野のあかり
朝吹
上
生まれてくる娘の名まえには『明』の字と使うと決めていた。母親となるわたしの願望ありきの命名だ。最初の候補は明里と書いて、あかり。ところが、幕末に活躍した新選組総長山南敬助と馴染みだった芸妓の名が明里だと知った。「あけさと」と読まれてはかなわない。漢字を変えた。
明るい子に育ちますように。
沢山でなくてもいいから良い友だちに恵まれて、たかだか百年未満で終わるこの人生を存分に味わえますように。
決してわたしのようにはならないで。
くすぐったいと笑う
「寄せて上げるやつにして」
「あなたのサイズではどれを選んでもたいして変わりません」
早速ネット通販で検索する。明莉に任せていると何時間もかかるから、適当に幾つか買い物かごに入れた。
「可愛いのがいい」
「消耗品なんだから学生の間は安物で十分です」
クーポンを使用して最終確認の上で購入ボタンを押す。機能
「これを買ったから、今月は洋服は無しです」
「え、ずるい。後出し情報」
明莉は脚をばたばたさせたが、本気でぐずっているわけではなかった。
「もうすぐ考査でしょ」
「宿題から先にやる」
食事の後、四角い食卓は彼女の勉強机にかわる。
「『見るべきほどのことをば見つ』。ママ、平知盛は乳兄弟と壇ノ浦で入水するんだよ」
明莉が鞄から取り出したテキストに載っている版画は、錨を背負った知盛が
古典の宿題をやりながら明莉の気持ちはあちこちに逸れている。子どもが成人する十八歳まであと二年。明莉の声をききながら食器を洗い、麦茶の入った縦長のピッチャーを冷蔵庫にしまった。
わたしのようにはならないで。
二十年前わたしが高校を卒業した年、景気はどん底だった。決まっていた就職先が倒産し、仕方なく派遣会社に登録したわたしは、外車のディーラー店に働きに出た。
「藤沢さんは、ついこの前まで高校生だったんだってね」
俳優くずれのような顔立ちをしたその社員は、観葉植物の葉を拭いて霧吹きで水をやっているわたしに話しかけた。商談しているところに珈琲やお茶を出すのもわたしの役目だった。彼はいつも新車同様のいい車に乗っていた。
「家まで送ってあげるよ。乗って」
可愛い、本当に可愛いね。
才色兼備の姉とは違い、平凡な容姿だと自覚しているわたしは男の甘言を言葉半分にきいていたが、毎日あれほどの熱意をこめて、スーツを着ている大人の男に真剣に口説かれているうちに、ドラマの中にいるような心地になっていった。
離婚歴のある十歳年上の男。毎日のように送ってもらうのが当たり前になっていた或る夜、車から降りようとしたわたしの腕を掴んで、男はわたしを抱き寄せた。
自嘲こみで冷笑してしまう。あの頃のわたしは本当に愚かだった。男は元妻と別れた理由について、元妻の不貞が原因だと語ったが、それは嘘だった。
「ごめんね。まだ若い藤沢さんにこんな話をきかせて。俺、嘘だけはつけないからさ」
その男がわたしの夫になった。一年後、妊娠中のわたしを放置して、仕事が忙しいと云っていた元夫は、顧客の人妻と不倫行為に及んでいた。
瞼の裏が膨らんだような気がした時には、涙はもう外に流れ出ていた。家庭裁判所では調停員を含めた誰もがわたしに同情的だった。人妻の他にも同時進行で複数の女と関係をもっていた元夫の過失は明らかで、離婚までは速やかだった。後には幼い明莉とわたしが残された。
まだ若いのだからすぐに再婚できますよ。
赤子を抱えて放心している若い母親に、役所は至れり尽くせり、公的な支援を案内してくれた。
「シングルマザーはもてるんですよ」
励ましのつもりなのか、そんなことを耳打ちしてくれる人もいた。細腕ひとつで子どもを育てている若い女を見ると、男は手助けしてやりたくなるものらしい。
離婚後わたしは実家に戻り、五歳年上の姉と同居した。わたしと違って出来がよく、奨学金を使って旧帝大に進学した姉は大企業に勤めていた。
「だからあれほど結婚に反対したのに」
わたしたち姉妹の父親は姉とわたしが小学生の頃に浮気をして家を出て行った。父が残したマンションに母と姉とわたしとで暮らしていたが、母は、わたしの結婚を見届けるようにして他界しており、姉といえば、わたしの離婚のことがなければ来年にも家を売り払って都心で優雅な独り暮らしをするつもりでいた。
「同居は明莉ちゃんが小学生になるまでよ。それまでは手伝うわ。それ以後は自分でやって」
わたしのせいで姉の人生設計まで台無しになった。
意外だったのは離婚した元夫が養育費を毎月几帳面に振込んでくれたことだ。
「高校を卒業したばかりの娘を孕ませ、不倫三昧、そのせいで離縁したなんて、浮気男なりにさすがに良心が咎めでもしたんじゃない」
姉は冷たくそう評したが、実はその振込みは、元夫の両親が愚息に代わってお金を出していたと後で判明した。すでに内孫のいる彼らは、孫を差別しないようにと義務感からそうしていたのだ。
元夫は一度も逢いに来なかったが、元夫の両親は一年に一度、明莉の顔を見に家に立ち寄った。その帰り際、彼らはいつもお札が数枚入った封筒をわたしに押し付けていった。
延長保育がある幼稚園に明莉を預け、その間にパートに出て、明莉を迎えに行き、家事をする。姉はよく泊りの出張に出たが、出張は口実で、母子のいる家に戻るよりも会社が提携している会社近くのホテルに連泊してそこで仕事をしていた。立派な姉からみれば、わたしなど、身内の恥でしかないのだ。
或る日、わたしは洗い物を投げ出して台所の隅に転がっていた。くたくたに疲れていた。
「まーま」
小さな葡萄を並べたような幼児の足先が見えた。夜に添い寝をする時のように明莉はわたしの横に寝ころぶと、生まれて初めて涙というものを見る眼をして、わたしの濡れた顔をじっと見た。
くっついている明莉はわたしに顔を近づけた。
「まーま」
言葉の遅い子だった。はじめて明莉が「ママ」と云っている。わたしのことを呼んでいる。愕いて眼が覚めた。明莉は起き上がると、和室から肌掛け布団を両手で引き出し、ずるずると引きずって戻ってきた。そして台所にいるわたしの身体の上に布団をかけると、いつもわたしが明莉にそうしているようにその上からわたしをぽんぽんと叩いた。
十五年。
明莉が適当にかぶせた布団はわたしの頭部を完全に覆っていた。薄い夏布団越しに、近くにぺたんと座った明莉がわたしを見つめているのが分かる。
十五年だけ頑張ろう。
その間は何も考えない。その頃にはこの子は高校生になっている。それまでは自分のことは何も考えない。
明莉と二人で生き抜いてやる。
園庭が蜜柑色の夕陽に染まっている。明莉を迎えに行くと、幼稚園では副園長が待ち構えていた。
「あの、藤沢さん。おききになっていますか」
「明莉が、なにか」
先週のことだ。数名の園児が園内の階段から転落した。一人が最初に転び、続いて他の園児もころころと落ちていった。階段の踊り場には明莉だけが下に落ちずに残っていた。
明莉ちゃんに押された。
園児の一人が泣き出した。連鎖反応で全員が泣き出した。明莉ちゃんがみんなを突き落とした。
「幸い誰も怪我はなかったのですが、それ以来、明莉ちゃんが仲間外れになっておりまして。職員からも指導を入れているのですが……」
「明莉が、お友だちを階段から突き落としたのですか」
「生憎と職員は吐き戻した子の面倒をみていて、誰も階段の近くにはいなかったのです。園児にきいても要領を得ず、明莉ちゃんを別室に連れていき、明莉ちゃんはやってないとこちらからも確認をとったのですが。もちろん園児が階段から落ちたことは、わたしどもの管理責任です」
副園長は慌てて明莉を責めるつもりはないことを強調した。
「無意識にちょっとぶつかるようなことは、毎日のようにあることですから」
「明莉が突き落としたと最初に云い出したお友だちは、誰ですか」
園児やお迎えの母親たちから敬遠されてぽつんと片隅に立っている明莉。
「過失にせよ、それが本当ならばお詫びをしなければなりません。事実確認の為にも先方のお母さんに電話を差し上げたいのですが」
「あの、それが」
副園長の歯切れは悪かった。
ばいばいしましょうね、明莉ちゃん。
毎日遊んだお庭。お教室。お水をあげたチューリップにも。
ばいばいしましょうね。さようなら、さようなら。
手をつけずに貯めていた元夫の両親からもらった金を引越し費用にあてた。母子二人きりで誰にも云わずに転居し、この街から明莉は小学校に上がった。
小四の後半から明莉の学力は傾き始め、五年生になるとはっきりと落ちこぼれはじめた。
》中
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