、かすかに震える。
「いつか、元気な姿を見せに来なさい」
「約束...します」
今度は俺の方から、強く抱きしめた。
「行ってきます」
背中に荷物を背負い、夜明け前の街へと足を踏み出す。
一歩一歩が重い。
振り返るたびに、マリアさんが家の前で手を振っている姿が見える。
(必ず...必ず戻ってきます)
心の中で何度も誓う。
その時は、もう誰も傷つけることなく。
布教を成し遂げ、堂々と胸を張って。
そして、マリアさんの信頼に応えられる人間になって。
薄暗い空の下、商人の荷車が動き出す。
車輪が軋む音が、妙に心に染みる。
窓辺に立つマリアさんの姿が、次第に小さくなっていく。
この街での思い出が、走馬灯のように駆け巡る。
初めて料理を教わった日。
失敗ばかりしていた台所での日々。
少しずつ腕を上げていく喜び。
そして、あの暖かな家での夜。
全てが、俺の大切な宝物だ。
マリアさんが教えてくれた全てを胸に、
これからの道を歩いていこう。
朝もやの中、荷車は東へと向かって走り続ける。
朝日が地平線から顔を覗かせ始めた。
新しい一日の始まりと共に、俺の新たな冒険も動き出す。
その道がどれほど険しくても、
今の俺なら乗り越えられる。
なぜなら、確かな絆を、強さの理由を、
そして帰る場所を手に入れたのだから。
荷車は東へ、
朝日に向かって走り出していく。
その先にある未知の世界で、
俺は必ず強くなる。
そして、いつかこの街に、
マリアさんの元に戻ってくる。
それは誓いであり、
約束であり、
そして、息子から母への
固い決意だった。
朝日が、新たな旅立ちを
金色に輝かせながら、
包み込んでいった──。
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