16.道は2つ
シャオヤオにとって重要なのは弟のムーダンだ。
彼の安全と生活、次にムーダンを支える自分の事。
全てはこの前提にあり、少しの余裕はその先にある話。
「いつも同じ部屋でアンタといつもと同じのやり取りはいい加減飽きたわ。王宮見学もした事だし、たまには外に連れてってくれない?」
ダスティシュから正式に暗殺の決行を言い渡されてから、そのダスティシュと皇太子を見送る際、シャオヤオは皇太子にだけ聞こえるようにそう呟いてみた。皇太子が「また明日来るよ」なんて言うから…。
小声だったがちゃんと聞こえたらしく、僅かに目を見開いた皇太子はニッコリと笑った。了承の意味だろう。多分。
場所の変更を求めたのは、何となく、この屋敷で…エリム夫人や見知った使用人達の目の前で事に及ぶのは気が咎めたから。ちょっとした気まぐれだ。感傷なんてない。さっさと済ましてムーダンの元に帰る。それだけ。
「姫様、ラウレンティウス殿下より招待状が届いております」
「招待状?」
いつもの通り無感情に過ごしていると、エリム夫人が皇太子からの手紙を持って来た。
ここに来てほしいと、本日会う場所が記されている。屋敷まで迎えに来て皇太子がそこまで連れていくのではなく、皇太子が整えた場所へシャオヤオが出向く形になる。呼び出し状ではないかと思うが、エリム夫人が招待状と言うのならそうなのだろう。
「小門近くの城壁の上?」
「あそこなら一望できる景色は素晴らしく、正門と違って扉が小さく人の出入りが少ないですから人目もあまり気にする必要がございません。ふふっ、逢瀬にはぴったりの場所ですわ」
馬車の手配をしてまいります。そう言ってエリム夫人が部屋から出ていく。心なしか足取りが軽やかだ。本当に、可愛らしいお婆様である。
そんな彼女を眺めるのもこれで終わり。
場所を聞いて、シャオヤオは今日の内に仕事を終える事を決めた。
そこは暗殺そのものより、その後の逃走ルートとして現状確認出来た中では最適だと判断していた場所だった。城壁は高いが下には十分な深さと水量がある堀があって飛び降りられるし、帝都の外へ流れる水路に繋がっているのでそのまま脱出する事も出来る。そして城壁の外側の人は少ないときた。
王宮の何処で事を済ませても、逃げる時には最終的にそこを通るだろう。不安要素はそこへ辿り着くまでの衛兵をどう掻い潜るかと言う点のみ。王宮側とてバカではない、そこが尤も逃げられやすい所と把握した上で内側には人を多く配置している。
それが今回、当の暗殺対象である皇太子によってその城壁の上へと招待されたのだ。シャオヤオの素性の事もあって、皇太子はシャオヤオと会う時は可能な限り人を排すので衛兵の数も少ないはず。
要は事を成して、後は飛び降りるだけ。
こんな機会を逃す暗殺者はいない。都合が良過ぎる状況に罠の恐れも考えるが、必ず掻い潜ってみせよう。
場所によっては延期も考えていたのに、何でよりによってそこを選ぶのかな。あの皇太子は…。
屋敷から城壁まではそこそこ距離がある。歩けなくはないがお姫様とはこう言う時、馬車を使う。
エリム夫人が用意した馬車に乗り込んで、案内されるままに移動する。その城壁が逃走するには最適だとか、シャオヤオが夜な夜な屋敷を抜け出して王宮を探索し把握している事は当然ながら秘密なので、城壁には初めて行く体でいなくては。
「私の…サモフォルの姫の教育が失敗したら、エリム夫人はどうなるの?」
ふと、過ぎった思いがそのまま口から出てしまった。
しまったと思ってももう遅い。しっかりと聞いたエリム夫人が一瞬キョトンとした表情になるが、すぐにニッコリと笑う。
「姫様は今日までの短い期間で見違えるようにご立派になられました。既にわたくしの教育は成功しているのです。ありもしない失敗をお気になさる必要はございません」
「…そう」
「はい。本当に、姫様は素質の塊でいらっしゃる。こんなにも教師の鼻を高くしてくれる生徒はおりませんわ」
エリム夫人はニコニコとそう告げる。
そう言う事じゃないと、シャオヤオは喉まで出かかった言葉を今度はしっかりと飲み込む。
エリム夫人が教育したサモフォルの姫が、帝国の皇太子を害したらどうなるか。その責任を追及されるのではないかと、思ったのだ。
エリム夫人は平民を父に持つ平民育ちの孫を抱えている。平民であるシャオヤオの教育を引き受けたのも、孫の為に功績を立てたかったからだ。シャオヤオが事を起こせば、平民育ちはやはり当てにならないとなり、彼女の孫も彼女自身にも何がしらの不利益を被る事になるのではないだろうか…。
いや、違う。
そもそも皇太子が害された時点で、帝国全体の不利益なのだ。
シャオヤオはエリム夫人にそうと気付かれずに自分の手を強く握り締めた。
自分は仕事をこなすだけ。雇い主の命令を遂行するだけ。
それ以外の事は考えない。関係ない。彼等の悩みや事情は自分には関係ない。
自分はただ弟を守る。
「ようこそ、シャオヤオ」
不覚にも揺らいだ気持ちを早急に立て直して、シャオヤオは招待された城壁の上まで来た。
シャオヤオを見るや、皇太子は両の手で出迎える。周りを見渡せば案の定、衛兵の数は減らされ護衛の姿すらない。安堵するよりも呆れる。
「無防備にも程があるでしょ…」
「珍しくシャオヤオが可愛らしくおねだりしてくれたんだ。叶えるのが男の甲斐性と言うものだろ?」
「暇人」
「酷いな、これでも結構忙しいんだぞ」
「どうだか。私の教育課程なんてエリム夫人からの報告だけで十分だったでしょうに、それを毎日毎日、わざわざ私の所に来て無駄なお喋りしていたじゃない」
「お喋りはシャオヤオの息抜きも兼ねていた。それに情報や報告は鵜呑みせず、全てではないにしろ自分の目で確かめる主義でね。皇帝は恩恵を受ける地位の者が怠惰である事を許さない。それでいて当の本人は仕事が趣味な仕事中毒者だから、匙加減が壊れているんだ。まぁかく言う俺は情報集めが趣味かな」
「情報集め?」
「全てを知っておく事は不可能だ。でも俺はね、自分が知らずにいたせいで良くない事が起きたって言うのが一番嫌いなんだ」
そう言いながら皇太子は、眼前に広がる城下ではなく何処か遠くを見つめていた。エリム夫人が言っていた通り、城壁から一望できる帝都の街並みと更に奥に見える山々の景色は素晴らしい。フリーデン帝国の栄華がそこにはあって、誰もが目を奪われるだろう。
それなのに皇太子は別のところを見ていた。彼が何に想いを馳せているのかは分からないが、意識もそちらを向いているのならシャオヤオにとってはそれだけで好都合。
今ならやれる。
シャオヤオはエリム夫人にも気付かれないように、忍ばせていたナイフに手を伸ばす。なりすまし生活でシャオヤオには沢山のドレスが用意されていて、その日どれを着るかは世話係が選んでいた。だから事に及ぶのがどのドレスの日であってもいいように、武器を何処に仕込めるか全てのドレスをシャオヤオは確認していた。今着ているドレスなら、腰の布地が重なった箇所。
その武器も、建国祭の時に使っていた物は当然ながら取り上げられていたので現地調達した。ダスティシュに頼めれば一番楽だったが、一番頼りに出来ないのがあのおっさんである。
忍ばせた武器は屋敷から出る際に掠め取った、部屋に常備されていた果物ナイフ。殺傷性は劣るが首の太い血管でも狙えば一撃で仕留められる。
そうした後はこの城壁から下の堀まで飛び降りるだけ。これで帰るのだ。
余計な感情や思考を排除して、シャオヤオはナイフの柄を強く握る。
リンッーーー
鈴の音。
あらゆる音の隙間を縫ってシャオヤオの耳へ的確に滑り込んで来たそれは、あの時…縦ロール令嬢、いや、刺客が現れた時に聞こえたのと同じ鈴の音。
あの時は音を追って振り返り刺客に気付く事が出来たが、今回は違う。
殺気を散らされた…。高めた集中が強制的に鈴へ向かされ、身体が一時的に硬直する。
暗殺が、止められた。
「シャオヤオ」
皇太子に名前を呼ばれて身体が跳ねる。それで身体の強張りは解けたが、たった今起きた事態にシャオヤオは動けずにいた。
額に汗かくシャオヤオに気付いているはずの皇太子は再び名前を口にする。
「シャオヤオ。悩んでいる事はないか? 不安に思っている事も。前にも言ったけど、君が望んでくれたなら、君の尤も望ましい形や方法で俺が解決してあげよう」
「…は?」
「こうしている今でも知りたい事があるんじゃないか? 君が知りたいと思っている事の大抵を、俺は知っていると思うよ」
「私が、知りたい事…」
それは当然、ムーダンの事。
今どうしているのか。無事なのか。ちゃんと食べているのか。
知りたい。今すぐに、何よりも優先して。
悩みや不安も同じ。ムーダンのこれからの事、病気の事、上げればキリが無い。
シャオヤオにとっては当然で当たり前の事。
同時に、他人にとってはどうでもいい事。目の前にいるこの国の皇太子にとっても…。
「私の悩みは、お綺麗な世界で不自由なく生きてきた皇太子には分からない」
「確かに食うに困った事はないな。でもそう綺麗でもそう自由でもないよ。シャオヤオには俺の手が綺麗に見えるのか? 直接手に掛けるだけが手を汚すとは、俺は思わないけど」
「民の命を背負っているとでも言いたいのでしょう? 確かに重いでしょうし、私には分からない。でも人に守られ、人を使い捨てていく立場には違いない。そんな立場の人間が私に踏み込んでこないで」
「…そうか」
皇太子が少しだけ俯く。表情は微笑んでいるけれど、何処か落ち込んでいるような気がした。
いや、そんなのはどうでもいいとシャオヤオは周囲の気配を探る。あの鈴の音は、何処から聞こえてきたのか。二度ある事は三度あると言うが、三度目などいらない。二度で十分。
あれは確実に、何者かにより意図して鳴らされた音だ。
人の、シャオヤオの意識の隙間を縫って耳と脳に響かせ、思考や動きに影響を与える。しかも姿も気配も現わせずに。そんな神懸かりの芸当、聞いた事もないし出来る気もしない。
そんな事が出来る時点で相当の手練れだ。そんなのが近くに潜んでいるなんて、冗談どころの話ではない。生きた心地すらしないではないか。
「シャオヤオ」
三度、皇太子に名前を呼ばれる。
シャオヤオにとっては緊張を強いられる状況で、邪魔をするなとつい睨んでしまう。
「命令に従ったところで、ダスティシュはムーダンの現状を何も知らないぞ」
皇太子が言った事を、シャオヤオはすぐに理解できなかった。
したくなかったのかもしれない。この男の口からシャオヤオにとって何よりも大事な名前が出てきた現実を。
「何で、知って…」
「何で、知らないと思っていた?」
無理矢理絞り出して擦れたシャオヤオの声。皇太子は気にする様子もなく、まるで初めからそうなると分かっていたかのように平然としていた。
「シャオヤオの目の前で言ったはずだ。ダスティシュは家に帰れていなければ、連絡も取れていないと。それは君が姫として王宮に入ったあの日からだ。あの日からムーダンの事に限らず、奴はありとあらゆる情報から遮断され指示の一つも出せていない」
君なら気付くと思ったのだけどな。
僅かに首を傾げる皇太子を、シャオヤオは茫然と見ているしか出来なかった。
「目の不自由な子供が長い間放置されたらどうなるか、あの男だって分からないはずはないだろう。それで、君の人質として扱ったんだ」
皇太子の表情にはいつものニヤニヤ顔はなかった。薄い笑みこそ浮かべていても、その青緑の瞳に笑みはない。初めて会った時に垣間見た、真の支配者の迫力がそこにあった。
シャオヤオは無意識に一歩下がる。
何故気付けなかった? そう疑問に思うと同時に、府に落ちた。
違和感の正体。
皇太子、セドリック、そしてエリム夫人。よくよく考えたら、あの如何にも無能と言った失言も多いダスティシュ如きを彼等が信頼していると言う方がおかしな話だ。シャオヤオは雇い主としてと、領主としてのダスティシュしか知らない。有能だと思った事は一度もないが国としては使える何かを持っているのかもしれないと、そう言う事もあり得るだろうと、皇太子がダスティシュを重宝しているかのような言葉を使っても聞き流していた。
実際はそんな事、全く無かったのである。
シャオヤオは拳を握りしめ、正面の皇太子を見た。
ムーダンの事を目の事も合わせて知っているのなら、シャオヤオの雇い主がダスティシュである事も知っていると考えていい。それはいつから? 愚問だ。最初からに決まっている。
最初から、全てこの男の掌の上で転がされていただけと言う訳だ。
何故初めの時点でシャオヤオとダスティシュを捕らえなかったのかとか、シャオヤオをサモフォルの姫に仕立て上げるなんて面倒な事をしたのかとか、色々と疑問はあるが問答は不要。無駄だ。
気配すら掴めない鈴の者。こいつがいては皇太子を仕留めるのは不可能だ。それだけは分かる。シャオヤオの暗殺者としての経験がそう断言している。
敗北。
シャオヤオに残された道は2つ。逃亡か、死か。
死にはこの場で自刃するか、投降して皇太子暗殺の罪で斬首されるかのどちらかだ。逃亡も、失敗して途中で捕まればやはり死。極めて死に偏った選択である。
でも死ぬ訳にはいかない。少なくともここでは。
せめて、せめてムーダンを安全な場所に逃がすまでは僅かな可能性でしか無くても生き延びる道を選ぶ。
「シャオヤオ、ムーダンだが」
「ムーダンに何かしたら殺す」
殆ど反射的な応えだったが、口を開く動作に合わせてシャオヤオは取り出したナイフを皇太子に向かって投げた。
当てはしない。ナイフは皇太子の顔すれすれを通り、僅かに髪を切っただけ。殺気がないからか、鈴の者が動く気配もない。
しかしこれも反射的なモノで、飛んできたナイフを皇太子は咄嗟に避けようとしてよろける。
シャオヤオに必要なのはその僅かな隙。
皇太子から見れば、瞬き一つでナイフが飛んできて、瞬き二つでシャオヤオが城壁の胸壁部分に足を掛け乗り上がって、瞬き三つで彼女が城壁から外側へと飛び降りていた…と言ったところか。
「シャオヤオ!?」
背後に遠ざかる皇太子の声が聞こえたが、当然ながら振り返る事はない。引かれる後ろ髪なんてないし、迫りくる水面に集中しなければ着水時に怪我をしてしまう。相応の高さがある城壁から飛び降りたのだ、落下速度も相応になる。
ドボーンッーーー
「はやっ」
水飛沫と音を立てて堀の水へと飛び込んだシャオヤオに、城壁の上で皇太子が零した感嘆の声は届かなかった。
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