「兄の瞬間移動」
僕の兄は、瞬間移動ができることを自慢にしている。
とはいえ、それを披露することはめったにない。瞬間移動を行うには、長い時間をかけて意識を集中させなくてはいけないからだ。疲れる上に、移動が成功する確率もさして高くないという。
さらに移動先の問題もある。うまく行けばいいのだが、時折、願っていた場所とは異なる場所に飛ばされてしまい、飛んだ先で迷惑をかけてしまうこともあるそうだ。
一度なんかは、動物園の入場口に行くつもりが、園内のベンガルトラの檻の中に飛んでしまい、肝を冷やしたんだとか。幸い、飼育員に見つかり、すぐに出してもらえた。必死に言い訳をしたが、勝手に忍び込んだ酔狂な客に思われ、こってり絞られた、と笑いながら話していた。
ただ、こういったリスクというのも、修行を積んでいけば減らすことができるらしい。しかし、弟の僕から言わせてもらえば、兄はとんだ怠け者だ。珍しい能力ではあるが、そんな使い勝手が悪いもののために、じっくり時間をかけて修行なんてできないだろう。
ある日、兄は家に同級生の女の子を連れてきた。なんと二人は付き合っているらしい。最近できた彼女に、自慢の瞬間移動を披露するんだそうだ。
彼女はまだ、兄の瞬間移動を見たことがないという。リビングの三人掛けソファに彼女を座らせると、兄は部屋の中央に陣取り腕を組んだ。
僕はというと、自分の部屋から連行されて壁際に立たされていた。
「今日は、この家から、学校の校庭にワープしようと思うんだ」意気揚々と、兄は説明を始めた。「ほら、放課後の部活動をしている生徒がたくさんいるだろう? 俺がそこにいることは彼らが証明してくれる」
兄は学校の方角を指さす。だが、興奮気味の兄に対して、彼女の表情は芳しくない。分かりやすく、疑いの目を向けていた。
「それだけじゃ、証明にならないでしょ? 口裏を合わせてるのかも」と、出した言葉にもどこか棘を感じる。
確かに、彼女の主張ももっともだ。
「そうか……昭弘、どう思う?」
兄は、観葉植物よろしく突っ立っていた僕を振り返って言った。
「え? えっとぉ……」少し思案した後に、何とか答える。「あ、じゃあ、スマホも持っていけば? そこで周囲の景色が見えるようにビデオ通話するとか」
「いいな、それ」
僕の提案を聞き、兄はすぐさま自室にスマホを取りに行った。残された彼女は、兄が見えなくなったところで、大きくため息をつく。無理もない。彼女は、兄が瞬間移動をするなんて、信じていないのだろう。
「よし、始めるぞ」
リビングに戻ってきた兄は、すぐさま取り掛かった。
いつも見ている僕には、すぐに分かった。意識を集中させ、自分の行きたい場所を強く念じているのだ。うんうんと上げている唸り声は次第に大きくなり、顔は真っ赤、額には汗が浮かんでくる。
そして、10分ほど経っただろうか。突然その声が途切れた。
兄は額に浮かんだ汗をぬぐい、二人を交互に見る。
「今日は駄目だったらしい。すまない」
「私、帰るね」と、間髪入れず、彼女が言った。
「え? あ、待っ」
「じゃあね」
彼女は、振り返ることもなく、靴を履いて出て行ってしまった。そうして、リビングには兄と僕だけが残された。
「残念だったね」
こういうときに、もう少し気の利いたことが言えれば良いのに、とは思う。
「……ああ」
兄はショックが大きかったようだ。その日はそれで終わった。
あれから数か月経って、兄が彼女と別れたことを、僕は風の噂で聞くこととなった。得た情報はそれだけだったが、おそらく、彼女のほうがフったのだろう。
兄は落胆した様子を見せなかった。弟に弱い部分をさらけ出したくないのだろう。昔から、兄はそういう人間だった。身体が弱くて一人ぼっちの僕を、子どもの頃から、いつも気にかけてくれたし、たくさん遊んでくれた。最初に瞬間移動を見せようとしたのも、僕に対してだった。
そのことがすごく嬉しかったし、僕は、兄に用事を頼まれれば、いつだって手伝ってあげたいと考えている。
それが僕にできる唯一の恩返しなんじゃないかって、そう思うからだ。
ちなみに、僕も彼女と同じく兄の瞬間移動を見たことは一度もない。
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