うちの庭、ワンダーランド。

庭

　蝉時雨降る夏の午後。

　俺は道のど真ん中で思わず声を上げてしまった。

　それはもう、独り言とは思えないような大きな声で。

「なにこれ」

　それは思わずコンビニ袋を手から離してしまうくらいには衝撃だった。

　丁度そのタイミングで近所のおばさまが通りかかり、不審者を見るような目で見られ、ようやく俺は我に帰った。

「あ、いけね」

　屈むと同時にシャッター音が響いた。

　慌ててぶちまけてしまった商品を拾った際、その後姿を小学生に携帯で撮影されていたのだ。

　どうやら屈んだ際にお尻の割れ目が出ていたらしい。

　頼む。

　頼むから警察には通報しないでくれたまえ。

　落とした荷物を拾い上げ、俺は一呼吸置き顔を上げた。

「……森じゃん」

　親父の実家の庭は広い。　

　爺ちゃんが畑をやっていたからだ。

　しかし爺ちゃんが亡くなり、父親が土地を引き継いで以来、畑はほったらかしだったので、当時は今と違い見るも無惨な姿になっていると耳にはしていた

　それを見かねた母親が家庭菜園を始めると言い出し、手を出し始めたのだが……これはやりすぎだよ、ママン。

　なんでジャングルみたいになってるの？

　週末になるとせっせと出掛けては頑張っていたようなのでだいぶ様変わりしているだろうとは思っていたが、これは想像を遥かに超えてきた。

　天然気質の母親にとって、植林と家庭菜園は同類項だったらしい。

　とはいえ今日からここで過ごすことになったからには現実を受け入れなくてはならない。

　俺は取り急ぎ玄関へと向かうことにした。

　爺ちゃんの家は庭は広いが、しかしその反面それなり広さしかない平屋である。

　築年数も相当古い。

　趣のある古き良き木造住宅である。

　トイレも和式だし、風呂は五右衛門風呂だ。

　ガスコンロも無いしテレビもない。

　なんだか往年のヒット曲のようだ。

　しかし昨今の猛暑対策として、かろうじてクーラーと冷蔵庫だけは設置してあった。

　どうせなら家電一式取り揃えて欲しいものだが、これ以上の我儘は言っては罰があたるというものだ。

　何せ家賃がかからないのだから、それだけでもありがたいと思わないと爺ちゃんに呪われてしまう。

　あの爺ちゃんは、そんな所がある。

　草葉の陰から釘を打つ音が聞こえてきかねない。

　玄関に上がるとすぐに蒸し暑さが襲ってきた。

　これなら外にいる方がマシと思えるほどだった。

　俺は換気の為、窓という窓を開けることにした。

　全ての窓を開け終えて縁側に出ると、そこには懐かしい光景が広がっていた。

　昔、ここで花火をしたり、スイカを食べたり、扇風機にあたり風鈴の音を聞きながら居眠りをしたものだ。

　そうそう。

　たまに近所の野良猫が遊びに来たりなんかもしたっけ。

　どれもが大切ないい思い出だ。

　そして何より……あの井戸。

　幼少期にあえて尋ねることは無かったが、相変わらず異彩を放ち佇んでいる。

　かなり年季の入った苔むす井戸だ。

　生活用水を汲み上げていたのは昔の話であり、既にその役目を終え、今は静かに佇んでいるのみ。

　井戸には分厚い木の蓋が被せてあり、更にその上にしめ縄を巻いた大き石が乗っている。

　更に更に鎖によって雁字搦めになっていて、絶対に使わせないという強固な意思を感じる……石だけに。

「……なっ！！」

　……ここで突如話が変わってしまい大変恐縮ではあるのだが、もし仮に。

　誰でも特殊能力を一つだけ選べるとしよう。

　男の子なら一度は想像する不思議で便利な能力だ。

　そんな夢見る少年達に、俺が胸を張っておすすめしたいのは、何を隠そう『時間遡行』である。

　人間は生きているだけで様々な挫折や後悔、そして困難に巡りあう。

　それは争うことの出来ない運命という強制力で必ず起こる強制イベントみたいなものだ。

　受験であったり、友人関係であったり、仕事だったり、取り戻せない恋人関係であったり、大切な人との永遠の別れであったりする。

　あいにく俺に恋人がいたことは無いが。

　だけど『時間遡行』があれば、あら不思議。

　そんな後悔や失敗を簡単にやり直せちゃうのだ。

　なんでもありのチート能力なんかより、失敗してもやり直せる……そんな能力の方が俺は断然いいと思う。

　さて、なぜ突然そんな話したかというと、それにはちゃんとした然るべき理由がある。

　今、正にその『時間遡行』を使用したいからである。

　そうすれば突如として目の前に現れた謎の生物と出会うことはなかったのだから。

「……河童？」

　黄緑色の肌に黄色いくちばし。

　そう、絵に描いたような河童が草むらから現れたのだった。

　河童は森の中から、のそのそとうつ伏せで這い出てくると、開口一番「み、水」と訴えた。

　た、大変だ。

　河童がミミズを所望しているじゃないか。

　これは驚愕の事実だった。

　そんかのこと、知らなかったよ。

　知りたくも無かったが。

　しなしまさか河童がミミズを食べるとは。

　目から鱗とは正にこのこと。

　俺の晴天が霹靂しちゃってる。

「……た、頼む」

「水ならやらんぞ。森へ帰れ」

　迷いは無かった。

　ここは拒否の一手である。

　助けた礼にきゅうりを持ってこられたなんて日にゃあ、俺のトラウマが蘇ってしまう。

　俺は小学校の担任にスイカの白いところまで食べるのを強要されて以来、瓜科がどうも苦手なのだ。

「さてはきゅうりか？　人間は……強欲だぜっ！」

　河童は地面を叩くと、その手をさすり始めた。

　どうやら思った以上に強く叩きすぎたらしい。

「なんか余裕そうだな」

「……そうか！　はっはーん、さては尻子玉だな？　仕方ねえ。ほらよ、ここに住んでいた爺さんから抜き取った極上品だぜ」

「お前、爺ちゃんになんてことしてくれちゃってんの？」

　ていうかこいつ、水かきがついてる。

　心のどこかで河童のコスプレした近所の変態さんかと思っていたが、まさかこいつ本物なのか？

　それに這いずった跡がなんだかテカテカしてる。

　……そうかっ！

　分かったぞ！

　こいつ蛞蝓みたいに変な分泌物出してやがるんだ。

　気色わるっ。

　いっそのこと塩かけて水分全部抜いてやろうか。

「くっ、もう限界だ」河童が痙攣を始める。

　どうやら今度は本当に苦しんでいるようだ。

「……ああ、もう仕方ねえな！」

　俺はコンビニ袋に手を伸ばし、飲み物を取り出した。

　そして迷わず河童の頭に飲み物をかけた。

　本当はこんな奇天烈で珍妙な生き物に施しなんかしたくないのが本音だ。

　だけど……こんなんでもこいつは生きている。

　ミミズだってオケラだってアメンボだって、皆んな一生懸命生きてるんだ。

　いくら気色悪くても、生乾きの臭いがしていても、こいつもだって懸命に生きてるんだ！

「ぐわあっ！　目が、目がぁぁっ！」

「あ、これ醤油だったわ」

　こうして俺の——春原颯太（すのはらそうた）の後戻り出来ない不思議な物語は、不気味な河童の阿鼻叫喚と共に幕を開けることとあいなった。

　薄口醤油のキレのある香りと共に。