ボクハ フツウ ジャナイ
海藻ネオ
僕と平凡
2024年11月25日
田中草信…タナカ クサノブ
僕の名前です。
名付け親はお爺ちゃんで、僕が生まれる時に爺ちゃんが名付ける事になっていたらしく、庭に生えている草を見て、「草のように逞しく、信念を持つ男」になって欲しいということで草信になったようです。
ただ、残念ながらお爺ちゃんの思惑通りに事は運ばず、同級生からは『草ッ』とイジられる以外は何の特徴もない、根性も信念も並のごくごく普通の現代っ子として育地ました。
思えば名前なんて、名付け親自身の羨望を表すのではないでしょうか。子どもにつける名前というのは、むしろ名付けた者たちが有さない人間的性質をよく表しているのかもしれません。
爺ちゃんも両親も控えめに言ってとりわけ特別な人ではありません。そして、その遺伝子を存分に受け継いだ僕が、何か特別になるわけがなかったのも道理です。
そしてそんな僕の考えは今、グラグラと揺らいでいます。
とても、とても、悪い意味で。
別に僕が極悪人だった、というオチではありません。その方がよほどドラマチックだったでしょうが。
とどのつまり僕は、自分が思っていた平凡というものに、自分が到底届きそうにないという、認めたくない現実を突きつけられているわけです。
先々月で40歳になりました。
この年齢は、僕が10歳だった頃のお父さんの年齢だったと思います。
少年時代、ぼんやりと描いていた平凡な40歳の大人のイメージ…
妻と小さな子供がいて、週三回ぐらい仕事の都合で真夜中に帰って来て、週末はゴルフをしているか一日中家でゴロゴロしている。
家と車のローンで老後の金がないとか言いながら、妻が子供の学校の成績のことで小言を言ってくるので子供を塾に通わせる費用の件を家族で相談して…
そんな話を肴に仕事帰りに同僚と一杯やって、という塩梅であったはず。
少年時代は、そんな父親を見て、まことに傲慢なことに自分はもう少しマシな人生を歩もうと考えていました。
そして社会に出てまもない頃は、自分の凡庸さを痛いほど分かっていたので、平凡でいい、平凡で妥協しよう、なんて大それた事を考えてしまっていました。
そして今、人生の半分ほどをようやく過ぎたあたりで、今の僕には平凡が何一つありません。
家族もいなければ、家も車もなければ、一緒に飲みに行く同僚もいません。
平凡とは、こんなにも遠いものだったのか…
もっと若い頃に気付いていれば、何か違ったのでしょうか…
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