ディラン・ヴァイパー

歩く魚

1

 ウィンドモアに夜がやってきた。人肌が心地良いと感じるようなぬるい温度を、母の手のひらのような風が運んでくる。

 風は緩やかに進み、障害物があればあらゆる方向に避けるが、仮にその時の風に意志があれば、硬い鋼でできた壁を思い起こしただろう。

 百九十センチにも達する背丈、山のようにゴツゴツとした肩、守る必要がないように見えるそれを覆う鎧。視線を上にあげれば、深い皺が刻まれた顔がある。背負っている巨大な剣を振り下ろす際に、またはモンスターの攻撃を耐える際に食いしばり、それが跡になったのだ。鋭い眼光。彼が禿頭でなければ、夜の闇は彼のことを歴戦の魔物と錯覚させるだろう。

 誰がどう見ても、彼は一流の戦士だ。

 そう、彼の名こそがディラン・ヴァイパー、


 ――ではなかった。


 男は堂々とした、しかし荒々しさのない足取りで歩を進める。その動きに従うように、ガチャガチャと装備が音を立てる。先ほど男が行っていた仕事ぶりを讃えているようだった。

 そして、その足で向かうのはウィンドモアの中心部から少し離れた場所にあるギルドだ。

 木造二階建て、外観をざっと見ただけで、この建物が数十年の時を過ごしていることがわかる。男はボロく、少し立て付けの悪くなっている両開きのドアを勢いよく開けると、声を上げる。


「今、帰ったぞ!」


 見てくれに反して、ギルドの内部は栄えていた。等間隔で設置されている背の高いラウンドテーブルを囲うようにして酒を飲むいかつい男たち。

 向かい合うように置かれているソファに腰を下ろす男女の四人パーティ。

 ぱちぱちと音を立てている暖炉と、横の壁にはクエストボード――依頼が書かれている紙を貼るもの――と、それを眺める若い冒険者。

 扉から真っ直ぐ歩けば横長のカウンターにぶつかる。カウンターに立っているのは冒険者に諸々の案内をするエマと、バーテンダーのジョン。端では男が一人で酒を嗜んでいた。

 そして、たった今ギルドに訪れた男――豪傑のボンフォルトの声に全員が振り返り、温かい笑みを浮かべる。


「おかえりなさい!」


 最初に駆け寄ったのはソファに座っていた男女四人のうちの一人、ボンフォルトの娘だった。


「オリビア! ダメじゃないか、こんな遅い時間まで酒を飲んでるなんて」

「なに言ってるの父さん、まだ七時じゃない。この時間のお酒は身体に良いって言ったのは父さんよ?」


 ピンク色の長い紙を揺らしながらオリビアが言うと、これは一本取られたというふうにボンフォルトが笑う。


「まぁまぁ、ボンフォルトはAクラスの依頼から帰ってきたばかりだからな。激しい戦いの後は時間感覚が鈍るのさ」

 

 ラウンドテーブルで酒をあおっていた強面の男が言い、その横の男が続ける。


「なぁ、今回はどんな相手をやったんだ? 教えてくれよ、奢るからさ!」

「なに言ってんだ! 今日は俺の奢りで朝まで武勇伝を聞いてもらうぞ! 好きなだけ飲め!」


 ボンフォルトが豪快に声を上げ、ギルド中から歓声が上がる。


「今夜は寝かせねぇぜええええええええ!」


 ・


 深夜三時。大地を揺らすようなイビキがギルドに響く。

 ボンフォルトは文字通り全員に酒を振る舞い、そのほとんどが酔い潰れて幸せな夢を見ている。

 冒険者に対する案内係で皆に大切にされているエマ。あまり酒が得意ではなく、先ほどクエストボードを見ていた新米冒険者のセルゲイ。そして、バーカウンターの右端でゆったりと酒を飲んでいた中年の男だけが意識を保っていた。


「それじゃあ、私はこれで失礼します。後片付けはお父さ――ギルドマスターにさせますので。おやすみなさい」


 エマはギルド右端の階段から二階にある自室へと上がっていった。十分ほど経って、上階から微かにシャワーの音が聞こえだすが、そのほとんどは雑音にかき消される。

 カウンターの左端で考え事をしていたであろうセルゲイは、酔い潰れた冒険者の発する人間ならざる音に嫌気がさしたのか、反対側の男に声をかけた。


「ディランさんは、本当にお酒が強いんですね」


 自分の半分ほどの年齢の若者に声をかけられて、ディランはゆっくりと彼の方へ身体を向けた。


「飲み方の問題だよ。ぼくはゆっくり身体に入れてるからね」

「でも、ボンフォルトさんが前に言ってましたよ。『いつかディランと飲み比べ対決してみたい』って」

 

「それは――」ディランはくすりと笑みをこぼす。「困ったな」


 セルゲイはディランのことが嫌いではなかった。

 ――というより、ギルドの人間はみな、ディランに好意を抱いていた。

 

 五十になるかならないかであろう、成熟した男。長い黒髪を後ろで縛り、口と顎に整えられた髭を生やしていた。鼻筋は細く、高く、端正な顔立ちをしているが、目は子犬のように優しかった。

 身長はギルド内でも屈指の体格であるボンフォルトには劣り、百七十五くらいだろう。鎧を身につけておらず、体型が分かりやすいのだが、おそらく彼は同年代の男性と比べてもずば抜けて鍛えている。腕の太さ、そして名匠に鍛えられた剣のような血管が走っていた。


 彼は数年前にウィンドモアを訪れたようで、セルゲイが冒険者としてギルドに通うようになったのと同時期に、この定位置を手に入れた。

 普段は依頼をこなしているわけではなく、ギルド内の雑用などを引き受けているようだ。しかも、それで賃金をもらっているようなそぶりは見せない。

 もしかしたらボランティアでギルドを手伝っているのかもしれないが、仮にそうだとすれば、彼には途方もない財産があるに違いない。

 ともかく、毎日ギルドにいて、誰にでも温厚にサポートしてくれるディランを嫌う人間はいない。

 ギルドメンバーが彼に構わないのは、彼が一人を気に入っていると知っていて、尊重しているからだ。


 その時、ちょうどいいと、セルゲイは思った。

 酒の席では普段言えないようなことも、するりと吐き出すことができる。彼も少しばかりはアルコールが回っていたから、いつもより積極的だった。そして、自制の甲斐あって、胃液ではなく悩みを打ち明けられる。


「すみません、お手数でなければ一つ相談に乗ってもらえませんか?」

「もちろん。ぼくにできることであれば」


 ディランはぎこちなさそうに笑った。あまり笑わない男が、精一杯こちらを落ち着かせようとしてくれているのだと理解した。


「それじゃあ、少し外に出ても良いですか?」


 ・


 陽が隠れてからかなりの時間が経過していて、暖かな風は少しだけ冷徹な面を露わにしている。

 セルゲイとディランは並んで石畳の上を歩いていた。

「僕の――」唐突にセルゲイが話を始める。


「僕に備わっているのは『痕跡魔術』なんです」

「場所や物に対する記憶を呼び出せる魔術、だね?」


 セルゲイは頷く。


「魔王を倒したパーティの中にも痕跡魔術の使い手はいたらしいです」


 自分を鼓舞するように呟いた。

 多くの人は生まれながらにして一つだけ『スキル』を持っていて、大抵の場合、自分のスキルに合った職業なり戦い方を身につける。


「でも、痕跡魔術は戦い向きじゃないんです。その場所の記憶を呼び出せたからって、戦闘ではなんの役にも立たない。こんな魔術で魔王討伐にどんな役割を持てるのか、文献も証人もない。それどころか、僕の両親のことでさえ――教えてくれない」


 場所の記憶、ものの記憶を呼び起こせると言っても、長くても1週間程度。それよりも前のことは感じることはできない。

 ディランは言葉を選んでいた。自分の目の前にいる金髪の青年は親を知らない。彼の親は、物心つく前にセルゲイを捨てたのだ。

 蒼い瞳はこの辺りの人間の特徴ではないし、広い世界の中で血族を探すには、彼は未熟すぎる。


「良いんです。僕はウィンドモアの人たちに育ててもらったんです。痕跡魔術が親を探せなくたって、僕の親はここにいるんだから」


 言葉に嘘はなかった。数年前にウィンドモアにやってきたディランはセルゲイのことを単なる若者としか思っていなかったが、街の人々からすれば、彼はもう一人の息子のような存在なのだという。

 両親がいない子供が、こうもまっすぐな目をするのだから、きっと大切に育てられたのだ。子供のできたことのないディランにも理解できる。

「ただ――」またしてもセルゲイの顔に翳りが見えた。


「この街を守れるような強い戦士になりたいんです。僕は、ボンフォルトさんのような恵まれた体格ではないけれど、グレイグさんのように強力な魔術も使えないけど、街の一員でありたいんです」

「だから、戦闘向きじゃない痕跡魔術に不満を抱いている……わけかな?」

「不満、と言って良いかはわかりませんが、概ね」


 ディランは心を打たれていた。魔王が倒れてから二十年ほどが経っている。あの時は活発化する魔物に対して「戦わねばならない」という一種の悲壮感すらあり、強さを追い求めることはすなわち、生きることであった。

 今は違う。魔物が人々を脅かすことこそあれど、以前とは比べ物にならないほどの平穏。人間絡みの犯罪が当時に比べて増えているようだが、そんなものは危険の勘定に入らない――そう思っていた。

 だが、それがどうだろう。ディランよりも少し背の低い、お世辞にも冒険者の素質があるとは言えない青年が、心底悲痛な思いを抱いている。

 それも、自分ではなく人のために。対象が魔物か人間か、という部分でさえディランには新しい価値観のように感じられたが、根っこが同じことには気付いていた。


「一応、戦えないわけじゃないんです。奥の手がありますから。でも、それも一日に一回が限度で、とてもじゃないけど冒険者として街を守るなんて――」

「なら、セルゲイ君が戦う必要はないんじゃないかな?」

「――ッ! ど、どうしてそんなことを!」


 戦術的なアドバイスがもらえると思っていたセルゲイは、思いがけず浴びせられた言葉に反発しようとした。実際には睨んだだけであるが、ディランは申し訳なさそうに目を伏せた。


「痕跡魔術が戦闘向きじゃないのは明らかだ。奥の手が何かはわからないが、それも一度じゃ意味をなさないだろう」

「それはわかってますけど、でも――」

「だから、陰からみんなを守るっていうのはどうかな?」


 セルゲイの言葉が止まる。


「戦うならボンフォルトさんやグレイグさんがいる。彼らは戦いのエキスパートで、まだ十年は戦える。これからいくらでも成長できるとは言え、数年の努力で君が肩を並べて戦うのは難しい」


 その通りだと言おうとしたが、先ほどのディランの言葉には罵倒とは違う考えがあった。セルゲイは傾聴する。


「ただ、彼らにもできないことがある。それが人間による犯罪の抑制だよ」


 おそるべき膂力で全てを轢き潰す豪傑のボンフォルト。

 人智を超えた魔術を行使し、近隣諸国で五本指に入るであろう魔術師グレイグ。

 彼らは敵を倒すことはできるが、「敵になっていないもの」は倒せない。


「君の痕跡魔術ではそれができる。犯罪を起こしそうな人を発見したり、次の犯罪が起きないように追跡することができる。君は魔物が人を殺さないように戦う戦士ではなく、人が人でなくなるのを止める探偵になるべき――かもしれない」

「探偵……」


 あまり聞かないが、探偵という職業は確かにある。主に浮気調査だったり探し物だったり、あまり気持ちのいい仕事とは言えないが。

 だから痕跡魔術の使い道が「命に繋がらない」ことだとは考えたくなかったが、今のディランの話には一理あると感じた。

 人類が力を合わせて戦うような存在がいなくなったことで、人々は欲を表に出している。だからこそ、人を止める、抑止となる存在が必要なのだ。

 それは表だった派手な戦いを繰り広げる冒険者ではなく、裏で街を見守る探偵にも――むしろ探偵にこそ向いている。


「ぼくの友達にも痕跡魔術の使い手がいてね。同じように悩んでいたんだ。その人は周囲の動物や草木の動きから天気を予測していて、それに何度も助けられたっけ」


 ディランの過去の一端が垣間見えたことで興味が浮かんだが、セルゲイは触れなかった。自分の力にも使い道があると、その余地を示してくれた感謝が優ったからだ。


「ありがとうございます。強くなくてもみんなを守ることができるって、初めて知りました」

「ぼくの言葉は分かりにくかったかもしれないけど、少しでも役に立てたならよかった」


 セルゲイは深く頭を下げて、もう一度感謝の言葉を述べてから、考えをまとめるために去っていった。


 ・


 若者も別れた後、ディランは自宅へと向かうことにした。

 夜はまだしばらく続くと言っても、齢五十近い彼には十分すぎる夜ふかし。最後にセルゲイが見せた笑みのおかげで、今日は熟睡できそうだ。

 ウィンドモアの中心部から離れたギルド、さらにそこから外れた場所にひっそりと建てられている木屋。これがディランの棲家だった。


 扉が斜めに歪んでいて、そのまま引いたのではつっかかってしまう。少しドアノブを持ち上げるのがスムーズな帰宅のコツだ。

 苦しそうに呻く扉を閉じ、小さなベッドの横にある、小柄な棚の上に置いた蝋燭に火をつけた。部屋が弱い光で照らされる。

 質素、という言葉では不足なほど味気ない。ベッドと棚、蝋燭の他には、壁際に寄せられている小ぶりな机、その上に農業に関する本と一本の酒瓶。

 床も壁もボロボロで、部屋の中央の床などは釘で打ちつけて補強した跡があった。


 ディランは倒れるように眠った。

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