第二章

第五話 水は方円の器に随う

中間試験が終わると、校内には少しずつ軽やかな空気が漂い始めていた。

旅行の計画や、放課後にどこへ遊びに行くかの楽しそうな声が、生徒たちの間で飛び交っている。

もちろん、試験の結果に苦しんで補習に向かう生徒も少なくない。

桃が言うには、放課後、重たい足取りで教室へと向かっていく姿をよく見かけるそうだ。


そんな中、青果花せいかばな高校の大きなイベント、体育祭の足音が近づいてきた。


グラウンドや体育館からは、掛け声や応援の声が響き渡り、試験期間中の静けさが嘘のように思える。

青果花高校の体育祭は少し変わっていて、1年生から3年生が混合でチームを編成し、学年を超えて競い合う。

もちろん、スポーツ万能な生徒は各チームに均等に配分されているし、俺のような事情を抱える者に対しての配慮もある。

ただ、普段接点のない学年同士、あるいはそこまで仲が良くない者同士が一つのチームになるため、全体で一致団結して練習することはほとんどない。

気の合う仲間がそれぞれ集まって練習したり、チーム全員で集まって、出場種目を相談し合う程度だ。

青果花高校の体育祭は、いかにもという雰囲気が強い行事なのだ。


俺が所属するのはCチームで、知り合いだと梅村や神野兄弟がいる。

ただ、Cチーム内に体育祭に対する強い意気込みを持つ者は少なく、特段、優勝を狙おうという空気もない。

それでも俺は、怪我防止のため、父さんの日課である夜のランニングに付き合うようになった。

運動を続けるうちに、少しずつ体が軽く感じられるのが不思議で、心なしか走ること自体が少し楽しくなってきた気もする。


……とはいえ俺としては、体育祭の順位よりも、体育祭での接触で女性恐怖症を引き起こさないかが一番の心配事項だ。

まあ、柿澤先生に許可をもらった秘策もあるし、俺の出場種目は徒競走のみで、チームメイトと密接に関わる競技には参加しない。

警戒態勢は整えるが、単純に体育祭というイベントを楽しみたい。そんな気持ちが強くあった。


そして、あっという間に時間が過ぎていき……ついに、体育祭当日になった。


+++


「……で、その秘策というのは、これのことかい?」


梅村が呆れた様子で、ド派手な巨大パラソルを指差す。


グラウンド内にはチームごとの大きなテントが建てられているし、生徒は基本、その中で待機することになっている。

しかし、俺はCチームから少しだけ離れたところに椅子と巨大なパラソルを建て、疑似的な一人用テントを設置したのだ。

ソロキャンプ用のテントでも良かったのだが……周囲の様子が見えづらいという懸念点があったし、わざわざ親に買ってもらうのも申し訳なかった。

家の倉庫中を探し回って、この巨大パラソルを見つけたときは、コレだ!と家族で大喜びしたものだ。


「いやぁ、なかなか面白い発想だと思うよボクは!……庶民らしくて」


「おい!絶対馬鹿にしてるだろ!」


梅村はしばらく腹を抱えていたが、ふと、何かを思い出したかのようにピタリと笑うのをやめた。


「そうだ。良い機会だから遥クンに聞いておきたいことがあるんだ。……麻平桃クンとは、一体どうやって出会ったんだ?」


いつになく真剣なトーンで俺に問いかける。


「悪い、俺だけの判断では話すことはできない。桃が大きく関わることだ。桃が居て……桃の許可を受けてからでないと、話せない」


「……そうかい。じゃあ、一つだけ。……麻平桃くんのご両親や親族のこと、本人から何か聞いているかい?」


「?いや、ご両親には一度会ったことはあるが、親戚の話は一度も」


梅村は何故かホッとした顔をして「そうかい」と応えた。

質問の意図を聞こうとしたその時、遠くから女生徒の声が聞こえた。


「貴様。そのふざけた傘は何だ?」


肩に付くくらいの長さで、淡いクリーム色の髪が、一瞬目に入った。

俺と梅村は身構えたが、彼女は俺と一定の距離を保ち、近づこうとはしていない。


「すみません。俺、事情があって……あっ、柿澤先生の許可はもらっています」


それを聞いた女生徒は、腰に付けた小物入れから分厚い手帳を開きだす。


「……成程。貴様が武道遥なのだな。失礼した。私は2年3組生徒会副会長、榎本柚子えのもとゆずだ。Cチーム同士、よろしく頼む」


榎本さんは姿勢を正し、俺に向かって会釈をした。

すると、榎本さんは再度手帳を開き、懐中時計とにらめっこしたかと思えば、すぐにその場を離れた。

生徒会副会長と言っていたし、かなり忙しいのだろう。


「やあ、遥君、松竹君。誰と話していたんだい?」


背後から声をかけてきた冬美に、経緯を伝えた。


「柚子君とはクラスメイトだが、彼女が何かを失念するとは珍しいね。余程業務が忙しいのだろう……おっと。そろそろ開会式が始まりそうだ」


冬美はそう言うと、自分の席へ戻った。

ちょうどその瞬間、ファンファーレが鳴り響き、体育祭の始まりを告げる音楽がグラウンド全体に広がる。

生徒たちは私語を止め、全員が中央のステージに視線を向けた。


「宣誓」


透き通るような美しい声が、グラウンドの隅々まで届いた。


Cチームのテントからは距離があるが、ステージの上に立つ女生徒の存在感は圧倒的で、遠目からでも彼女が秀でた存在であることがわかった。

その純白の髪はアルビノを思わせるような色で、膝裏まで長く伸び、風に揺れている。


わたくしたち選手一同は、競技を楽しみ、素晴らしい体育祭を作り上げることを誓いますわ」


拍手がグラウンド中に広がり、彼女の姿はカリスマモデルのような堂々としたオーラを放っていた。


「キャーッ!無花果いちじく様ーッ!」

「ウオオオーッ!結婚してくれー!」


……甲高い声と野太い声による熱い歓声が聞こえる。俺は思わず、一番近い席にいた神野くんに話しかけた。


「神野くん。あの人って有名な人なの?」


「は?知らないんスか?あの人、生徒会長ッスよ」


「へえ、生徒会長なのか。俺入学式出てないから、今まで姿を見たことはなかったな……えーと、名前は何だったか……」


桑園無花果そうえんいちじく様だ!!!」


突然の大声に、遥と神野は思わずビクッと反応する。

声の主を探すと……少し離れた位置から、榎本さんが怒りを露わにして睨んでいた。


「貴様。今年から本校に通っているとはいえ、無花果様を知らないとは……何たる無礼者かっ!

無花果様のような高貴で麗しい、まさに国の宝とも言える方の名前だ。そのツルツルの脳みそに、しかと刻んでおけ!」


「え、榎本先輩っ!次の準備に遅れちゃいますっ!早くしてくださいっ!」


「ええい、その手を離せ!梨愛りあっ!話はまだ終わっていないぞっ!」


慌てた様子で、薄墨色の大きなツインテールの女生徒が榎本さんの腕を引っ張る。

それでも榎本さんの演説は止まらず、引っ張られながらも遠ざかり、姿が見えなくなるまで怒りの声を響かせていた。


+++


<Aチーム・桃視点>


朱里先輩と仲良くなったはいいものの、本来の目的を見失っている気がする。


――朱里先輩は、遥先輩のことをどう思っているのか。


二人でお出かけしたとき、さりげなく遥先輩の話題を振ったけど、特にわかりやすい反応はなく、収穫は朱里先輩オススメのコスメだけだった。

いっそのこと、直接聞こうかとも思ったけど、そうすると、私の恋心もバレてしまう可能性がある。

……であれば、対象は伏せて、あくまで恋バナという形で探ってみることにしよう。

一度お出かけした仲だ。恋バナくらいしても良い関係値のはず……!


私は、あけび先輩と談笑していた朱里先輩に声をかけた。


「あの~。朱里先輩って、恋愛に興味はありますか?」


しまった。怪しい勧誘のような言い方になってしまった。


「えー!恋バナ!?モッチ―、おませさん~!」


「桃ちゃん、急にどうしたの?悩みごと?」


肘でツンツンを私を小突くあけび先輩。朱里先輩は奇妙な質問に警戒しつつも、私のことを心配してくれている。

私はジャージのズボンを握りながら、下を向いた。


「えっと……と、友達!友達が、恋愛のことで悩んでて……!」


「あっ!なるほどね!私、今まで恋人はいたことないけど、私でよければ、相談に乗るよ!」


大きな胸に手を当てた朱里先輩は、自信ありげな表情を浮かべていた。

私が何か言おうとした瞬間――音もなく、背の高い美女が目の前に現れた。


「あら。恋愛話ですか?是非、わたくしも混ぜていただけませんこと?」


「おおお~!すごい美人ー!えっ~と……誰だっけ?」


「こんにちは。青果花高校3年、生徒会長の桑園無花果ですわ」


「せ、生徒会長ー!?……って、何だっけ?」


あけび先輩の能天気な発言にも、「うふふ」と鈴を転がしたような笑い声を出していた。


体育祭の活気と太陽の熱によって溶けてしまいそうな、雪のような肌と髪色。

これほどの美貌であれば、自身の恋愛経験はもちろん、周囲の人から様々な恋愛相談を受けていそうだけど……。


わたくし、生徒会長という立場故か、どなたからも気軽に声をかけていただいたことがありませんの」


私の戸惑いを察したのか、無花果会長は溜息を吐く。

完璧のように見える彼女にも、高嶺の花だからこその悩みがあるようだ。

でも、話しかけられない理由は、生徒会長だからじゃなく、見た目と言動が高貴だからだと思う。


「それで?ご友人のお悩みとは、一体どのような内容なんですの?」


「え?あ、はいっ!えっと、そ、その友達には片思いしている人がいるんですけど……片思い相手には仲の良い人がいて、その二人の関係を気にしているみたいなんです」


「三角関係ってこと?なんだか恋愛漫画みたいで、ドキドキするね!」


先輩たちは、きゃあきゃあと可愛らしい声を漏らし、パタパタと両手で顔を仰いだ。


「うーん、そうですわねぇ……わたくしでしたら、正直にご本人に尋ねてしまうかもしれませんわ……実を言うとわたくしも、そのご友人と全く同じ状況ですの。まったく珍しいこともあるものですわね」


「えぇ~!?い、無花果会長にも、好きな人がいるんですか!?」


「だれだれ~!?」


すると無花果会長は、何か裏があるような笑みを浮かべながら、こう言った。


「はい。実は……2年1組の、武道遥さんのことが好きですの」


…………………………え。


「桑園会長!こんなところにいたんですか!探しましたよ!」


「あら、梨仁りひとわたくしは体育館倉庫に居ると言っていたのに、もう自チームのテントに戻ってきたんですの?」


「体育館倉庫に行った後、とんぼ返りしたんですよ!毎度のことですが、意味のない嘘を吐くのはやめてください!」


「うふふ。梨仁の反応が面白いんですもの」


「まったくもう……そろそろ選手宣誓の時間ですので、さっさとステージに行きますよ!」


眼鏡をかけた薄墨色の髪の男子生徒は、私たちに向かって頭を下げ、「ご迷惑をおかけしました」と丁寧に声をかけた。


「桃さん、朱里さん、あけびさん。申し訳ありません。先程の発言は、冗談ですわ。……同じAチームとして、頑張りましょうね」


無花果会長はスカートを履いているわけではないのに、スカートを両手でつまむような優雅な仕草で私たちに一礼する。

そして、急かす眼鏡の男子生徒を横目に、悠然とステージへと歩き出した。


「え?えー?!あの人、ハルのこと好きって」


「あ、あけびちゃん!冗談だって言ってたじゃない!ま、まったくもう~無花果会長ったら……ねえ?」


朱里先輩がそう言いながら私に笑いかけたが、目が泳ぎ、冷や汗をかいていて……明らかに動揺しているようだった。


その動揺は、朱里先輩が、遥先輩に対して特別な感情を抱いているからなのか?

その答えが、私にはわかるはずもなく。

無花果会長の美しい声が、グラウンド中に響き渡った。


+++


<Bチーム・彼方視点>


中間試験が終わった後、私はほぼ毎日のように生徒会室に通っていた。

体育祭の種目決めやチーム分け、当日の流れを決める作業に追われていたからだ。


行事がある時期は、どうしても桃に任せきりになってしまう。正直、悔しい。

だからといって、生徒会を辞めるつもりはない。

だって、私が生徒会で活躍して、発言権を得ることができたら……お兄ちゃんに都合の良いように、学校を変えることができるかもしれない。

実際、今回の体育祭では私の要望を一つだけ聞き入れてもらえている。この調子で、お兄ちゃんが優遇されるように裏で手回しできればいいんだけど。


「彼方ちゃ~ん。お、お兄さんのことについて、く、詳しく教えてくれないかなぁ~?」


また来た……。


体育祭の準備に明け暮れていた頃、私にある悩みができた。それは……最近、彼女がねちねちと絡んでくるようになったのだ。

黄緑由依きみどりゆい先輩。3年生で、生徒会の書記を担当している。

無口で大人しく、骨と皮しかないような薄くて細い体つき。片目が隠れるくらいの長い前髪が特徴だ。

私が生徒会に入ったばかりの頃は、彼女の声を聞いたこともなく、話す機会などほとんどなかった。


それなのに、最近になって、彼女は突然どんなときでも私の前に現れるようになり、積極的に話しかけてくるようになった。

教室や廊下、昼休みの時間帯など、どこでもだ。後をつけてくることもあり、正直、迷惑極まりない。

……まあ、お兄ちゃんが一緒にいるときには現れないので、そこは不幸中の幸いだけど。


「由依先輩。何で私に付きまとうんですか?何でお兄ちゃんのことを聞きたがるんですか?」


私は盾を使って距離を取りながら、今までに何度も質問していることを、もう一度質問した。でも……


「そ、それは言えないの~。でも、絶対悪いことには使わないから~……ね?お願い~……」


私が何度質問しても、彼女の答えは変わらず、いつもこうなのだ。

由依先輩の間延びした喋り方すら、段々鬱陶しく思えてきた。


「理由を話してくれないと、絶対に話しませんから!」


「理由はどうしても言えないの~。同じ生徒会メンバーだし、少しくらい~……」


「嫌ったら嫌です!……ああもうっ!何で同じチームになっちゃったかなぁ!?」


「あ。それは、私がそうなるように、無花果ちゃんにお願いしたの~」


「お前かーっ!」


ん?ってことは、やっぱり生徒会メンバーなら、自分の好きなように操作できるってことじゃん!

ただ、圧倒的カリスマ性を持つ無花果会長は今年卒業してしまう。それまでに、できるだけ根回ししておかないと。


その辺りは後でゆっくり考えるとして、とりあえず今は、由依先輩をこの場から引き離そう。


「おい。俺を隔てて喧嘩するなよ」


盾……じゃなかった。柘榴先輩が呆れた態度で苦言を呈した。

仕方ない……あの技を使うしか……っ!


「柘榴先輩!この人に何か話しかけてください!」


私がそう言うと、柘榴先輩は一瞬きょとんとした顔をした。その後、キッと由依先輩を睨みつけた。


「?あの、由依先輩とか言ったか?あんまりしつこいと、先生を呼びますよ」


「ひぃ~っ……!し、知らない人に話しかけられた~……!」


私の狙い通り、由依先輩はお化けを見たかのような恐怖の表情で、遠くに逃げて行ってしまった。


「ありがとうございます。柘榴先輩」



「……俺、そんなに顔怖かったか?」


しょんぼりしている柘榴先輩を、私は慌ててフォローする。


「違うんです!あの人、初対面の人が大の苦手なんです。でも、二回目からは普通に話せるようになるので、何度も使える手段じゃないんですけどね」


「ほう、なるほど。初見殺しみたいなものか」


初見殺し?よくわからないけど、伝わったようならよかった。


「桃、大丈夫?あんまりしつこいようだったら……縁切り神社とか、そういうところに行くのも一つの手よ」


今までの様子を見ていた心菜先輩が、ポニーテールを揺らしながら、優しく話しかけてきた。


「今のところはなんとか大丈夫です。でも今後、お兄ちゃんに直接聞きに行くようなことがあれば、そのときは……ブツブツ」


「そ、それにしても、武道に直接話しかけないのは何故かしらね。もしかして、事情を知っているのかしら?」


私も、同じことを考えたことがある。

しかし、その可能性は非常に低いという結論に至った。


お兄ちゃんの事情を知っている人は、2年1組以外だと先生方と桃、私、神野兄弟くらいだ。

少ない人数ではないし、どこからか漏れる可能性は十二分にある。けれど情報というものは、人を経由した途端、不確実なものになる事が多い。

ただでさえ2年1組には根も葉もない噂が多い。噂自体はあったとしても、その内容が正確に広まっているとは思えない。


「君たち!もう少しで選手宣誓が始まりますよ。席に着いてください!」


古市先輩が大声をあげ、Aチームの全員に注意を促す。


素行が悪い生徒も、古市先輩の体格や見た目を恐れているようで、素直に言うことを聞いていた。

私は自席に戻り、ステージ付近に佇む、無花果会長の姿をボンヤリと見つめていた。


+++


<Aチーム・桃視点>


選手宣誓が終わり、先生方がステージを片付ける。

そして、体育委員や生徒会メンバーの迅速な対応のもと、次々に競技が行われていった。


「いやもう、ほんとにタチの悪い冗談だったね!びっくりしたなぁ〜!」


「……先輩。そのセリフ何度目ですか?」


「だ、だって本当に、心臓が止まるかと思ったから……!桃ちゃんだって、びっくりしたでしょ?」


私はびっくりというよりは……頭が真っ白になって思考がフリーズした。表には出ていないだけで、今も心臓がバクバクしているし、不快な感情も押し寄せてきてはいる。


「林郷朱里さん?次、パン食い競争ですよ。移動してください」


先ほど、会長を連れ戻しに来ていた眼鏡の先輩が、朱里先輩に話しかける。


「っ!は、はい!今行きますっ!じゃあ私、頑張ってくるね……!あ痛っ!」


朱里先輩はテントの柱に肩をぶつけてよろけた。大きい音がしたので周囲から視線が集まったけど、朱里先輩は何事もなかったかのような態度で、グラウンドへ駆けていった。


「シュリちゃ〜ん!危ないよ、一緒に行こーっ!」


さすがに見ていられなかったのか、あけび先輩が、覚束ない足取りの朱里先輩を追いかけた。

普段能天気なあけび先輩だけど、こういうの配慮を欠かさないところは、見ていて尊敬する。


「あの様子。もしかしなくても、ウチの無花果のせいですよね。本当に、監督不行届で申し訳ない。」


ピシッと姿勢を正し、深々と頭を下げる眼鏡先輩。


「か、顔をあげてください!……ええと」


「これは失礼。僕は生徒会会計、東洋梨仁とうようりひと。二年生です」


「えぇっ!?二年生なんですか?私てっきり……」


「ハハハ。よく間違われます」


あんなに生徒会長に強気な態度を取っていたので、てっきり会長と同年代なのかと思っていた。

……ちなみに、彼の名誉のために言っておくけど、断じて老け顔だとかそういうわけではない。


「はぁ〜やれやれ!運動前に汗かいちゃったよ〜」


「あけび先輩!お疲れさまです」


「おっ!タオルありがとう~モッチー!」


あけび先輩の屈託のない笑顔を見ると、荒んだ心が洗われていくような気がした。

そして、気持ちが落ち着いた分……頭のモヤモヤがまた、絡みついてくる。

無花果先輩のあの冗談にあそこまで動揺していたといことは、やっぱりそういうことなんだろうか。


「気になりますか?」


「うわっ!」


またしても音もなく、無花果先輩が目の前に現れた。こんなにオーラがあるのに、どうしてこんなに神出鬼没なんだろう。


「会長!またそうやって人を驚かせて……!」


「うふふ。だって、とてもわたくし好みの反応をするんですもの。やめられないですわ」


東洋先輩の注意を適当にあしらう会長。どうしても疑問が抑えきれなかった私は、率直に質問をぶつけてみることにした。


「……あの、無花果先輩。どうして遥先輩や、私たちのことを知っているんですか?」


「あら。わたくしは生徒会長ですことよ?生徒一人一人の動向や関係性を把握しているのは、至極当然のことですわ」


全く持って当然のことではない。生徒会長にそこまでの権限があるわけではないし、もし本当に全生徒を把握しているのであれば、余程の暇人だとしか思えない。

……まあでも、生徒会長という立場上、先生が軽く事情を伝えているのかもしれない。それか、彼方から聞いているのか……。


「ねえねえ会長さんっ!ハルのこと好きってほんと?」


あけび先輩は、無花果先輩が本当に遥先輩のことを好きだと思っているようで、無邪気に話しかける。


「ええ。本当ですわ」


「わー!どんなところが好きなの!?」


「そうですねぇ。昔、愛した殿方にとても似ていらっしゃいますの」


無花果会長はおそらく、私と朱里先輩が抱く気持ちに気付いている。

だから、あんな冗談なんて言って、私たちを困らせて……その様子を見て喜んでいる。


徐々に、無花果先輩に対して怒りが沸いてきた。

私の遥先輩への真剣な気持ちを軽視して、翻弄して、からかっている。それに、よりによって女性恐怖症の遥先輩をダシにするなんて!


私はあくまで冷静な態度で……でも、語気を強めて、会長に牙を剥く。


「いい加減にしてください。遥先輩のこと本気で好きでもないくせに、軽々しく好きだなんて言わないで!」


へらへらと笑っていたあけび先輩は笑うのをやめ、悲しげな顔をして黙り込んだ。

しかし、無花果先輩はそんな私の様子を見て……口元に手を当てて笑った。


「あらあらまぁまぁ。そんなに感情を露わにするなんて、本当に可愛らしい方ですこと」


その飄々とした態度に、怒りはむしろ冷め……代わりに、背筋が寒くなるような恐怖が沸き起こってきた。

どれだけ感情をぶつけても、桑園無花果の心に届く様子は微塵も感じられない。彼女のことが、人ではない何かのように思えた。


「ちょっと会長!アンタ、人の心とかないんですか!この子の気持ちを考えて発言しろよ!」


あまりの態度に看過できなかったようで、東洋先輩は口調が悪くなる。しかし、無花果先輩は軽く眉を上げて、興味深げにこちらを見つめた。


「さすがの私も、人の心はありますわよ。桃さんの気持ちも、よくわかります。……だからこそ、こうしているのです。

それに、愛した殿方に似ているというのも、本当のことですわ」


遥先輩に思いを馳せる無花果先輩の横顔は、遠い過去の記憶を見つめているようだった。

いつもの余裕やからかいの色は見当たらず、不思議とその言葉だけは、本心からのものだと感じられた。


「無花果様ぁ~~っ!」


突然、Bチームの女生徒ではない誰かが、無花果会長に駆け寄ってきた。


あの人は……生徒会副会長だ。入学式のときに見かけたことがある。

しかし、その頃に感じた真面目で厳しそうな印象とは程遠い、顔を極限まで綻ばせた緩い表情をしている。


無性に嫌な予感がして、私はすぐさま無花果会長から距離を置いた。


「不肖柚子、見事大将首を打ち取り、一位の座を奪取致しました!」


柚子副会長が誇らしげに胸を張る。……大将首は打ち取られていないと思うけど。


「素晴らしい成果ですわ、柚子。おいで。いい子いい子してあげます」


無花果会長が微笑み、女生徒を撫で始める。


「嗚呼、無花果様っ!柚子は、柚子は……幸せ者でございますっ!」


頭を撫でられている柚子副会長は、今にも泣きそうな声で……いや、これ本当に泣いている。


……二人は完全に自分たちの世界に入ってしまったようだ。東洋先輩は呆れ顔で二人の様子を見ていた。

すると、不意にあけび先輩が、私に視線を向けてきた。


「も、モッチ―。ごめんね。さっき、あけび、テンション高すぎたよね」


彼女はおずおずと私の顔を覗き込む。


「い、いえ。私も、急に強い言葉を使っちゃって……すみませんでした」


素直に謝る私に対し、あけび先輩は少し俯いて静かに呟いた。


「……あけび、いっつもそうなんだ。怒らせちゃって……最後には、皆いなくなる」


彼女の表情はいつになく真剣で、その声色には普段の明るさが全くない。

虚ろな目でどこか遠くを見つめながら、淡々と語る様子に、私は戸惑いを覚える。

こんな様子のあけび先輩は初めて見る。心の奥底に隠された暗い部分が垣間見える。


「あ、あけび先輩、どうし……」


声をかけようとしたその瞬間――


「桃ちゃーん!あけびちゃーん!一位取ったよー!」


沈んだ空気を一変させるように、朱里先輩が満面の笑みで駆け寄ってきた。

両腕いっぱいにパンを抱え、まるで幼い子供のようにキラキラとした笑顔をこちらに向ける。

そのあまりの無邪気さに、私とあけび先輩は思わず吹き出してしまった。


「あか……シュリちゃんっ!そんなにたくさんのパン、どうしたのー!?」


「あっ!これ、予備のパンなんだって!みんな要らないって言うから、もらってきちゃった!」


「みんなに配るんですか?Aチーム全員分はなさそうですけど……」


私が尋ねると、朱里先輩は一瞬だけ目を泳がせた後、はっとしたように返事をした。


「え?全部私一人で……あっいや!チーム全員分はないから、体育祭が終わったら、二年一組の教室で一緒に食べよう!」


朱里先輩はそう言うと、「柿澤先生にお願いしてみるね!」と元気に言いながら、大量のパンを袋の中に詰め込む。

その無邪気で明るい笑顔を見て、今は、この体育祭を純粋に楽しもう。そう思った。

そして、終わったら、二年一組の教室でパンを食べながら、自然な気持ちで語り合おう。


私が抱えている気持ちも、朱里先輩が抱えている気持ちも――お互いに、少しずつ打ち明けられたらいいな。


+++


<Cチーム・遥視点>


「おーい!遥!」


次々に展開される各種目をボンヤリ見ていると、柘榴がこちらに向かってくるのが見えた。


「どうした?何かあったか?」


「俺……借り物競争してんだけど、『サンドウィッチ伯爵の冒険』のグッズとかって持ってないか?」


「サンドウィッチ伯爵?……あぁ~!懐かしいな!俺、小学生のころに図書館で全巻読んだぞ」


「ん?僕は聞いたことがないぞ。有名な作品なのかい?」


梅村が首を傾げると、柘榴と……なぜか近くにいた夏巳まで、目をまん丸にして驚いた。


「いやいや、俺と同じくらいの年齢の人なら、一度くらいはどこかで見かけてるはずッスよ!ほら、これとか見たことないスか?」


掲げられたスマホには、筆箱やTシャツ、書道セットなどにプリントされているサンドウィッチ伯爵のイラストが表示されていた。


「うーん、幼稚園の頃に誰かが持っていたような……まあなんにせよ、今の僕の手元にはないな」


梅村は俗世には疎いのかもしれない。まあ、彼の家柄を考えれば、それも仕方がないのだろう。


「柘榴先輩!俺、ラバーストラップ持ってんので、これ持って行ってください!」


「本当か!ありがとうな。今度何かお礼する」


それにしても、勉強会のときにやたらと気が合っているようではあったが、ここまで親しげな関係まで進展しているとは思わなかった。

気難しい性格の二人だ。ゲームという共通の話題以外でも、いろいろと馬が合うのだろう。


「って、あれ?これゲームの初回特典のやつだよな?構わないのか?」


「大丈夫ッス。でも、丁重に扱ってくださいよ」


「え?サンドウィッチ伯爵って、ゲームあるのか?」


俺が首を傾げると、柘榴と夏巳は二人して、「ハァ」とため息をつきながら肩を落とした。


「やっぱり、知名度低いんだな。サンドウィッチ伯爵のゲーム」


「今でもアニメとかグッズは大人気なのに、なんでゲームだけこんなに知名度低いんスかね」


よくわからないが、どうやらファンが気にしている部分に触れてしまったようだ。


「悪い。俺、ゲームに関してはどうも疎くてな……最新タイトルは、何て言う名前なんだ?」


「続・サンドウィッチ伯爵の冒険ファイナル フルエディション エターナルフォーエバー……」


「いや、違うぞ夏巳。確か、続・サンドウィッチ伯爵の冒険ファイナル HD リマスター オメガアンリミテッド……あれ?」


「続・サンドウィッチ伯爵の冒険 完全版 ファイナル 2?」


二人は首を傾げながら言う。どっちも正式名称覚えてねぇのかよ!というか、タイトル長すぎるだろ!


「しまった!こんなことしてる場合じゃねぇ!」


柘榴はストラップを丁寧にハンカチに包み、全速力でゴールへ駆けていった。


しかし、時すでに遅し。Cチームの榎本さんが既に一位でゴールインしていた。……図らずも、Bチームを妨害する形になってしまった。


一位を取った榎本さんは、非常に嬉しそうな様子でテントへと向かっていく。


「榎本さん!よかったね!」

「柚子さん、おめでとう!」


Cチームの心優しい生徒たちが、拍手の姿勢で榎本さんを迎え入れようとしている。

……だが、彼女が向かったテントはCチームではなく


「無花果様ぁ~~っ!」


生徒会長が所属する、Aチームのテントだった。……いや、自チームへの関心がなさすぎるだろ。

Cチームの生徒たちは、榎本さんの恍惚の表情を唖然と見つめていた。拍手をしようとしていた手が中途半端に止まり、戸惑った顔をしている。

そんな中、冬美が呆れ顔でこちらに近づいてきた。こうなることを予測していたのか、驚きもせず肩を竦めている。


「やれやれ。なんとも柚子君らしいね。彼女は、無花果会長を心から慕っているんだ。無花果会長の悪口を言おうものなら、最低でも五時間は拘束されると思った方が良い」


俺は思わず身震いした。もしかして、さっき生徒会長の名前を思い出せなかったとき、かなり危ない状況だったのかも。


「とにかく、生徒会メンバーにはなるべくトラブルを起こさない方が身のためだよ。ただでさえ、二年一組は話題になりやすいのだから」


冬美は、いつもの飄々とした態度とは異なり、少し真剣な口調でそう忠告した。

それが嫌味や皮肉ではなく、純粋な助言であることはすぐに分かった。

彼の視線はAチームのテントに向いていて、無花果会長と榎本さんの様子を興味深そうに見つめていた。

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