第7話 ジョヴァンナの故郷ダーナテスカ伯爵領へ

 旅慣れたベレンガリオは、ダーナテスカ伯爵領まで三日はかかる行程を不眠不休一日半で踏破しました。これも愛のなせる業です。


 しかし、ベレンガリオを迎えたダーナテスカ伯爵邸は、彼を歓迎はしていませんでした。


 大きな菩提樹の林に囲まれた白壁の屋敷には、たくさんの落ち葉があちこちにありました。紅葉と白壁がよく映え、グレーゼ侯爵領よりも南にあるためか、まだ秋を十分に感じられます。


 突然の訪問にもかかわらず、ベレンガリオの顔を知っている門番は快く開門してくれました。何でも、「奥様から、もしあなたが来たらすぐに中へ招くように、と言いつかっております」ということで、どうやらジョヴァンナの実母ダーナテスカ伯爵夫人はベレンガリオの来訪を予期していたようです。


 それはもちろん、ダーナテスカ伯爵夫人はグレーゼ侯爵領での異変を把握している、ということに他なりません。ジョヴァンナの窮状を、本人あるいはグレーゼ侯爵邸の使用人たちから手紙で教わっていると考えていいでしょう。


 ならば、ベレンガリオは嘘を吐くことはできません。もっとも、ダーナテスカ伯爵夫人なら、若輩者のベレンガリオの嘘などあっさり看破してしまうでしょうから、無駄な策略を巡らせるより正面からぶつかるほうがよさそうです。


 ベレンガリオは、ジョヴァンナから贈られた金の指輪を握り締め、年老いたロバに似たメイドに案内されて、ダーナテスカ伯爵邸の応接間の扉をくぐりました。


 華やかなガラステーブルや前衛的な金細工の椅子が目立つ応接間には、まだ誰も到着していませんでした。


 天井のシャンデリアには歴史を感じますが、重厚な棚の上には、見事な雄牛の頭の剥製が飾られています。軽やかなカーテンや壁紙とは相反したような飾りは、よく見ると大きく伸びた角に幾何学模様が彫り込まれています。何のためかさっぱりですが、少なくとも装飾だけを目的としたものではなさそうです。


 よくよく観察すれば、ただの花柄かと思いきや、壁紙にも似たような模様が描かれていました。もしかすると、足元のやけに毛足の長い絨毯にも同じようなものがあるのかもしれません。ベレンガリオが気味悪くなってきたところに、屋敷の女主人が現れました。


「よく顔を見せられましたね、グレーゼ侯爵」


 はっきりと、冷たく言い放つのは、ダーナテスカ伯爵夫人オレスタ——娘と同じ巻き毛の金髪を束ね、その毛量の多さからまとめるために太めの暗色のリボンを何本も編み込んでいる女性です。怜悧な目は娘のジョヴァンナと違って、容赦なくベレンガリオを睨みすえています。


 中年を迎えてもなお、美しさと若さを保つダーナテスカ伯爵夫人は、本来なら女伯爵であり、このダーナテスカの土地を治めるために生まれ育った人物です。夫のダーナテスカ伯爵は同郷ではあるものの、元は貴族ではないとか。


 その険しい表情を直視するのはためらわれますが、ベレンガリオは覚悟を決めて、真正面から挨拶します。


「ご無沙汰しております、ダーナテスカ伯爵夫人。いえ、義母上」


 ダーナテスカ伯爵夫人は、ふん、と鼻を鳴らして、ベレンガリオの横を通って椅子に座りました。明らかに不機嫌です。「どうぞ」と素っ気なく椅子を勧められ、ようやくベレンガリオは着席します。


 いずれジョヴァンナも彼女に似てくるのだろうか、という失礼な思いを胸に秘め、ベレンガリオはジョヴァンナから贈られた金の指輪を見せながら、話を切り出しました。


「早速ですが、本題に入ります。呪いを消す方法はありますか?」

「なぜ私に聞くのです。我が家はもう魔法使いなどという家業を捨てて二百年以上経ちます、もはや何の知識も残っていないのですよ」

「では、この指輪は?」

「代々伝わる魔除けの指輪です。呪いにも効くだろうとあの子に送ったまでのこと」


 とはいえ、とダーナテスカ伯爵夫人は自身の顎に指先を触れさせて、考え込むような仕草を見せます。


「しかし……今の時代に、呪いを使う者がいるというのもおかしな話です。ですから、私も方々ほうぼうから呪いに関する情報を集めていました」

「私が呪いをかけられなければ、ジョヴァンナが苦しむこともなかったはず。必ずや犯人を見つけ出し、ジョヴァンナを元に戻します。どうか、ご助力いただきたい」

「協力はやぶさかではありません。しかし、ねえ」

「?」


 ダーナテスカ伯爵夫人の怜悧な目と言葉が、ベレンガリオをぐさりと射抜きます。


「ジョヴァンナが太った程度で離婚を決意なさるのだから、これはもうグレーゼ侯爵家に我が娘は必要ない、ということでしょう?」


 ベレンガリオは思わず、一瞬だけ固まりました。遠くダーナテスカ伯爵領にいたはずのダーナテスカ伯爵夫人にも、撤回した離婚宣言について知られています。しかしそこまで把握されている以上、ベレンガリオに取れる手は平謝り以外ありません。


 平身低頭、ベレンガリオは謝罪し弁解するしかありません。


「義母上のお耳に入っていたとは、つゆ知らず……その件は、彼女に謝罪しました。私が戦から戻って心の余裕がなかったため、つい」

「つい、ですか。今後もそうならなければよいのですけれど」

「肝に銘じておきます」


 貴族の得意とする皮肉や嫌味には慣れているはずのベレンガリオでも、ダーナテスカ伯爵夫人の凍えさせられるような声と鋭い言葉には、体面を保つだけで精一杯です。ジョヴァンナが敬愛する実母ダーナテスカ伯爵夫人には、生まれ持って備わっているであろう気品と威厳が溢れるほどに常にあり、正直ベレンガリオには苦手な人物です。


 負けはしないが勝てもしない、それどころか押されるのに耐えるしかない状況というのは、神経を削られます。必死になって次の手を考えるベレンガリオが、このまま会話の主導権をダーナテスカ伯爵夫人に握られてしまうかと思いきや、意外な助っ人が応接間に入ってきました。


 ジョヴァンナをそのまま幼くしたような、秋色のシックなワンピースを着た可憐な少女が喜び勇んでベレンガリオのもとにやってきます。


「あら、お義兄様だわ。お久しゅうございます、フランシアですわ」


 ワンピースの裾をそっとつまみ、カーツィの礼をした少女フランシアへ、ベレンガリオはこの重苦しい空気を打開するがごとくよく来てくれた、と拍手喝采を浴びせたいところですが、若き侯爵らしく冷静さを保ちました。


「ああ、ジョヴァンナの妹君か。おいくつになられた?」

「もう、レディに年齢を聞くものではありませんわ。私だって十五歳なのよ?」

「選り好みしすぎて嫁の貰い手のない十五歳ですけれどね」

「お母様!」


 フランシアは実姉ジョヴァンナと違い、活発でよく喋る少女です。貴族令嬢というよりも、おてんばなお嬢様、天真爛漫な子どもそのものの動きを見せ、ちゃっかりベレンガリオの隣の椅子に座りました。


 すると、ダーナテスカ伯爵夫人は、フランシアの指先の絆創膏について指摘します。


「フラン、その手は?」

「さっき、刺繍の最中に針で刺してしまったの」

「まったく、ジョヴァンナと違ってあなたは不器用なのだから、気をつけなさいとあれほど」

「お母様、やめて! お義兄様の前で悪口を言わないでくださる!?」

「何が悪口ですか。事実です」


 どうやら、ジョヴァンナとフランシアは外見こそそっくりですが、性格は違いが大きく、ダーナテスカ伯爵夫人もつい手のかかる愛娘フランシアに流されるように、先ほどまでの冷たさを消してしまっていました。


 とりあえず、フランシアの登場で、ベレンガリオは窮地を脱しました。このまま和やかに話が進んでくれれば、と願うベレンガリオですが、そうは問屋が卸しません。


 ダーナテスカ伯爵夫人は、一つ小さくため息を吐いて、話題を元に戻します。


「とにかく、こちらも呪いについて手がかりを探していますから、もう少しお待ちなさいな。今日は泊まっていくでしょう? すぐに部屋を用意させるわ」

「ありがとうございます、伯爵夫人。門外漢ではありますが、私も協力できることがあればぜひ」

「必要ありません。あなたはジョヴァンナを励ますことだけを考えなさい」

「……はい」


 ピシャリと、余計なことはするなと叱られ、ベレンガリオは縮こまります。ダーナテスカ伯爵夫人の言うとおり、ここでベレンガリオにできることはないでしょう。


 うなだれるベレンガリオへ、フランシアがジャケットの袖を引っ張ってこう訴えます。


「ねえ、お義兄様、フランの刺繍入りハンカチをお姉様に持って帰ってくださる? 部屋にたくさんあるのよ、お義兄様もどうぞお持ちになって」


 ところが、再び和やかな雰囲気にはなりません。


 ダーナテスカ伯爵夫人はフランシアへ、しっかりと言い含めます。


「フラン。ハンカチはあとで食堂にお持ちなさい。決して、殿方を自分の部屋に誘わないように。ふしだらですよ」

「はいはい、お母様ったらいつもそう」

「どうやら、伯爵令嬢としての自覚が足りないようね。また王都に送り込まれたいのかしら」


 ダーナテスカ伯爵夫人の脅し文句に、フランシアはむすっと不満げに頬をふくらませ、黙り込みました。


 ベレンガリオがジョヴァンナと出会ったのも王都です。士官学校に在籍していたベレンガリオは王都にも慣れていますが、ダーナテスカ伯爵領からはなかなかに遠い王都は文化も食事も違うからフランシアが馴染めなかったのだろう、と推察しました。


「妹君は王都に行ったことが?」

「淑女教育の一環で、親戚筋の家に何度か預けたことがあります。ただ、ジョヴァンナと違ってすぐ音を上げましたけれど」


 ベレンガリオから、ああ、それは大変そうだ、という顔を向けられて、フランシアはますます頬をふくらませていました。あまり知られたくなかったことのようです。


 そういえば、ジョヴァンナも貴族令嬢として王都で淑女教育を受けていました。そのとき、ベレンガリオと偶然出会ったのです。


 そんな美しい思い出も、己の無自覚で無思慮な発言によって、危うく消し飛ぶところでした。ベレンガリオは過ちを二度と繰り返さないよう、こっそり誓いを立てます。


 ベレンガリオはダーナテスカ伯爵邸の客室に案内され、お言葉に甘えて数日滞在することにしました。


 それが、まさかの事態に遭遇してしまうことになるとは、ベレンガリオもつゆほども思ってもいませんでした。







 滞在初日の夜、夕食後にベレンガリオはジョヴァンナの言葉を思い出しました。


 出立の直前、故郷のカスタニャッチョが食べたいとジョヴァンナが嘆いていた、と老執事長ドナートから聞いています。ベレンガリオは食べたことのないものですが、ダーナテスカ伯爵邸の料理人なら作れるでしょう。厨房へ向かい、料理人と相談しようとベレンガリオが薄暗い廊下を歩いていた時のことです。


「どうして止めるのよ!」


 甲高い少女の声が、背後の廊下から聞こえてきます。


 フランシアの声です。ベレンガリオは厨房へ向かう足を止め、何かあったのではないかと心配になって引き返します。


 廊下をしばし戻ると、吹き抜けの螺旋階段のホールで、フランシアがメイドの一人と口論していました。


「お嬢様、なりません。そのようなこと、伯爵夫人が嘆かれます」

「いつもいつも、あなたたちはお母様の顔色を窺ってばかりね! つまらないわ!」


 ベレンガリオは、できるだけ優しく声をかけます。 


「どうかしたのか?」


 ぷんすかと憤りをあらわにしていたフランシアは、姿を見せたベレンガリオを見つけるなり、驚いた様子で笑顔を取り繕います。


「何でもありませんわ! お義兄様はどちらへ?」

「ああ、厨房へ行こうと」

「それなら、案内しますわ。こちらよ」


 まるで何事もなかったかのように、フランシアはベレンガリオを連れて、廊下の先にある厨房へと先導します。


 他家の機微な話題に触れてしまうかもしれず、ベレンガリオが黙っていると、フランシアは先ほどまでのことを誤魔化すかのように声を弾ませて問います。


「でも、お夜食でも作らせるの? 美味しいものが残っているかしら」

「いや、食べるのは私ではない」

「というと?」

「ジョヴァンナが、故郷のカスタニャッチョを食べたいと言っていたから、土産にと思ってな。ここの料理人なら作れるだろうから、頼みに行くんだ」


 ジョヴァンナの名を聞いた途端、ふっ、とフランシアの顔から笑みが薄くなりました。


 ベレンガリオは気付いていましたが、指摘しません。姉ジョヴァンナについて、フランシアには『何か』があるのだろうと察しましたが、指摘すべき時期ではない、と判断しました。


「そう。お姉様も喜ぶと思うわ」

「好物なのか?」

「多分、そうじゃないかしら。ええ、きっとそう」


 歯切れ悪くフランシアは肯定します。


 違和感を覚えたものの、今のベレンガリオにできることはないでしょう。せいぜいがフランシアの言動や動向に目を光らせておくくらいです。


 ほんの少しの不安を抱いて、ベレンガリオのダーナテスカ伯爵領滞在初日は過ぎていきました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る