空蝉は月夜に啼く
taikist
1.月夜の侵入者
「
心配性な側仕えがあれこれ口うるさく言いながら、長い
いつまでわたしを子供扱いするつもりなのか。歳だってわたしより少し上なくらいで、そう変わらないというのに。少しは信用してくれてもいいではないかと思ってしまう。
「大丈夫。わかってるよ」
わたしは彼女に最後まで言わせず、部屋からカーディガンを取ってきて、これ見よがしに羽織ってみせた。その様子に安堵したのか、それとも小言が過ぎたと思ったのか、彼女は少し寂しそうに微笑むだけで、それ以上は何も言わなかった。
「おやすみ、
「はい、おやすみなさいませ、郁夜様」
わたしが部屋の引き戸を閉めると、床が
外では色づいた木々の葉が冷たい風に吹き落とされ、ささめくような虫たちの声も聞こえなくなってきた頃。夏の暑さはもうすっかり影を潜め、彼女の言っていた通り、このごろは日が暮れればすぐに空気が冷え込んで肌寒くなっていたのは確かだった。しかしこの日の寒さはどうしてか、わたしにはどうにも気持ち悪く感じられた。
あまり夜更かしが過ぎると、父様に叱られるのは星菜さんだ。彼女はよくやってくれているし、迷惑をかけたくはない。寝る前は明日の予定を確認し直すだけに留めて、
いやに寒く感じたのは窓が開いていたからなのか。そう思って、わたしは閉め切ろうと窓の方へと歩み寄る――と、突然に身動きが取れなくなった。
それは背後から何者かに羽交い絞めにされているからだということが、すぐにわかった。強い力で拘束され、抵抗は叶わない。背中越しに感じる体格差も相まって、相手は男なのだろうと悟った。
力比べでは敵うはずもない。せめて声を上げて助けを呼べば、状況を打開できるかもしれない。幸いにも、今の時間は家に家族が皆揃っている。しかしそれすらも封じるように、男の大きな手がわたしの口元に覆い被せられた。
「命まで取る気はない。お前が声を上げない限りはな」
小さくそう言う男の声に、特段感情が
人を殺すことよりも、目的は別にある。だからわたしを殺すことは本意ではないが、邪魔になれば殺しも
彼の要求を
かと思いきや、今度は急にバランスを崩したように、わたしの身体は背中から地面に沈むように落ちていき、視線は宙を彷徨った。反射的に声にならない小さな悲鳴が漏れるが、彼の言うことを思い出して必死に押し留めた。
何がどうなって——そんなことを考えている暇もなく、突如として身体が軽くなったような、不思議な浮遊感に襲われる。
白々と照る月光の下に連れ出され、真っ先に視界に入ったのは、わたしを見下ろす若い男の顔だった。
月明かりのせいか黒づくめの服装のせいか、白磁器のように真っ白な肌に、夜の闇に溶けるような漆黒に
わたしとて、こんな状況を夢見たことがまったくなかったわけではない。幼い頃には、突然現れる王子さまに連れ出され、彼と結婚して幸せになる——そんな夢物語を思い描いたこともあった
突然現れた顔の良い若い男にお姫様抱っこをされて、外に連れ出されたのだ。今の状況はまさに、幼い頃に思い描いた夢物語そのものではないか。今日これからわたしの人生は、運命は、劇的に変わる——。そんな予感がしてならなかった。
わたしを抱えた若い男は身に付けているものこそ普通のシャツやズボンだが、忍びのような身のこなしで、いとも簡単に屋根の上まで登り詰めた。風を切るように素早く、それでいて夜の静寂を壊さぬよう静かに。大きな和風の屋敷の瓦屋根を伝い、一目散に彼は駆けていく。一体どこへ向かっているのだろう。
屋敷の裏手の方、敷地内の塀の内側の隅へ降りると、彼は抱えていたわたしを降ろし、何かを探し始めた。
一本だけ生えている桜の木の根元。そこに目星をつけたらしい彼は、見つけた何かを持ち上げる。大きな石板のようなものをどかすと、そこには地下へ続く石階段が隠されていた。
何なの……これ。わたしだってこんな場所知らない。どうして彼は知っているのだろう。そしてこの先には、一体何があるというのだろう。
彼は紛れもない不法侵入者。そしてあろうことか、わたしを
「ついてこい」
静かにそう言う彼は、わたしの手を引いて、階段の下へ下へと降りていく。月明かりが届かなくなってきたところで、彼は懐中電灯を取り出し、行く先を照らす。階段を降りた先は茶室ほどの狭い空間で、周りは石壁に囲まれていた。
入ってすぐに、錆び付いたような異臭が鼻についた。もう長いこと開放したことがないのだろう。新雪のような
彼が向ける懐中電灯の明かりの先にしか視界が開かないから、この空間についての情報も断片的にしか読み取れないのがもどかしい。
ふと、空間の中央にあったものを彼が懐中電灯で照らしたその時、背筋に嫌な寒気が走る。
しめ縄の囲いの中に置かれた、蜂の巣箱のような木の箱。お札のような判読できない文字の書かれた短冊が、そこにはびっしりと貼り付けられていた。
それを見た途端、冷風が身体中を吹き抜けたかのような悪寒が一層全身を震わせる。理由もわからないまま、ただ気持ちの悪い感覚、吐き気が襲い来る。震える手で、今にも折れてしまいそうな自分の膝を叩いて喝を入れた。
目の前のこれがいかに異質なものであるか、本能的に身体が理解しているのだろう。
「あれが何だかわかるか?」
男がわたしに問うので、力なく首を振る。いや、本当は薄々気付いていた。これの正体に。頭で認めたくなくても、身体はそれを許さない。だから頭の中に浮かんだ仮説は仮説なんかじゃなく、真実なのだと否が応でもわからされる。
わたしの様子を見た男は乾いた笑みを浮かべ、わたしの手を引いて放さないまま、しめ縄の囲いを破り、木箱へ向かって歩を進めていく。
――嫌だ。これに近づきたくない。お願い、放して。
そう思っても、彼の手を振り払うことはできず、ついには木箱の目の前まで辿り着いてしまった。
「これは
男はうちの家について何か知っているらしい口ぶりで、わたしの手を放したかと思えば、すぐに手首を掴み直した。そのまま木箱へと強引に引っ張って、わたしの手を触れさせる。
触れただけでは何も起こらない。彼が自分でやらないのは、わたしがやらなくちゃ彼の望む現象は起こらないからだ。そのために、わたしはここに連れてこられた。きっとこの瞬間のためだけに、わたしは必要だった。ロマンチックなんて欠片もない、
「その紙を破れ」
その紙、というのは、無数に貼られた札の中でも一際目立つ札のことだろう。ちょうど今、わたしの手が触れている。これを破れば、彼の望みは達せられる。そして同時に、わたしたち
「……嫌だ。アンタが何をしたいのかはわからないけど、この
震える声で精一杯の抵抗を試みるも、それが抵抗として彼に認識されているようにはとても見えない。その証拠に、彼の口元からは冷ややかな笑みが消えずにある。口では強がってみても、ただの虚勢に過ぎないことが見抜かれているのだろう。
「なら、別にお前でなくても構わない。もしお前がどうしても拒むというのであれば、弟を代わりに連れてくるだけだ。そして今と同じように、俺は封印を解くよう迫るだろう。それでも構わないな?」
それを言われてしまうと苦しくなる。わたしが当主の座を継げば、あいつは志岐家を継がなくてもいい、家のしがらみとは関係なくなるはずだったんだ。それなのに、こんな役を押し付けるなんて。姉として、次期当主として、それはできない。
それも全部わかった上での脅迫だ。悔しいけれど、彼の要求を
いっそのこと、さっさとこれを破って楽になりたい。そう思い始めているほどに、わたしの正気は少しずつ
「これを破ったら、その後は……? わたしも弟も、殺さないって約束してくれる?」
「言う通りにさえすれば、約束する。元より俺は、最初から誰も殺すつもりはない。無駄に死者を増やすのは嫌いなんだ」
彼の言葉を信じていいのかはわからない。でも今はその真偽を確かめる
その瞬間、空気が変わったのがわかった。これまでに感じたこともないほどの
すると、わたしの腕を掴んでいた彼は、そのまま後ろにわたしを放り投げた。乱暴とはいえ、わたしの前に立ちはだかるようにして木箱と
やがて木箱から、泥のように重たそうな液が
――ねぇ、待って。
彼もそれを追うように階段を上ろうとするので、その後ろ姿を思わず呼び止めてしまった。
呼び止めてどうするつもりだったのだろう。彼が律義にも足を止めてこちらへ振り向くので、わたしは頭の中が真っ白になってしまい、続く言葉が出てこない。
間抜けにも口を半開きにして、何か言葉を絞り出そうとしても何も出てこないわたしに、彼は冷静に言い放つ。
「
封印が解かれた今、
「それでも、一緒に来るか?」
差し伸べられるその手は悪魔の誘い。この手を取ってしまったら、もう後には引けない。だけれど今日はたぶん、わたしの人生が大きく変わる日。いや、人生を変えられる日。ここで
「ええ、もちろん」
差し出された大きな手に自分の手を重ねると、ぐいと引っ張られ、その勢いのまま石階段を駆け上がる。
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