16

 全然足のつかない、深い深い水底で溺れている感じがした。その中で、確かなものは男の言葉だけ、みたいな。だから俺は、男の言葉に縋りつきそうになった。首を縦に振りそうになったのだ。それ以外に助かる道はないような気がして。でも、辛うじてそのアクションを起こす前に、なんで、と、言葉を吐きだすことができた。言葉は牡蠣殻みたいにごつごつと喉を傷つけた。

 「なんで?」

 なんで、俺と寝たがる。俺は、彼の弟ではないし、ただのつまらない男でしかないのに。抱かれたところで、どうせ面白い反応もできない。

 「興味。」

 男は日向の猫みたいに笑って言った。やっぱり、とても簡単なことを説明しているような口ぶりで。

 「コースケも興味ないの? きみのお兄さんが、なにもかも捨てて売春してまで抱きたかった身体だよ。」

 抱いてみなよ、と、男は林檎でも齧るような簡単さで俺を誘惑した。

 できない。俺はそう口にしかけた。俺は男を抱けない。試したことはないけれど、確信はあった。男は、抱けない。けれど、その前に男が、俺の頭の中なんて百も承知みたいなあっさりした口調で、試してみたら? と言ってきた。苦手な食べ物を子供に食べさせようとする、やさしい保育士みたいな物言いだった。この男は、こうやって何人もの男を毒牙にかけてきたのだろうと思った。一度抱いたら、抜け出せなくなる。この男から離れられなくなる。それこそ、なにもかもを捨てて、売春してでも。この男の身体のどこにどんな魔力が潜んでいるかなんて全く分からないけれど、俺はそう確信した。兄貴も、こんなふうに誘惑されたのかもしれない。誘惑したら、簡単に落ちた、と、男は確かにそう言った。だから、俺は男から身体を離した。抱かれていた腰が、男の腕から離れると、妙に冷たく感じられることに驚く、冷たさは、どこか寂しさに似ていた。

 「……兄貴を、返して。」

 喉がつぶれそうだった。この男にいくら訴えたところで無駄だと分かっていた、兄貴は、自分の意思でここにとどまり、身体を売り、この男を養っているのだ。男も、つまらなそうに肩をすくめ、康一次第でしょ、と、投げ出すように言った。俺は、その退屈げな物言いを聞いて、幻滅された、と思った。そしてその直後に、そう思った自分が怖くなった。この男に幻滅されることは、どうやったって自分にとってマイナスにはなりようがないのに、それを怖れるなんて、もう半分くらいは自分がこの男に取り込まれていると思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る