15 魑魅魍魎の夜
(派手に始まったわね)
その後、南蒼は騒動の原因を作ったと思しき兄の元へと向かい部屋を出た。今、雪音の傍らにはなつめが座り、二人の正面には、意識を失い横たわる村娘の姿がある。
「お雪様、何かわかりましたか?」
そわそわと揺れながら、なつめは雪音の手元を覗き込む。黒々とした達筆で、難解な言葉が書き連ねられた
「誰かが
雪音は指で行をなぞる。
「上質な紙。きっと、立場ある人物からの書状ね。そして、ここ。差出人が黒塗りにされている。これでは黒幕の正体がわかりませんわ」
本来署名があっただろう箇所は墨で潰されている。なつめが、生来眠たそうな形をした目を精一杯つり上げて、憤然と言った。
「いったい誰がこんなことを。やましいことがあるに違いありません!」
「そうね」
「墨はまだしっとりしています。黒塗りにされてからそう時間は経っていません。もしかすると、この女の人に聞いたら何かわかるでしょうか」
「どうかしら」
そう、この書状は、床に昏倒した村娘の手に握られていたのだ。ならば彼女は、何か手がかりとなるものを見聞きしているかもしれない。なつめがそう思うのも無理からぬことだ。
「この人の手、結構墨で汚れているんですよね。もしかして、彼女が署名を消したのでは」
書状のいたるところに墨が点々と染みており、署名のみならず全体的に文字が読みづらくなっている。かろうじて内容は判読可能だが、一部の接続詞や細かな筆跡の癖は、ぱっと見ただけではわかりづらい。
「幸いこの人に怪我はないようですし、目覚めるまで待ってから」
なつめが期待を込めて言った時だった。不意に室内が薄明るくなる。
手燭の明かりが近づいたのか、廊下がぼんやりと朱色に染まっていた。赤く照らされた障子に、巨大に引き延ばされた人影がゆらりと映る。その頭部には一本の角。
「我は人食いの鬼じゃ」
まるで地鳴りのように低くごろついた男の声が、不穏に響く。
「邪悪な術で水を封じ、龍の住まう川を害した愚かで身の程知らずな人間どもめ。成敗してくれよう。せいぜい己の所業を悔いながら我が夜食となれ……!」
獣のごとく咆哮と同時に、鬼の太い指が薄い障子を貫いた。暴力的な音に、なつめが悲鳴を上げる。雪音は反射的になつめの肩を抱き、勢いよく開こうとする障子を睨む。そして。
「……源三郎様⁉」
現れた姿を見て、雪音は素っ頓狂な声を上げた。驚いたのは相手も同様だったらしい。鋭い牙を剥き、食欲に目を爛々と光らせた鬼が、相手を威圧しようとした顔のまま硬直している。
やがて、残忍につり上がっていた口角が次第に弛緩して、ぽかんと口を半開きにした何とも締まりのない面になる。片手に掲げ持つ燭台に照らされた頬が、灯の朱色にも負けないほど赤らんだ。
「おおっ、ゆ、雪音! なつめも一緒か」
渾身の凶悪顔をして障子を引いた先にいたのが妻たちだと気づき、剛厚はしどろもどろになる。
「い、いやこれは、何というか、奇遇な」
「まあ、殿ったら、鬼のふりをしていらっしゃるの?」
そう。眼前で仁王立ちするのは、はちきれんばかりに筋骨隆々とした鬼である。
雪音は、己の額をちょいちょいと指先で突き、
「ち、ちちちち、違うのだ。これは偽物で」
「ええ、鬼のふりをして山伏たちを攪乱されていたのですわね」
「う、うむ。そうだぞ。ほら、この通り取り外しができる」
剛厚は手のひらで隠しながら角を引き抜く仕草をし、空気の塊を廊下にぽいと投げ捨てた。無論、全ては演技である。剛厚は再び人間に化け、角を引っ込めただけだ。
いったいいつまで正体を隠すつもりなのだろう。雪音は半ば呆れ、渋い顔になる。
けれども雪音は知っている。この茶番は、人間の妻に対する剛厚なりの不器用な配慮。普通の人間ならば、政略結婚の相手が人食いの鬼だと知れば、恐怖と絶望で命を絶ってもおかしくない。
ならば雪音とて、彼の優しさを無下にはしまい。袖で口元を覆い、いささか大仰に驚きの表情を作って言った。
「まあっ! すごいわ。よくできた角ですのね」
「うむ。そうだろう。して、そちらの女人はどうされた」
剛厚は不自然に話を変えて、床に転がる村娘を目で示す。雪音は、ああと頷いて、握り締めていた紙を差し出した。
「どうやら彼女が、核心に迫るものを見つけたようなのです」
「書状? うむ、これは」
剛厚の目が文字をたどる。眼球が文の先へと進むにつれて、頬が強張った。
「やはり雲景らは、何者かの命令により南蒼川を涸れさせたのか。しかしいったい誰の」
「それがわかりませんの。差出人が黒く塗り潰されていますから」
「署名のみならず全体的に墨で汚れている。筆運びの癖から差出人を特定するのも難しそうだな」
剛厚は歯がゆそうに言い、書状を雪音に返す。
「そもそも、なぜ村娘が書状を?」
「彼女はきっと、雲景が言っていた『もう一人の客人』なのでしょう。でもそれ以上のことはわかりませんわ」
雪音が首を振った直後、再びどこかで屏風か何かが倒れる音がした。続いて、絶叫が響き渡る。
「ぎゃああああ! やめてくれ!」
「許すまじ、天狗の名を汚す山伏ども。さあ、吐け。吐くのだ。水封じの
「へ? 呪いなんて知ら……うわっ、鬼!?」
再度空気を震撼させる転倒音。雪音となつめ、剛厚は顔を見合わせる。こほん、と咳払いをして、剛厚が村娘の腕を取り背負い上げた。
「とにかく、いったん建物を出た方がよかろう」
「そうですわね。ですがいったい何が起こっているのです。天狗と鬼が襲ってきたのですか?」
「案ずるな。共に味方だ。天狗は
「ああ、戸喜左衛門様」
なつめが大きく息を吐き、許婚の名を呼んだ。雪音は彼女の腕を軽く撫でて促し、四人で本坊を出た。
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