第17話
ラヴィニアがホテル・アルハイムを訪れてから五日目。
朝の幹部会議を終えたバーシャが見たのは、ロビーの床を磨くラヴィニアの姿であった。
「おはようございます、主任」
バーシャの気配を察すると、ラヴィニアは手を止めて挨拶をする。向けてくる笑顔は嘘くさいほど朗らかだ。
思いがけない遭遇に、バーシャは咄嗟に身構えた。
「何をしているんだい。廊下の清掃は
「早く起きてしまったので、お手伝いをしていただけです」
「……手伝い? あんたが?」
「ええ。施設清掃の仕事って、朝早いんですね」
と涼やかに答えながら、ラヴィニアは再び清掃に戻る。ぎこぎこと床をモップで擦る様は、なんともたどたどしい。
――こいつ、わざとやっているね。
バーシャは苛立ちを堪えるように歯噛みする。
ラヴィニアが纏うのは、挑発と優越の感情。彼女がこちらの怒りを煽ろうとしていることは、バーシャの目に明らかだった。
この新人が妙な行動をとり始めたのは、四日前のことである。
五日前の夜、バーシャから「仕事に来なくていい」とはっきり言い渡されたはずなのに、なぜかラヴィニアはやる気をみなぎらせ、朝早くから事務所に出勤してきた。
『激励のお言葉、大変胸に染み入りました』
と、いかにも健気な口ぶりで宣言してきたが、その周囲には敵意や闘争心が溢れんばかりに漂っていた。目の秘密を知っても外面と本性の乖離をそのまま曝け出してくる人間は初めてで、バーシャは大いに狼狽えた。
そして勤務五日目となる本日も、ラヴィニアはにこにこと愛嬌を振りまきながら、バーシャだけに燃えたぎるような感情を露出している。正直、気味が悪かった。
この娘は、何がしたいのだろう。
『一人前に働けるなら解雇しないでやる』とは言った。だが彼女の手際はまだまだ悪く、戦力としては数えられない状態だ。期限の一週間を迎えたら、能力不十分を理由に難なく解雇できるはず。
それなのに、どうにも良からぬ胸騒ぎがした。知らずのうちに蜘蛛の糸に絡め取られたような、不気味な予感が胸に残る。
「ラヴィニア、そろそろ朝礼でしょう。ここはいいから事務所に戻りな」
「もうこんな時間。ではお先に失礼します」
にこやかに会釈を残して、足早に去っていく。その後姿を眺めながら、清掃婦はしみじみと言った。
「今時珍しいくらい、よく気がきく子ですよねぇ。あんまり手際はよくないけど」
「は? あいつが?」
眉を上げる上司に、清掃婦は深くうなずく。
「実は私、昨日から膝の調子が悪くって。あの子は何も言わないけど、それに気づいて手伝いに来てくれたんですよ」
「あいつがそんな――」
思いやりを持った人間なわけがないだろう、と言いかけて、バーシャは口をつぐんだ。
危ないところだった。清掃主任ともあろう人間が、一人のルームメイドを悪様に言うものではない。
そんなバーシャの葛藤を知ってか知らずか、掃除婦は遠慮がちに彼女へ提案するのだった。
「主任、あんまりあの子と馬が合わないみたいだけど。もうちょっと、優しくしてあげてもいいんじゃない」
……驚くべきことに、昼下がりの事務所でもラヴィニアを称賛する声が聞こえてきた。
「あの子、昨日も私の代わりにブラシを補充してくれたんだよ」
「共通語が通じないお客様と揉めかけた時、すぐに駆けつけて通訳してくれてさ」
「クイナたちも、あの子のこと褒めていたね」
休憩中のメイドたちが、口々に新入りの活躍を評価する。ラヴィニアはパッブリックのみならず、ルームメイドたちにも愛想を振りまいているらしい。
――まったく、どいつもあいつの本性を知らないで。
メイドたちの横でいつもより苦い紅茶を啜るうち、バーシャの口から苦言がこぼれる。
「……さっきから聞いていれば、あの娘、余計な気を回しているばかりじゃないか。肝心の仕事で使い物にならなきゃどうしようもないよ」
「えっ」とメイドたちは目を点にして、不機嫌な主任の顔を見上げる。
「点数稼ぎばかり覚えられても仕方ないだろう。あんたたちも、ちやほやしていないで仕事を教えておやり」
しん、と事務所が静かになった。メイドたちはおしゃべりを止めて、主任の不機嫌な顔をじっと見つめる。
「……あの子、そんなに悪くないですよ」
意外なことに、メイドの一人が口にしたのは擁護の言葉だった。すると他のメイドたちも「そうだよね」「私も同感」と賛同の声をあげる。
「マルルカが『教えたことは一度で覚える』って驚いていたよね」
「雇ってもらった恩を返したいって言っていましたよ。健気じゃないですか」
「と言うか、主任が錆びっぱなしにしていたベルを磨いてくれたのもラヴィニアですよ。気づいていました?」
ついには諌めるような意見まで飛び出てくる。思いもよらぬ部下たちの反応に、バーシャは頬を引き攣らせた。
まさかラヴィニアが、ここまでメイドたちの心に滑り込んでいたとは。解雇まであと数日もないのに、メイドに媚びてどうするつもりなのだろう。
――もしかして、あいつ。
そこでようやく、バーシャはラヴィニアの思惑に思い至る。
だが時はすでに五日目。
ラヴィニアの計画はすでに、完成の域に到達しようとしていたのだった。
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