22

 戦いは一時間にも及んだ。

 無限にも思えた激闘の果てに、ついにボスモンスターがその巨体を四散させた時も、だれ一人として歓声を上げる余裕のある者はいなかった。皆倒れるようにこくようせきの床に座り込み、あるいは仰向けに転がって荒い息を繰り返している。

 終わった──の……?

 ああ──終わった──

 その思考のやりとりを最後に、俺とアスナの《接続》も切れたようだった。不意に全身を重い疲労感がおそい、たまらず床にひざをつく。俺とアスナは背中合わせに座り込み、しばらく動くことはできそうもなかった。

 二人とも生き残った──。そう思っても、手放しで喜べる状況ではない。あまりにもせいしやが多すぎた。開始直後に三人が散った後も、確実なペースでまがまがしいオブジェクト破砕音がひびきつづけ、俺は六人まで数えたところで無理矢理その作業をめていた。

「何人──やられた……?」

 左のほうでがっくりとしゃがみこんでいたクラインが、顔を上げてかすれた声で聞いてきた。そのとなりで手足を投げ出してぎようしたエギルも、顔だけをこちらに向けてくる。

 おれは右手を振ってマップを呼び出し、表示された緑の光点を数えてみた。出発時の人数からせいしやの数を逆算する。

「──十四人、死んだ」

 自分で数えておきながら信じることができない。

 皆トップレベルの、歴戦のプレイヤーだったはずだ。たとえだつしゆんかん回復不可の状況とは言え、生き残りを優先した戦い方をしていればおいそれと死ぬようなことはない──と思っていたのだが──。

「……うそだろ……」

 エギルの声にもだんの張りはまったく無かった。生き残った者たちの上にあんうつな空気が厚く垂れ込めた。

 ようやく四分の三──まだこの上に二十五層もあるのだ。何千のプレイヤーがいると言っても、最前線で真剣にクリアを目指しているのは数百人といったところだろう。一層ごとにこれだけの犠牲を出してしまえば、最後にラスボスと対面できるのはたった一人──というような事態にもなりかねない。

 おそらくその場合は、残るのは間違いなくあの男だろう……。

 俺は視線を部屋の奥に向けた。そこには、ほかの者が全員床に伏す中、背筋を伸ばしてぜんと立つ紅衣の姿があった。ヒースクリフだ。

 無論彼も無傷ではなかった。視線を合わせてカーソルを表示させると、HPバーがかなり減少しているのが見て取れる。俺とアスナが二人がかりでどうにか防ぎ続けたあの巨大なほねかまを、ついに一人でさばききったのだ。数値的なダメージにとどまらず、疲労こんぱいして倒れても不思議ではない。

 だが、ゆうよう迫らぬ立ち姿には、精神的なしようもうなどかいと思わせるものがあった。まったく信じられないタフさだ。まるで機械──永久機関を備えたせんとう機械のようだ……。

 俺は、疲労でしやのかかったような意識のままぼんやりとヒースクリフの横顔を見つめ続けた。伝説の男の表情はあくまでおだやかだ。無言で、床にうずくまるKoBメンバーや他のプレイヤーたちを見下ろしている。暖かい、いつくしむような視線──。言わば──

 言わば、せいおりの中で遊ぶ子ねずみの群を見るような。

 そのせつ、俺の全身を恐ろしいほどのせんりつが貫いた。

 意識が一気にかくせいする。指先から脳の中心までが急速に冷えていく。俺の中に生まれた、ある予感。かすかな発想の種がみるみるふくらみ、疑念の芽を伸ばしていく。

 ヒースクリフのあの視線、あの穏やかさ。あれは傷ついた仲間をいたわる表情ではない。彼は俺たちと同じ場所に立っているのではない。あれは、はるかな高みから慈悲を垂れる──神の表情だ……。

 おれは、かつてヒースクリフとデュエルした時の、彼の恐るべき超反応を思い出していた。あれは人間の速度の限界を超えていた。言いなおそう。SAOシステムに許されたプレイヤーの限界速度を、だ。

 それに、彼のごろの態度。最強ギルドのリーダーでありながら、自ら命令を発することなく、ほかのプレイヤーたちに万事をゆだねただ見守り続けた。あれは配下をしんらいしていたからではなく──一般のプレイヤーには知り得ないことを知るがゆえの自制だったのか?

 デスゲームのルールにしばられぬ存在。だがNPCではない。単なるプログラムに、あのようなあふれた表情はできない。

 NPCでもなく一般のプレイヤーでもないならば、残る可能性はただ一つだ。だが、それをどうすれば確認できるのか。方法などない……なにひとつ。

 いや、ある。今このしゆんかん、この場所でのみ可能な方法がたった一つだけある。

 俺はヒースクリフのHPバーを見つめた。こくな戦いを経て大きく減少している。だが、半分にまでは達していない。かろうじて、本当にぎりぎりの所でブルー表示にとどまっている。

 いまだかつて、ただの一度もイエローゾーンにおちいったことのない男。余人を寄せ付けぬその圧倒的防御力。

 俺とのデュエルの時、ヒースクリフの表情が動いたのは、HPが半分を割り込もうとしたその寸前だった。あれは、イエロー表示になることを恐れたのではないのだ。

 そうではなく──おそらくは──。

 俺はゆっくりと右手の剣を握り直した。ごく小さな動きで、徐々に右足を引いていく。腰をわずかに下げ、低空ダッシュの準備姿勢を取る。ヒースクリフは俺の動きに気付いていない。そのおだやかな視線はただ、打ちひしがれるギルド団員にのみ向けられている。

 仮に予想がまったくの的外れなら、俺は犯罪者プレイヤーに転落し、ようしやない制裁を受けることとなるだろう。

 その時は……御免な……。

 俺はかたわらに腰を落としているアスナをちらりと見やった。同時にアスナも顔をあげ、二人の視線がこうさくした。

「キリト君……?」

 アスナがハッとした表情で、声に出さず口だけを動かした。だがその時にはもう俺の右足は地面をっていた。

 俺は、ヒースクリフとのきよ約十メートル、床ぎりぎりの高さを全速で一瞬にして駆け抜け、右手の剣をひねりながら突き上げた。片手剣の基本突進技《レイジスパイク》。威力の弱い技ゆえこれが命中してもヒースクリフを殺してしまうことはないが、しかし、俺の予想通りなら──。

 ペールブルーのせんこうを引きながら左側面より迫るけんせんに、ヒースクリフはさすがの反応速度で気付き、目を見開いてきようがくの表情を浮かべた。とつに左手の盾を掲げ、ガードしようとする。

 しかしその動きのクセを、おれはデュエルの時に何度も見て覚えていた。一条の光線となった俺の剣が、空中で鋭角に軌道を変え、盾の縁をかすめてヒースクリフの胸に突き立つ──

 寸前で、目に見えぬ障壁に激突した。俺の腕に激しいしようげきが伝わった。紫のせんこうさくれつし、俺とやつの中間に同じく紫──システムカラーのメッセージが表示された。

【Immortal Object】。不死存在。か弱き有限の存在たる俺たちプレイヤーにはありえない属性。デュエルの時、ヒースクリフが恐れたのは、まさにこの神的保護がばくされてしまうことだったのだ。

「キリト君、何を──」

 俺の突然の攻撃に、おどろきの声を上げて駆け寄ろうとしたアスナがメッセージを見てぴたりと動きを止めた。俺も、ヒースクリフも、クラインや周囲のプレイヤーたちも動かなかった。静寂の中、ゆっくりとシステムメッセージが消滅した。

 俺は剣を引き、軽く後ろに跳んでヒースクリフとの間にきよを取った。数歩進み出たアスナが俺の右横に並んだ。

「システム的不死…? …って…どういうことですか…団長…?」

 戸惑ったようなアスナの声に、ヒースクリフは答えなかった。厳しい表情でじっと俺を見据えている。俺は両手に剣を下げたまま、口を開いた。

「これが伝説の正体だ。この男のHPはどうあろうと注意域イエローにまで落ちないようシステムに保護されているのさ。……不死属性を持つ可能性があるのは……NPCでなけりゃシステム管理者以外有り得ない。だがこのゲームに管理者はいないはずだ。ただ一人を除いて」

 言葉を切り、上空をちらりと見やる。

「……この世界に来てからずっと疑問に思っていたことがあった……。あいつは今、どこから俺たちを観察し、世界を調整してるんだろう、ってな。でも俺は単純な真理を忘れていたよ。どんな子供でも知ってることさ」

 俺は紅衣のせいにまっすぐ視線を据え、言った。

「《他人のやってるRPGをはたから眺めるほど詰まらないことはない》。……そうだろう、かやあきひこ

 すべてが凍りついたような静寂が周囲に満ちた。

 ヒースクリフは無表情のままじっと俺に視線を向けている。周りのプレイヤーたちは皆身動きひとつしない。いや、できないのか。

 俺のとなりでアスナがゆっくりと一歩進み出た。そのひとみきよの空間をのぞき込んでいるかのように感情が欠落している。くちびるがわずかに動き、乾いたかすれ声がれた。

「団長……本当……なんですか……?」

 ヒースクリフはそれには答えず、小さく首をかしげると俺に向かって言葉を発した。

「……なぜ気付いたのか参考までに教えてもらえるかな……?」

「……最初におかしいと思ったのは例のデュエルの時だ。最後のいつしゆんだけ、あんた余りにも速過ぎたよ」

「やはりそうか。あれは私にとっても痛恨事だった。君の動きに圧倒されてついシステムのオーバーアシストを使ってしまった」

 彼はゆっくりうなずくと、はじめて表情を見せた。くちびるかたはしをゆがめ、ほのかな苦笑の色を浮かべる。

「予定では攻略が九十五層に達するまでは明かさないつもりだったのだがな」

 ゆっくりとプレイヤーたちを見回し、笑みの色合いを超然としたものに変え、紅衣のせいは堂々と宣言した。

「──確かに私はかやあきひこだ。付け加えれば、最上層で君たちを待つはずだったこのゲームの最終ボスでもある」

 となりでアスナが小さくよろめく気配がした。俺は視線をらさぬままそれを右手で支えた。

「……しゆがいいとは言えないぜ。最強のプレイヤーが一転最悪のラスボスか」

「なかなかいいシナリオだろう? 盛り上がったと思うが、まさかたかが四分の三地点で看破されてしまうとはな。……君はこの世界で最大の不確定因子だと思ってはいたが、ここまでとは」

 このゲームの開発者にして一万人の精神をりよしゆうとした男、茅場晶彦は見覚えのあるうすい笑みを浮かべながら肩をすくめた。聖騎士ヒースクリフとしてのそのようぼうは、現実世界の茅場とは明らかに異なる。だが、その無機質、金属質な気配は、二年前俺たちの上に降臨した無貌のアバターと共通するところがある。茅場は笑みをにじませたまま言葉を続けた。

「……最終的に私の前に立つのは君だと予想していた。全十種存在するユニークスキルのうち、《二刀流》スキルはすべてのプレイヤーの中で最大の反応速度を持つ者に与えられ、その者がおうに対する勇者の役割をになうはずだった。勝つにせよ負けるにせよ。だが君は私の予想を超える力を見せた。こうげき速度といい、その洞察力といい、な。まあ……この想定外の展開もネットワークRPGのだいと言うべきかな……」

 その時、凍りついたように動きを止めていたプレイヤーの一人がゆっくりと立ち上がった。血盟騎士団の幹部を務める男だ。ぼくとつそうなその細い目に、せいさんな苦悩の色が宿っている。

「貴様……貴様が……。俺たちの忠誠──希望を……よくも……よくも……」

 巨大な斧槍ハルバードを握りめ、

「よくも────ッ!!」

 絶叫しながら地をった。止める間もなかった。大きく振りかぶった重武器を茅場へと──。

 だが、茅場の動きのほうが一瞬速かった。を振り、出現したウインドウを素早く操作したかと思うと、男の体は空中で停止し次いで床に音を立てて落下した。HPバーにグリーンの枠が点滅している。状態だ。茅場はそのまま手を止めずにウインドウを操り続けた。

「あ……キリト君……っ」

 振り向くと、アスナも地面にひざをついていた。とつに周囲を見渡せば、おれかや以外の全員が不自然な格好で倒れて、うめき声を上げている。

 俺は剣を背に収めるとひざまずいてアスナの上体を抱え起こし、その手を握った。茅場に向かって視線を上げる。

「……どうするつもりだ。この場で全員殺していんぺいする気か……?」

「まさか。そんなじんはしないさ」

 紅衣の男は微笑を浮かべたまま首を左右に振った。

「こうなってしまっては致し方ない。予定を早めて、私は最上層の《こうぎよくきゆう》にて君たちの訪れを待つことにするよ。九十層以上の強力なモンスター群に対抗し得る力として育ててきた血盟だん、そして攻略組プレイヤーの諸君を途中で放り出すのは不本意だが、何、君たちの力ならきっと辿たどり着けるさ。だが……その前に……」

 茅場は言葉を切ると、圧倒的な意思力を感じさせるそのそうぼうでひたと俺を見据えてきた。右手の剣を軽く床のこくようせきに突き立てる。高くんだ金属音が周囲の空気を切り裂く。

「キリト君、君には私の正体を看破した報奨リワードを与えなくてはな。チャンスをあげよう。今この場で私と一対一で戦うチャンスを。無論不死属性は解除する。私に勝てばゲームはクリアされ、全プレイヤーがこの世界からログアウトできる。……どうかな?」

 その言葉を聞いたたん、俺の腕の中でアスナが自由にならない体を必死に動かし、首を振った。

「だめよキリト君……! あなたを排除する気だわ……。今は……今は引きましょう……!」

 俺の理性も、その意見の正しさを認めていた。やつはシステムそのものに介入できる管理者だ。口ではフェアな戦いと言ってもどのような操作を行うかわからない。ここは退き、皆で意見を交換し、対応を練るのが最上の選択だ。

 だが。

 奴は何と言った? 血盟騎士団を育ててきただと? きっと辿り着けるだと……?

「ふざけるな……」

 俺の口から無意識のうちにかすかな声がれた。

 奴は、己の創造した世界に一万人の精神を閉じ込め、そのうち実に四千人の意識を電磁波によって焼却せしめるにとどまらず、自分の描いたシナリオ通りにプレイヤーたちがおろかしく、あわれにもがく様をすぐそばから眺めていたという訳だ。ゲームマスターとしてはこれ以上の快感はなかったろう。

 俺は、二十二層で聞いたアスナの過去を思い出していた。俺にすがって泣いた彼女の涙を思い出していた。世界創造の快感のためにアスナの心を何度も何度も傷つけ、血を流させたこの男を目の前にただ退くことがどうしてできるだろうか。

「いいだろう。決着をつけよう」

 おれはゆっくりうなずいた。

「キリト君っ…!」

 アスナの悲痛な叫び声に、腕の中の彼女に視線を落とす。胸をち抜かれるような痛みが生まれるが、どうにか笑顔を作ることに成功する。

「ごめんな。ここで逃げるわけには……いかないんだ……」

 アスナは何か言おうとしてくちびるを開きかけたが、途中でやめて、代わりに必死のほほみを浮かべた。そのほおを涙のしずくが伝った。

「死ぬつもりじゃ……ないんだよね……?」

「ああ……。必ず勝つ。勝ってこの世界を終わらせる」

わかった。信じてる」

 たとえ俺が負け、消滅しても、君だけは生きてくれ──。そう言いたかったが言えなかった。代わりに、アスナの右手を長く、固く握った。

 手をはなし、アスナの体をこくようせきの床に横たえて立ち上がる。無言でこちらを見ているかやにゆっくり歩み寄りながら、両手で音高く二本の剣を抜き放つ。

「キリト! やめろ……っ!」

「キリトーッ!」

 声の方向を見ると、エギルとクラインが必死に体を起こそうとしながら叫んでいた。俺は連中に向きなおると、まずエギルと視線を合わせ、小さく頭を下げた。

「エギル。今まで、剣士クラスのサポート、サンキューな。知ってたぜ、お前がもうけのほとんど全部、中層ゾーンのプレイヤーの育成につぎ込んでたこと」

 目を見開く巨漢に微笑みかけてから、顔を少し動かす。

 あくしゆなバンダナのカタナ使いは、しようひげの浮く頰をふるわせ、何か言葉を探すように呼吸だけをり返していた。

 その深くくぼんだ両眼をまっすぐにのぞき込み、俺は大きく息を吸った。どうしてものどが詰まり、声が揺れるのを抑えることはできなかった。

「クライン。…………あの時、お前を……置いていって、悪かった。ずっと、後悔していた」

 かすれた声で、それだけを言ったたん、旧友の両眼の縁に小さく光るものが生まれ、次々にしたたった。

 たちまちのうちにぼうの涙をあふれさせながら、クラインは再び起き上がろうと激しくもがき、喉が張り裂けんばかりに絶叫した。

「て……てめえ! キリト! 謝ってんじゃねえ! 今謝るんじゃねえよ!! 許さねえぞ! ちゃんと向こうで、メシのひとつもおごってからじゃねえと、絶対許さねえからな!!」

 尚もわめき続けようとするクラインに、俺は頷きかけた。

わかった。約束するよ。次は、向こう側でな」

 右手を持ち上げ、ぐっと親指を突き出す。

 そしておれは、二年間どうしても言えなかったことを言わせてくれた少女を、最後にもう一度見詰めた。

 泣き笑いの顔でこちらを見返すアスナに──。

 俺は胸中で、すまない、とつぶやき、くるりと体をひるがえした。超然とした表情を保ち続けているかやに向かって、口を開く。

「……悪いが、一つだけたのみがある」

「何かな?」

「簡単に負けるつもりはないが、もし俺が死んだら──しばらくでいい、アスナが自殺できないように計らってほしい」

 茅場は意外そうに片方のまゆをぴくりと動かしたが、無造作にうなずいた。

「良かろう。彼女はセルムブルグから出られないように設定する」

「キリト君、だめだよーっ!! そんなの、そんなのないよ──っ!!」

 俺の背後で、涙混じりのアスナの絶叫がひびいた。俺は振り返らなかった。右足を引き、左手の剣を前に、右手の剣を下げて構える。

 茅場が左手のウインドウを操作すると、俺とやつのHPバーが同じ長さに調整された。レッドゾーンぎりぎり手前、きようこうげきのクリーンヒット一発で決着がつく量だ。

 次いで、奴の頭上に、【changed into mortal object】──不死属性を解除したというシステムメッセージが表示される。茅場はそこでウインドウを消去すると、床に突き立てた長剣を抜き、十字盾の後ろに構えた。

 意識は冷たくんでいた。アスナ、ごめんな……という思考が泡のように浮かび、はじけたのを最後に、俺の心をとうそう本能が凍らせ、ぎ澄ましはじめた。

 勝算は、実のところ何とも言えない。前回のデュエルでは、剣技に限れば奴より劣るという感触はなかった。だが奴の言う《オーバーアシスト》、あの、こちらが停止し奴だけが動けるというシステム介入技を使われればその限りではない。

 すべては茅場のプライドにかかっている。口ぶりから判断すれば、奴は《神聖剣》の性能の範囲内で俺に勝とうとするだろう。そのすきを突き、短期決着に持ち込むしか俺の生き残る道はない。

 俺と茅場の間のきんちようかんが高まっていく。空気さえその圧力にふるえているような気がする。これはデュエルではない。単純な殺し合いだ。そうだ──俺は、あの男を──

「殺す……っ!!」

 鋭い呼気と共にき出しながら、俺は床をった。

 遠い間合いから右手の剣をよこぎにり出す。茅場が左手の盾でそれを難なく受け止める。火花が散り、二人の顔をいつしゆん明るく照らす。

 金属がぶつかりあうそのしようげきおんせんとう開始の合図だったとでも言うように、一気に加速した二人のけんげきが周囲の空間を圧した。

 それは、おれがかつて経験した無数の戦闘の中でもっともイレギュラーで、人間的な戦いだった。二人ともに一度お互いの手の内を見せている。そのうえ《二刀流》スキルをデザインしたのはやつなのだから、単純な連続技はすべて読まれると思っていい。以前のデュエルで俺の技が軒並み止められたのもうなずける。

 俺はシステム上に設定された連続技を一切使わず、左右の剣を己の戦闘本能が命ずるままに振り続けた。当然システムのアシストは得られないが、限界まで加速された知覚に後押しされてか、両腕は通常時を軽く上回る速度で動く。自分の目にすら、残像によって剣が数本、数十本にも見えるほどだ。だが──。

 かやは舌を巻くほどの正確さで俺の攻撃を次々とたたき落とした。その合間にも、すこしでもこちらにすきができると鋭い一撃を浴びせてくる。それを俺が瞬間的反応だけで迎撃する。局面は容易に動こうとしなかった。少しでも敵の思考、反応を読もうと、俺は茅場の両目に意識を集中させた。二人の視線がこうさくする。

 茅場──ヒースクリフのしんちゆういろそうぼうはあくまで冷ややかだった。かつてのデュエルの時にかいせた人間らしさは、今はもうかけらも見えない。

 不意に、おれの背中をわずかなかんが走った。

 俺が今相手にしているのは、四千もの人間を殺してのけた男なのだ。果たしてそんなことが、人にできるものだろうか。四千人の死、四千人のおんねん、その重圧を受け入れてなお正気を保っていられるなら──それはもう人間ではない。怪物だ。

「うおおおおおお!!」

 心の奥に生まれた、ごく小さな恐怖のかけらを吹き飛ばそうとするように俺は絶叫した。さらに両手の動きを加速させ、秒間何発ものこうげきちこむが、かやの表情は変わらない。目にも留まらぬ速さで十字盾と長剣を操り、的確に俺の攻撃をはじき返す。

 もてあそばれているのか──!?

 恐怖があせりへと変わっていく。防戦一方に見える茅場は、実はいつでも反撃を差し挟み、俺に一撃を浴びせる余裕があるのではないのか。

 俺の心を疑念がおおっていく。やつには、オーバーアシストなど使う必要はなかったのだ。

「くそぉっ……!」

 ならば──これでどうだ──!

 俺は攻撃を切り替え、二刀流最上位剣技《ジ・イクリプス》を放った。太陽コロナのごとく全方向から噴出したけんせんが超高速で茅場へと殺到する。連続二十七回攻撃──。

 ──だが。茅場はそれを、俺がシステムに規定された連続技を出すのを待ち構えていたのだった。奴のくちもとにはじめて表情が浮かんだ。それは前回とは逆──勝利を確信した笑みだった。

 最初の攻撃数発を放った時点で、俺はミスを悟った。最後の最後で、自分のセンスではなく、システムにたよってしまった。もはや連続技を途中で止めることはできない。そのしゆんかん硬直時間を課せられてしまう。かと言って、俺の放つ攻撃はすべて、最後の一撃に至るまで茅場にあくされている。

 剣の飛ぶ方向を予測してめまぐるしく動く茅場の十字盾にむなしく攻撃を撃ち込みながら、俺は心のなかでつぶやいた。

 ごめん──アスナ……。せめて君だけは──生きて──

 二十七撃目の左突き攻撃が、十字盾の中心に命中し、火花を散らした。直後、硬質の悲鳴を上げて、俺の左手に握られた剣が砕け散った。

「さらばだ──キリト君」

 動きの止まった俺の頭上に、茅場の長剣が高々と掲げられた。その刀身がクリムゾンの光をほとばしらせる。血の色の帯を引きながら、剣が降ってくる──。


 その瞬間、俺の頭の中に、強く、激しく、声がひびいた。

 キリト君は──わたしが──守ってみせる!!

 しんかがやく茅場の長剣と、立ち尽くす俺の間に、すさまじいスピードで飛び込んだ人影があった。くりいろの長い髪が宙を舞った。

 アスナ──なぜ──!?

 システム的状態によって動けなかったはずの彼女が、おれの前に立っていた。かんぜんと胸を張り、両腕を大きく広げて。

 かやの表情にもおどろきの色が見えた。だがざんげきはもうだれにも止められなかった。すべてがスローモーションのようにゆっくりと動く中、長剣はアスナの肩口から胸までを切り裂き、停止した。

 のけぞるようにこちらに倒れるアスナに向かって、俺は必死に手を伸ばした。音も無く、俺の腕の中に彼女が崩れ落ちた。

 アスナは、俺と視線が合うと、かすかに微笑した。そのHPバーが──消滅していた。


 時間が停止した。


 夕暮れ。草原。微風。少し冷たい。

 二人並んで丘に座り、深い紺の上に夕陽の赤金色が溶けた湖を見下ろしている。

 れの音。ねぐらに帰る鳥の声。

 彼女がそっと手を握ってくる。肩に頭をもたれさせる。

 雲が流れていく。ひとつ、ふたつ、星がまたたき始める。

 世界を染める色がすこしずつ変わっていくのを、二人でいつまでも飽かず見つめ続ける。

 やがて、彼女が言う。

「すこし、眠くなっちゃった。ひざ、借りていい?」

 ほほみながら答える。

「ああ、いいよ。ゆっくりおやすみ──」


 俺の腕に倒れ込んだアスナは、あの時と同じように、おだやかな笑みを浮かべ、無限のあいたたえたひとみで俺を見つめた。だがあの時感じた確かな重みも、暖かさも今は無かった。

 アスナの全身が、少しずつ金色のかがやきに包まれていく。光の粒がこぼれ、散っていく。

「うそだろ……アスナ……こんな……こんなの……」

 震える声でつぶやく。だが、無慈悲な光はどんどん輝きを増し──。

 アスナの瞳から、はらりとひとつぶの涙が落ち、いつしゆん輝いて、消えた。くちびるが、かすかに、ゆっくりと、音を刻むように動いた。


 ご め ん ね


 さ よ な ら


 ふわり──。

 おれの腕の中で、ひときわまばゆく光がはじけ、無数の金色の羽根が散った。

 そして、そこにもう彼女はいなかった。


 声にならぬ絶叫を上げながら、俺はそのかがやきを両腕で必死にかき集めようとした。だが、金の羽根は風に吹き散らされるように舞い上がり、拡散し、蒸発していく。消える。消えてしまう。


 こんなことが起きるはずがない。起きていいはずがない。はずがない。はずが──

 崩れるようにりようひざをついた俺の右手に、最後の羽根がかすかに触れ、消えた。

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