-12-

 しんと静かになった森の中。風が吹き始めたのか、遠くで、乾いた葉擦れの音が聞こえる。辺りは緑ばかりだった。この世界に来てから、同じ景色しか見ていない。


「ここで生きる、か」


 このようなことが自分に降りかかるだなんて、考えたこともなかった。

 琴子はごく普通の生活をする、ごく一般的な人間であるのだ。毎日朝から夜まで仕事をし、休みには寝て過ごすか、ほんのたまに遊びに出かけ、時々実家の母と電話をしたり、父に野菜を送ってもらったりしていた。

 これから先もずっと、そんな生活を普通に送っていくのだと思っていた。

 憂鬱になることももちろんあったが、かと言って、人とは違う特別な未来を望んだことはなかった。


 不可思議な出来事を夢見たことは、子どものときにならある。しかし所詮それは物語の中の特別な人だけの話であり、普通の大人になった今の自分には関係のないことであった。

 まさか自分の身に降りかかるだなんて、思いもよらないことであったのだ。


「無理だよっ……」


 人のいる場所であっても、この森であっても、どちらでも変わりない。どこでだって“この世界”に、琴子がいるべき場所などなかった。


「……ん」


 小さな声がして、ハッと視線を下に向ける。

 琴子の腕の中で眠っていた子どもが、わずかに身じろぎをした。

 体は痩せ細り、健康であるとはとても言えないが、顔色は初めて見たときよりも随分よくなっている。

 真っ白な髪が細い肩を滑り、さらさらと地面へ落ちていく。


 深い呼吸が何度か繰り返されたあと、そっと、血管の透けた瞼が開いた。


「あ……」


 思わず声を漏らした琴子を、子どもの瞳が見つめた。

 先ほどと違い、今度は確かに視線が交わった。

 琴子は、子どもの瞳の色に違和感を覚えた。先ほどは青く見えたけれど、気のせいだったのだろうか、今見たそれは深い緑色をしていた。


「大、丈夫?」


 琴子は恐る恐る声をかける。その途端、ヒュッと、子どもの喉に息の通る音がした。大きな瞳が見開かれる。


(何……これは)


 丸い瞳が、見る見るうちに色を変えた。

 緑から、濃い青へ……先ほど見た鮮やかな青とは違う、藍色へと。


「……」


 変化に驚きつつも、素直に綺麗な色であると、琴子は思った。しかし、それに魅入るには、あまりにも子どもの表情が恐怖に歪みすぎていた。

 暴れたり逃げ出そうとしたりはしない。それでも子どもは明らかに琴子を恐れている。


『人の手によりこの場に封じられていた』


 琴子は先ほどのユーグの言葉を思い出した。この子どもは、人間が怖いのだ。


(どんな思いをして、きみはここにいたんだろう)


 わからないが、とても恐ろしい思いをしたのだろうことは窺える。

 訳もわからず、抗うことも逃げることもできず、どうしようもできず、小さな体でたったひとり、恐怖と共にこの森へ放り出されたのだ。


(この子は、わたしと同じなんだ)


 自身に何が起きたのかもわからず、何をしたらいいかもわからず、見知らぬ場所で不安の中さまよい続けた。

 とても寂しかった。誰かに会いたかった。


『――ここへ、来て』


 そんな琴子のことを、この子は呼んだのだ。

 そしてその声を聞き、見つけた。

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