第47話「決着」

 もうすでに、シルビアとBRZの車間は近づきつつあった。

 そのことは前を走る拓哉自身も気づいていて、頻りにバックミラーへと目をやっている。


 確かにストレートで離したはずだ。なのに、少し前のコーナーから何度もバックミラーにちらりとシルビアが映りこむ。そして、それは確かに確実に近づいてきている。

 ……なぜだ。いや、そんなの決まってる。……コーナリング速度以外にないだろう。


「……まだだ」


 ここからは、少しばかり上り傾斜となる。

 そのうえ、カーブともいえない緩いコーナーが四つ続く。そのあとにわずかながらにストレートもある。

 BRZの馬力なら、またマージンを作れるだろう。


 拓哉は冷汗を流しながらもアクセルを踏んだ。

 練習試合と予選のタイムアタック含め、何度かここを走ったことのあった拓哉だったが、過去最高にスピードレンジが高い。

 明らかに、自分の技量ギリギリで攻めている。

 ここまでしなければ勝てないと思ったのも、桐生田沼線この道を攻めていてここまで怖いと思ったのも、初めてだった。


 練習試合だと言われればそれまでだし、ここまで限界を攻めてクラッシュでもしたら、それこそ笑い話にもならない。

 だが、拓哉の脳内にはそんな打算など微塵もなかった。

 負けたくない。ここでアクセルを抜くようなら、運転席になんて二度と乗らない。

 ドライバーとしての矜持が拓哉を未体験ゾーンまで引き上げる。


 緩いカーブを抜け、短いストレート。確かにシルビアとの車間が開いた。

 そのまま左コーナーへ。

 拓哉の表情がわずかに緩む。それは決して安心からではない。自身が感じていた限界のその先へと走り抜けていくその快感に、無意識に笑みがこぼれたのだ。


 BRZは両側を壁に囲まれた区間に突入していく。

 拓哉はしっかりと勝利までの道筋をたてていた。

 ここから、きつい下りがはじまる。そのうえ、路面はこのコース一の荒れようだ。当然、全開では行かない。


 ここで全開で行くやつは、間違いなくクラッシュする。だから……。

 速度を多めに落とし、減速帯に完全には乗らない程度に車を左サイドに寄せて挙動を安定させたままコーナーを抜ければ、その先は基本的にフラットな路面だ。


 そんな拓哉の考えをコーナー侵入の様子で感じ取った魁利は、同情するようにモニターのBRZを見つめた。

 ……そう。そこは魁利が前回、追いつかれたポイント。その場所なのだから。


「あなたが下手なわけじゃないよ。ただ、森先輩にはそれじゃダメ」


 安定してコーナーをクリアしていくBRZの姿を目にしながら、ふとこぼれた魁利の言葉に答えるように美智も笑みをこぼしていた。

 まるで美羽の勝ちを確信したかのような二人の雰囲気に乙女は一人、怪訝そうな表情を見せる。


「……二人だけわかったような顔をして、なんだって言うのよ」


 ぼそりとこぼした乙女だったが、そのあとすぐに目を疑うような光景がモニターに映る。

 バンピーな路面に向かって、シルビアが猛然と加速していってるのだ。

 加速したことで確かに車間は詰まっている。でも、この勢いでは曲がれっこない。


 そう乙女が思うと同時、シルビアはBRZに少々遅れて右コーナーに侵入した。

 BRZと違いアウト一杯を使い、減速は最小限。だが、それ故に減速帯で車は挙動を乱し、そして最後の減速帯にシルビアは跳ね飛ばされる。


「お姉ちゃんっ!?」


 焦ったように発せられる乙女の叫び。間違いなくこれはクラッシュする。

 そこにいた、金山高校の生徒と磯崎、そして乙女は思った。

 この前の試合を知らない者にとっては、無理をし過ぎたが故の失敗に映っただろうが、前回ここで迫られた魁利はモニター越しとは言えライブでここのコーナリングを見られることを一番心待ちにしていたし、美智もそうだった。


「っ……」


 減速帯から跳ね飛ばされたシルビアの左リアタイヤは、道路端の荒れた路面に吸い寄せられるように的確に設置し、路面の凹凸にひっかかったシルビアの姿勢がコーナー出口へ向いていく。

 前回のリプレイを見せられているのではと思うほどに正確無比。それでいながら確実に前回よりスピードレンジが高い。

 美智は魁利以上にシルビアの姿に感嘆を禁じ得ずにいた。


「森美羽。これほどか……」


 改めて感じさせられた。森美羽の走りは、大原美智の脅威になりうるかもしれないと。

 そう考えつつ美智が乙女の顔を見ると、そこには先ほどまでの睨む視線はなく、憧れの人に出会った幼子のように無邪気な瞳をモニターに向けていたのだ。


 乙女は、美羽がここまで規格外なことをやってのけるとは思ってなかったのだろう。

 それは乙女だけではない。前回の練習試合を見ていなかった者すべてが信じられないものを見たとでも言うように、神がかりな美羽のコントロールに目を奪われていた。


 だが、それはつまり、追われる側の拓哉にとっては、恐怖でしかないと言えるものだ。

 一台分ほどの幅の、両側がガードレールに囲われた区間を抜けるころには、シルビアはBRZの後ろにぴったりと張り付いていた。


「っ……なにをしたんだ」


 訳がわからない。なんであそこで追いつけるんだ。

 拓哉は半ばパニックになりつつも左ブラインドコーナーに向けブレーキングを行う。

 ここは道幅が広くなっていくぶん速度を乗せられると錯覚しがちだが、カントがきつくて右に流れる。ゆえに速いコーナリングはできずにシルビアを引き離すことはできない。

 だが、負けたわけではない。


 この後は右ヘアピンからすぐに左ヘアピンで、しかも道幅もない。仮に抜きに来るとしたらその次のヘアピンだろう。そこまでに差をつけるんだ。

 拓哉は少しでもコーナリングスピードを稼ぐために左側アウト一杯まで車を寄せて行く。

 確実なコーナリングを安定して行おうとしていた拓哉だったが……美羽はそれを許すほど甘くはなかった。


「っ!」


 一瞬の気の緩み。ここでは来ないだろうという思い込み。それが拓哉の足元をすくった。

 シルビアが一切の迷いなく、インにノーズを入れてきたのだ。


「ふざけるなっ! ここで二台いけるわけっ」


 だが、ここで二台いけることを美羽は前回実証済みだ。


「行くよ、シルビアっ!」


 インのスペースを奪われ、当初予定していたラインを奪われた拓哉は、慌ててブレーキを踏んだ。

 オーバーランしないギリギリでどうにか減速するBRZに一瞬遅れて、シルビアのブレーキランプが点灯する。

 二台並ぶにはあまりにもギリギリの右ヘアピンに二台並んで入っていった。

 シルビアは前回同様バンパーから火花を散らし、BRZとサイドバイサイドで立ち上がり――。


「うそだろっ! 行けるわけっ……!」


 ない。そう思った拓哉だったが、立ち上がった後のわずかなストレートには、確かに真ん中ほどまでは二台並べる幅があった。とは言っても、余裕は両側三十センチと無いだろう。

 にもかかわらず、シルビアは右いっぱいに車体を寄せ、BRZの側に確かなスペースを設けていた。


 立ち上がりから次のブレーキングまでのわずかなストレート。どちらが先にノーズを入れられるかの一瞬の攻防。

 確かな実力者同士でなければ、決して成り立つことはない勝負だ。コンマの遅れを理解できたほうが退かなければ、間違いなくクラッシュする。


 だが、拓哉の確かな実力を買い、美羽は勝負に出た。

 それがわかるからこそ、拓哉は得意げな笑みと共にコーナーを睨みつける。

 速まる鼓動。あふれ出る冷汗に死への恐怖。

 迫る左ヘアピン手前。わずかに道幅が狭まるそのタイミング。二台が並べなくなるその一瞬手前。ほとんど同時のブレーキング。




 そして、退いたのは――――BRZだった。




 シルビアのリアにフロントバンパーを軽くかすめるようにして、BRZが追う側へ。

 前後入れ替わりヘアピンを抜けると、緩いカーブの続く下りでBRZはシルビアを追う。

 決して離れることなく、ぴったりと後ろに張り付きつつ、拓哉はシルビアを睨みつけた。


「シルビアに出来てBRZにできないなんて、そんなことはないだろう。なあBRZっ!」


 先ほどまでのヘアピンよりも、この先の道幅は明らかに広い。

 三台横並びになれるほどのそこで行けなければ、拓哉の敗北は確定する。

 拓哉渾身のレイトブレーキング。それは拓哉史上一であり、美羽に引っ張られるようにして覚醒ともいうべき集中力がなした、ここ一番のブレーキングであった。


 一トン越えの車体を止めようとする二台の摩擦スキール音が重なり、ヒール&トゥーによるシフトダウンによりエンジンが子気味よく吹ける。

 BRZがシルビアにブレーキングで並びかけた。


 差はあるが、このまま立ち上がっていけば、この先は二台分の幅があるS字区間でインとアウトが入れ替わるため逆転も可能だ。

 シルビアが相変わらずの鋭さでコーナーへと吸い込まれるように曲がっていく。

 それに続き、拓哉もステアリングを切り込んでいった――が。


「っ! タイヤの手ごたえがっ……」


 アンダー。車が外側に逃げていき、立ち上がりの理想ラインから外れていく。


「くそっ……シルビアから逃げるためにタイヤをプッシュしすぎたんだっ……」


 ヘアピン立ち上がりと共に確かに開いてしまった車間。

 だが、拓哉の瞳はそれでもコースの先を向く。


「諦められるかっ!」


 続く左コーナーからの右。拓哉は、もうすでに手ごたえが無くなりつつあるタイヤをどうにか使おうと必死に試みるも、確実にシルビアとの差は開いていく。

 そして……。その差が縮まることはなかった。

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