3 妖狸のお誘い

 時はやや戻る。


 御殿から飛び出した剛厚つよあつは、気づけば築地ついじ沿いに植えられた松の側にたどり着いていた。ほとんど脇目も振らずに全力疾走したものだから、息が弾んでいる。立ち止まった瞬間にどっと汗が噴き出して、鱗に覆われたような松の幹に両手を突き、大きく息を吐く。


(危うく食ってしまうかと思った。いかんぞ、いかん。禁忌を犯すのは絶対にいかん)


 そう、禁忌。実は、あやかし世界には、あやかし三箇条というものがある。近年数を増やした人間と敵対しないように、あやかしが自主的に定めた共存の法。


一.人を食う性質のあやかしは、息のある人間を食ってはならない

二.人の生気を吸う性質のあやかしは、殺めるほど吸ってはならない

三.人を化かす性質のあやかしは、悪戯をしたのと同等の富を相手にもたらすべし


 人を食うあやかしの代表格は鬼や狒狒ひひ、生気を吸うのは妖狐ようこや雪女であり、化かす種族は多くいるが、中でも妖狸ようりが有名か。


 剛厚の場合、言わずもがな「一」が該当するが、婿入り初日に新妻を文字通り食ったとなれば大事件。あやかし三箇条などなくとも白澤の家臣らに斬り伏せられてもおかしくない蛮行だ。


 ただでさえ今宵は空腹だ。何せ、祝言の間で対面した娘の血肉が発する芳しい香りが鼻に残ってしまい、食事がほとんど喉を通らなかったのだから。先ほどなどは胃が鳴ってしまい、妻を怯えさせたのではなかろうかと不安になる。いいや、もっと悪いことに、剛厚が鬼だということに、勘づかれていても不思議はない。


「ああああこれはいかんぞ。大兄者おおあにじゃ、かたじけない。やはりそれがしはお役に立てぬ!」


 剛厚は頭を抱えて呻く。これからいったいどうすればいいのだろう。雪音は確か、十七歳。剛厚の方は二十三歳なので、三十年以上は共に過ごすことになるのだろう。たいそう美味そうな血肉の匂い。到底、理性は保つまい。


 いいや、遠い未来のことも不安だが、もしかすると今宵を乗り越えることすらできないのでは。こうして悶々としている今も、胃が騒ぎ立てている。


(そうか、ひとまず他のもので腹を満たせばいいのでは)


 くりやに行けば、残飯があるかもしれない。が、残念なことに厨の場所がわからない。雪音に訊ねるしかないだろうが、寝所に戻れば血肉の芳香が剛厚を誘惑するだろう。


 ならば別のことを考えるか。剛厚は雪音の白小袖姿を脳裏に思い浮かべた。可愛い新妻の姿にかき消され、さあ、食欲よ去るがいい。


 白澤家の姫、雪音。まず、この厳つい顔と分厚い巨体を恐れもしない芯の強さが気に入った。さらに、剛厚の長兄厚隆あつたかが述べていた通り、評判に違わぬ色白の美姫である。


 少し目尻のつり上がり気味なまなこはどんぐりのように大きく愛らしい。照れくさいのか、しきりに口元を覆う姿も上品で魅力的。袖に隠された鼻は少し上向いていて愛嬌があり、唇はぷっくりとして頬はまろやかだ。そして、かなりの小柄。けれどもおそらく痩せぎすではない。つくべき場所に適度な肉がつき、肉が、肉……。


 剛厚は獣のような唸り声と共に、額を松の木に打ちつけた。まるで小屋でも建てているかのような殴打音が二の丸中に響き渡る。ジー、とやかましく騒いでいた初夏の虫も驚き一瞬鳴くのを止めた。


 幹が悲鳴を上げる一方、剛厚の頭に割れる気配はない。危うく木が一本、木材になりかけた。その時だ。


「やいやい、鬼やい」


 少し離れた背後から、しわがれた老爺ろうやの声がした。剛厚はぴたりと動きを止めて、振り返る。奇妙なことに、視線の先には誰もいない。束の間呆けた剛厚の足元から、嘲るように鼻を鳴らした音がする。目を落とせばそこには、丸々とした狸がいた。


妖狸ようりか?」


 しゃべる動物は大方あやかしだ。妖狸はうむ、と首肯する。


「いかにも。わしは妖山あやかしやまの妖狸じゃ。皆からは狸爺たぬきじいと呼ばれておる。それよりも鬼よ、いかがした。もしや空腹なのではなかろうか」

「なぜ腹が減っているとわかっ……、いいや、某は鬼ではない」

「隠しごとは無駄だぞう。腹の虫がぐうぐう鳴っておる。それに、妖狸は化けることが本職じゃ。鬼風情の大雑把な変化へんげなど、おぬしがこの城に足を踏み入れた瞬間から見抜いておった」

「そ、そうか。であれば妖狸、頼みがある。厨の場所を教えてくれまいか。そなたの言う通り、腹が減って仕方ないのだ」

「教えてやってもいいが、残飯はないぞ。あやかしが持って帰った」

「何だと!」

「残念だったな、鬼よ。大方、若い娘の肉が美味そうで美味そうでどうにも抗えんのだろう」

「良策はないものか」

「では、我が一族の館に招かれよ。ちょうどいい。新たな城主の婚礼に、祝いの宴を設けよう。何、妖山を人間の開拓から守ってくれる白澤家には、あやかし一同、古くから恩がある。その末裔であるうら若き姫君が食い殺されるのを見過ごせば、ご先祖様に顔向けできぬのでな」

「かたじけない!」


 助かった。剛厚は怪しげな狸爺の案内で城の抜け道を通り、いとも簡単に敷地外に出た。


 妖山城はその名の通り山城だ。搦手からめては妖山に面しており、やや進めば途端に鬱蒼とした森になる。夜気のせいか、それとも樹木が蓄えた水気のせいか、どこかひんやりとした空気で満ちている。剛厚は冷え始めた汗を腕で拭い、夜の獣道をいて進むが、いっこうに目的地は見えてこない。


「妖狸よ、あとどのくらいで着くか」

「もうしばらくじゃ」


 それを信じてひたすら進む。けれどもやはり、木々は途切れない。


「妖狸、妖狸。まだ着かぬか。あまりゆっくりしてはいられないのだ。このままでは夜が明けてしまう」

「何、もうしばらくじゃ。ひひひ」


 最後の引き笑いはいったい何事か。剛厚は今さらながらに思い出す。相手は妖狸。他者を化かし楽しむあやかしだ。もしや剛厚は今まさに、妖狸の餌食になっているのではなかろうか。


 ふと、寝所を出る前に見た雪音の表情が脳裏に蘇る。突然かわやへ逃げた剛厚を、目を丸くして見上げていた。このまま朝まで戻らなければ、彼女はきっと妻として拒まれたのだと思い悲しむことだろう。


「おい妖狸。すまぬがこれ以上かかるなら某は」

「着いたぞ、鬼よ」


 ひどく得意げな声だった。無理もない。木々や下草の生い茂る獣道の終点、宵闇に沈む枝葉の群れが途切れたその先に、青白く浮かび上がる豪邸がある。


 山中には不釣り合いな瓦葺きの立派な屋根。剛厚顔負けの恐ろしげな鬼瓦がこちらを見下ろしている。漆喰の壁は目に痛いほど白い。全てが真新しく、ひょっとすると白澤の御殿よりも豪勢かもしれない。


 梢に隠され月もほとんど覗かぬ山中だが、ここだけは木々が開けており、月影が妖狸屋敷をぼんやりと照らし出していた。


「ここが、そなたの一族の屋敷か?」

「ひひひ、そうじゃ。立派じゃろう。さあさ、こちらへ」


 妖狸はすっくと立ち上がり、足裏を叩いて土を落としてから二本足で屋敷へ上がって行った。

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