第4章 下層階
第25話 下層階へ
薄暗い部屋でしたので傷口はあまり見えませんでした。
それでも床を濡らす血は五感で感じられましたけれど。
――床に落ちた首。
トト様。
細身で、だけど筋肉もそこそこついている小柄で幼い肉体。
それが冷たく、固くなっていました。
……呼びかけても、もう彼女は起きません。
二度寝はダメですよ、と肩を揺すっても、彼女はもう…………
「クリスタ」
「…………」
「クリスタ。あんたが先に殺されてるって、分かってるでしょ?」
ヒナ様の言う通りです。
熟睡していたわたしの心臓にナイフを突き刺したトト様。
手が滑ってしまったわけではなく、彼女は生きるために、わたしを殺しました。
……わたしを、殺すために、枕を抱えて添い寝をお願いしてきたことも今なら分かります。
まさかトト様が……。と思ってしまうと、同じタイミングでやってきたヒナ様を疑っていました、と言っているようなものです。違います、わたしはおふたりのことを信用していました。
疑っているとすれば、別室にいるフロイド様で……。
「襲ってくるとしたら、フロイド様だと思っていました」
「気持ちは分かるけど……。だけどリスクが高いよ。あいつなら寝込みは襲わないと思う。じゃあ起きている時に襲ってくるとか思えばしないと思うけど……。あいつの考えてることはよく分かんないかな」
「わたしは、トト様のことも、分かっていませんでした」
「ふうん。じゃあ、あたしのことは分かってる?」
聞きながら、苦笑したヒナ様でした。
わたしも、答えを返すことができません。
「――他人のことなんか分からないよね。あたしだって、今のクリスタがなにを考えているのか分からないし」
「ごめんなさい……」
「謝らないでよ。ずっと一緒に暮らしてきた姉妹じゃないんだから。……繰り返した時間の中でたくさんの時間を共に過ごしたと言っても、やっぱり心の底から打ち解けたわけじゃないでしょ。赤の他人のままなんだから、分からなくて当たり前。分からなくていいし、分からない方がいい。共感なんてしちゃダメだよ」
ヒナ様が目を逸らします。
遠い目をして――わたしを見ませんでした。
「共感してしまえば、手を出せなくなるでしょ?」
「…………え、」
「じゃ、あたし、あいつに報告してくる。あ、いや、報告というか、共有かな。別にあいつをリーダーとして受け入れて、報告しないといけないって思ってるわけじゃないんだけどね。ほら、あっちの部屋であいつも死んでるかもしれないし」
「それは、笑えない冗談ですね……」
「冗談とも言い切れない状況なんだけどさ――うん、ごめん、言うべきじゃなかったかも」
笑えない冗談ではありましたけど、あちこちでばたばたと人が死んでいくことが、あり得ないことでもない状況であることは確かでした。
最初は六人いた魔道士も、今や三人です。
わたし、ヒナ様、フロイド様。
フクロウ老師様にマリア様、そしてトト様が――死亡しています。
殺されています。
このダンジョンを脱出するための、鍵となって……。
ヒナ様はわたしを部屋に残し、廊下へ出ていきました。
部屋にはわたし、ひとりだけ。
ひとりと、ひとつ、です。
「…………」
次はわたしたちの誰か、でしょうね。
わたしかもしれません。
頭が切れるフロイド様、力に自慢があるヒナ様と比べてしまえば、わたしは格好の的です。
だからこそトト様は、まずわたしを狙ったのでしょうから。
一度だけ使える自動蘇生魔法も使ってしまいました。わたしの魔力はもうほとんどありません……空ではありませんが、底が見えてしまっています。もうないようなものでしょう。
魔力を補充するための
「トト様、わたし、どうしたらいいですか……?」
床に転がっている頭部。
わたしは彼女の顔に手を添え、開いたままのまぶたを閉じました。
――彼女には、見られたくないことをしようとしていますから。
固くなった幼い体に、わたしは、ゆっくりと手を伸ばします――――
それから。
食堂に集まったのは三人です。
少ないですね……だけど全員でした。
「全部聞いてる。だから説明は不要だよ。ひとまず朝食をどうするか、だけど」
「料理ができるトトがいないから、食材を直接かじることしかできないけど……生で食べていいのか分からないものばっかり。と言っても、昨日の豪勢な料理に食材を使っていたから、残ってるのは味に不安がある野菜や果物しかなさそうだけどね。テキトーに胃の中に入れておく?」
「あ……わたしは、いりません。食欲があまりないので……」
見慣れないわけではありませんが、やっぱり……今になっても死体はきついです。
「そ。あたしは果物を……うわ、黒くなってるけど大丈夫かな」
「俺もいらない。安全性が確保されてないものを胃に入れるのはごめんだね」
トト様が作った料理は安全性が確保されていた、とフロイド様は考えていたようです。
これは意外でした。
トト様が意図的に毒を混ぜていたかもしれない、とは、考えなかったのでしょうか。
目の前で毒味をしていたから、フロイド様の警戒も甘くなった、のかもしれませんが。
しかし食べなければ空腹で死ぬかもしれませんし、背に腹は代えられなかったのでしょう。
「うわ……やめとこ……」
ヒナ様は手に取った果物と野菜の状態を見て台に戻しました。
わたしたち全員、調理がまったくできないわけではないですけど、専門性がありません。魔法を使って食材の腐敗を癒すことも、できないわけでもないですが、やはり魔力は温存したいです。
あって困ることはありません。
こうして、わたしたちは三人になってしまいました。
半数が減った中、表向きは協力の方針ですけど、いつどこで、誰が裏切るかは分かりません。
「トトの死体はどうした?」
「部屋に置いたまま、です」
さすがに抱えて持ってはこれません。
動かしていいものか……いいのでしょうけど、躊躇いがありました。
あの場に置いたままの方が、死者への冒涜になってしまうかもしれませんが。
「じゃあ早速、あれを鍵にして、開放しよう――残っている未踏エリアは、下層階だ。トトの死体で下層階のワイバーンが、この先の道を譲ってくれると思うぜ」
下層階が見える壊れた階段の元へ向かいます。
ヒナ様がトト様の死体を背負っていました。頭部だけは、わたしが抱えています。
傷口だけは塞ぎました。癒したわけではなくて、赤黒い断面を見えないようにしただけですので、魔力は最小限で済んでいます。
壊れた階段の下。
底が見えない大穴と、下層階の床が見えました。
飛び降りた時、着地点がずれれば大穴へ真っ逆さま、という危険性は変わりません。
同時に、下層階を徘徊していたワイバーンがいましたが、これまでのことを振り返れば、死体がワイバーンにとっての通行手形となるのでしょう。
「じゃあ、渡すけど、いいよね?」
ヒナ様がトト様の死体を下層階へ落とそうとしています。
わたしは……、迷いながらも、抱えていた頭部も一緒に落とす覚悟を決めて、ヒナ様を見ます。
頷きました。
「じゃあいくよ、せーのっ」
声をかけられて、躊躇う余裕もなく、ヒナ様に合わせて頭部を落とします。
下層階のワイバーンが落下する死体に気づき、翼を広げて飛び上がります。
皮と筋肉ばかりの幼いヒナ様の死体が、ワイバーンの口の中へ。
死後硬直していたせいかもしれません。人から出た音とは思えないバキバキ音が響きました。
トト様の死体が、ワイバーンの胃の中へ。
満腹になった、とは思えないワイバーンの巨体でしたが、「げぇ」と息を吐いていたので、小腹を満たすことはできたのでしょう。わたしたちをちらりと見たワイバーンが移動しました。
そして、わたしたちからは見えない位置にいたであろう数十頭のワイバーンが、一斉に動き出し、下層階の壊れた壁から古城の外へ飛び立っていきました。
――彼女の死体と引き換えに、下層階が空きました。
トト様が観察してくれていたおかげで知っていましたけれど、もしも下層階へ死体なく強行突破しようとしていれば、数十頭のワイバーンに貪るように食べられていたことでしょう。
……そう思うとゾッとしますね。
「……気配はない。下りても大丈夫そうだな」
フロイド様が躊躇いなく飛び降りました。
「え、嘘っ!?」
少しずれたら大穴へ真っ逆さまなのに!?
「クリスタ? これくらい、高い内に入らないと思うけど……。魔道士でもダンジョン踏破したことくらいあるでしょ? 上ったり下ったり戦ったり…………。意外と、でもないか。箱入り娘なの?」
いえ、さすがに大事に育てられた魔道士ではありませんけど……。
勇者パーティの方々には、どんくさいわたしを待っている時間がもったいないと言われて、両手で抱えられることも多く……って、あれ? 思い返せばわたし、ダンジョンを自分の足で最初から最後まで歩いたこと、ないかもしれませんね……。
目の前の高さに臆してしまうほどには、少なくとも慣れていないわけですから。
「ふ、フロイド様……無事に着地できていますね……。すぐ横には大穴があるのに、よくもまあ――」
「クリスタ、怖いなら抱えてあげよっか?」
そこまでお世話になるわけには、と言いかけている内に、ヒナ様がわたしの体を抱えました。
お姫様抱っこです。
「きゃっ!?」
「おっと、暴れないで。それに、可愛い声じゃん。ちょっと怖いかもしれないけどがまんしてね」
そして、ヒナ様が壊れた階段から飛び降りました。
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