第11話



 なんとかルームメイドの職を得たラヴィニアは、さっそく現場に駆り出されることになった。


言われるがまま制服に着替えたのち、ブラシや箒を携え乗り込んだのは、従業員専用の動力式昇降機エレベーターである。


「このお城は、竜が翼を広げたような構造になっているの」


 カタカタと上昇する昇降機の中で、マルルカはホテルの構造を説明してくれた。


「真ん中の胴体はフロントやレストランがある八階建ての本館。右の翼は大広間や礼拝堂がある東館。左の翼は公国議会や図書館のある西館。で、ほとんどの客室は本館の三階から八階にあるんだ」


 そこがルームメイドの主戦場になるという。やがて昇降機は、五階フロアでカクンと停止した。


 昇降機を降りた先は、石壁が続く廊下となっていた。紺地の絨毯が敷きつめられ、瀟洒なランプが揺れる内装は、西大陸の邸宅に似たつくりとなっている。だがよくよく見ると、天井や柱のあちこちに彫刻された獅子や怪物が、さも恐ろしげな顔でこちらを見下ろしていた。これは、魔王城時代の名残だろうか。


「すごいわね。いまにも動き出しそう」

「昔は動いたんだけどね」


 とんでもないことをあっさりと言ってのけながら、マルルカは廊下を進んでいく。用具室で掃除道具を積み込んだ荷車を調達すると、二人は客室が並ぶ廊下へ向かった。


「ホテル・アルハイムは退室手続きチェックアウトが午前十時まで、宿泊手続きチェックインは午後三時から。清掃はお客様が少なくなる、朝八時から始めるよ」

「この札は?」


 509号室のドアノブにかけられた札が目に留まる。試しにひょいと手に取ると、そこには入室お断りDon't disturbと書かれていた。


「わあ、だめだめ!」


 小声ながらも慌てた調子で、マルルカはラヴィニアの手から札を取り上げる。


「これは〝清掃に入らないでくれ〟って意思表示のカードだよ。お客様の中には日中もお部屋で仕事をしたり、昼間にお休みになったりする方もいらっしゃるからね」


 と解説をしながら、カートから布を取り出して札を丁寧に拭き始める。常に手を動かしていないと、気が済まない性分らしい。


「逆に清掃可能な場合には、清掃希望Make up the roomの札をかけてもらうことになっているから。連泊のお客様の部屋を掃除する時は、どんな札がかけられているか確認してね」


 これくらいでいいかな、とマルルカは札の拭き残しがないか確認する。次いでドアノブも慎重な手つきで拭くと、そっと札をかけ直した。


「この部屋のお客様、すごく神経質なの。ずっと部屋にいるからなかなか清掃させてくれないし、物音をたてるだけでもすごく怒るんだ」

「そう言えば、朝礼でもそんな話があったわね」


 黒髪のメイドが『509号室の客から、隣室の掃除の音について苦情があった』と話していたのをいまになって思い出す。

 あやうく音をたてて本人を呼び寄せてしまうところだった。509号室とはなるべく関わり合いにならないよう心に決め、ラヴィニアは扉からそっと離れた。


 ルームメイド生活初日を飾る第一部屋は、一人用のベッドが置かれた寝室と浴室だけのクラシックルームとなった。

 世界最高峰のホテルの部屋とは、どれほどのものなのだろう。作法に則りドアを二回ノックしたあと、期待を込めて扉を開ける。同時に、むわりと甘ったるい香りが鼻についた。


「う、何これ」


 思わず鼻をつまんで奥へと進む。予想通り、中の様子は酷い有様だった。

ベッドの上は獣が暴れたようにシーツが乱れ、飲みこぼしで汚れたテーブルにはグラスと酒瓶が無造作に置かれている。床の上には紙屑と食べカスが散らばり、浴室では使用済みのタオルがあちこちに飛散していた。


「……ひどいわね」


 部屋の様子から察するに、宿泊客は昨晩一人で酒を飲み、少々羽目を外してしまったのだろう。ところが翌朝寝坊をかまし、大急ぎで身支度をすることに。それで体のにおいをごまかすために、コロンを体に吹きかけ相殺を試みた……といったところだろうか。

 部屋の有様を見るだけで、朝の混乱ぶりが手に取るようにわかってしまう。


「応援を呼びましょうか」


 これだけ荒れていると、どこから手をつければよいのか見当もつかなかった。マルルカと新人ラヴィニアの二人だけでは、さすがに手が余るのではないだろうか。

 だがマルルカは、臨むところだと言わんばかりに袖をまくり上げた。


「これくらいは朝飯前だよ。ちょっと見ていて」


 それからのマルルカの動きは、まさに鮮やかの一言だった。

 まず部屋の窓を開放し、手早くゴミ、タオル、リネン類を回収する。次に浴槽を洗うと、手垢だらけのシンクや鏡も丁寧に磨き上げていった。さらにシーツやベッドカバーを手早く広げ、見事な箒さばきで床を隅々まで掃いていく。


「まずは換気のために窓を開けてね」

「ゴミ箱に入っていないものは、どんなものでも捨てないように」

「ベッドメイクの時、シーツを綺麗に敷くコツがあって」

「作業中にもほこりが飛ぶから、床掃除は最後にするよ」


 小さな体をテキパキと動かしながら、業務の説明も忘れない。

 マルルカが動くうち、乱雑だったはずの部屋は徐々に新居のような輝きを放ち始める。最後に窓を閉め、カーテンをまとめると、小柄なルームメイドは満足げに振り返った。


「よし、こんな感じかな」

「……すごい」


 清掃された部屋は、嘘のように整っていた。

 室内を照らすシャンデリアに、真白いシーツがぴんとしわなく敷かれたベッド。大理石の浴室は鏡面のように磨き上げられ、むせかえるようなコロンの芳香はすでに跡形なく消えている。


「この部屋、こんなに広かったのね」


 改めて見ると、なんとも贅沢な部屋だ。

 天井は高く、壁には腰壁や花模様のモールディングが細やかに施されている。置かれた書物机や椅子はいずれもアンティーク調の高級品で、歪みのない大窓からは陽光が降り注ぐ。

部屋の角には伝声管も備えられており、客はいつでも部屋から飲料や軽食など、自由にルームサービスを注文可能な仕様となっていた。


「宿泊しているあいだは、ここがお客様の〝家〟になるの。自分の家に他人の気配が残っていたら、気分が悪くて落ち着かないでしょう」


 浴室に他人の毛が落ちていたり、くず籠に前泊者のゴミが残っていたり。そうした些細な事の積み重ねが、居心地の悪さを生むのだという。


「だからチェックアウト後の部屋の清掃で一番大事なことは、部屋をまっさらな状態にすること。前のお客様の痕跡を徹底的に消して、次のお客様に気持ちよく部屋を使ってもらうのが私たちの仕事なんだよ」


 マルルカの言葉は、思っていた以上に奥が深かった。先ほどの鮮やかな手並みも相まって、彼女が頼もしく見えてくる。


「ちなみに、いまの清掃は二十五分くらいかかったかな。ちょっと丁寧にやりすぎちゃった」


 掃除前の荒れ具合を考えると、驚異的な時間に思われた。だがマルルカとしては、不本意な数字だったらしい。


「このホテルはどの部屋も家具が多くてお手入れが大変だから、基本二人組で掃除をしていくの。クラシックルームなら、二人で一部屋十分を目指したいね」

「十分、か」


 つまりラヴィニアも、最終的にはマルルカ並の動きで清掃をしなければならない計算となる。「掃除なんて誰でもできる」と構えていたはずの自信が、にわかに揺らぎだした。


「でも、一部屋十分なら仕事は早くに済みそうね。このホテル、客室は全部で何部屋あるのかしら」

「百室だよ」

「……ひゃく?」

「ちなみにスイートルームは全三十室で、この部屋の三倍以上の広さはあるよ。でも今の時期はお客さんも少ないし、私たちに割り当てられるのはせいぜい十五室くらいじゃないかな」


 十五室。

 マルルカは簡単に言うが、ラヴィニアにとっては途方もない数字だった。

 彼女が語る十五室の中には、ここより広いスイートルームも含まれているはず。全てを掃除しきるのに、いったいどれだけの時間がかかるのだろう。


「部屋の清掃が終わったら、他の仕事もあるから。さ、次に行こう」


 頭の中で計算を始めた新入りに、マルルカは悪意なき追い討ちをかける。どこにも逃げ場はなく、ラヴィニアは強張る笑顔のまま次の部屋へと向かった。

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