呪いのせいで太ったら離婚宣告されました!どうしましょう!

ルーシャオ

第1話 いきなり離婚の危機です

 ここ、グレーゼ侯爵領にある壮大な屋敷では、久々の主人の帰りを待つ屋敷の人々で賑わっていました。


 季節は秋も深まるころ、春先に戦地へ赴いたグレーゼ侯爵ベレンガリオは、半年かかってやっとその任務を解かれて帰郷するのです。


 ところが、帰宅したベレンガリオの第一声から、とんでもない事件が起こりました。





 紅葉の落ち葉一つ見当たらないグレーゼ侯爵邸のエントランスで、日に焼けた肌と短い銀髪の青年ベレンガリオが叫びます。


「何だその……体型は!」


 赤と金の軍服が似合うベレンガリオの視線の先には、老執事長と一列に並ぶメイドたちを従える、去年結婚したばかりの夫人——グレーゼ侯爵夫人ジョヴァンナがいました。小柄で、金の巻き毛が可愛らしい十七歳の乙女は、ちょっと……いえ、だいぶ太ましい体です。ドレスはゆったりとしたドレープのものを着ているため問題ありませんが、頬や首、腕にはたぷたぷとした脂肪が揺れています。


 妻はこんなに太っていなかったはず、と信じられない顔をしたままのベレンガリオへ、ジョヴァンナは素直な性格のままに弁解します。


「いえ、これには事情がありまして」

「事情? 私が戦場で命を懸けているときに、お前はぶくぶくと肥え太っていい事情があるのか?」


 苛立つベレンガリオのモラハラ一歩手前のとんでもない発言ですが、ジョヴァンナは素直に返事をします。


「はい……」

「はい!?」

「事情というのは、まさに」

「……分かった」


 ジョヴァンナの発言を遮り、ベレンガリオは険しい顔つきで、宣告します。


「お前とは離婚する。さっさと出ていけ」


 それだけ言って、ベレンガリオは大股で屋敷に入っていきました。


 その背中に、予想外、という言葉を貼り付けたような驚きの表情を浮かべたジョヴァンナが、必死で弁解しようとします。


「な、なぜですか!? 事情があると申し上げたとおりで」


 ジョヴァンナの必死さむなしく、ベレンガリオは振り返ることもなく、去っていきました。


 離婚を突きつけられたジョヴァンナは、メイドたちと同様慌てふためきつつも、老執事長ドナートに縋ります。


「ど……どういう状況です? 私、機嫌を損ねるようなことを言ってしまったのかしら!?」

「いえ、それよりも坊っちゃまは殊に自他に厳しい方ですからなぁ。あれで相当ショックを受けているのでしょう」


 グレーゼ侯爵を『坊っちゃま』扱いする老執事長ドナートは、ため息を吐いていました。幼少のみぎりよりベレンガリオを見てきた彼の観察眼は、おそらく間違いありません。


 すると、一人の年配のメイドがこそっと会話に入ってきます。


「でも、事情を話したとしても、理解してもらえるかどうか分かりませんよ。坊っちゃまはこう、頑固な方ですから」


 その場にいる誰もが、その意見に賛同するように何度も小さく頷きます。


 新婚の妻が、半年の出征から帰ってきたら別人のように太っていた。それだけ聞けば、ジョヴァンナに全面的に責任があるのですが——。


「まさか、この時代にがあるなどとお伝えしても、信じていただけないでしょうな……」


 それを聞いたジョヴァンナは、盛大にうつむきます。二重顎になりかけて、何とか顎を引き締めました。


 たとえばそう、ジョヴァンナがベレンガリオへ正直に事情を話したとしましょう。


「ベレンガリオ様、留守の間、私はベレンガリオ様に向けられた呪いを代わりに受けたため、ものすごく太ってしまいました。前の二倍くらいの体重になっています」


 それを聞いたベレンガリオの反応は、予想するまでもなくこうです。


「呪い? そんなものがあるわけがないだろう! 己の不摂生を棚上げして、まだ言い訳するか!」


 何もベレンガリオが無知蒙昧なのではなく、それがごくごく普通の反応です。


 呪いなんて、この国ではとうの昔におとぎ話となってしまったことです。


 ジョヴァンナが平身低頭、どれほど懇切丁寧に弁解したところで、今の苛立つベレンガリオの耳には届かないでしょう。


「仕方ありません……では、私は荷物をまとめてまいります」


 しょぼくれたジョヴァンナが離婚宣告を受け入れて踵を返そうとしたそのとき、老執事長ドナートが「まあまあ」となだめます。 


「いえいえいえ、奥様は悪くございません。どうにか、坊っちゃまに事情を理解していただかなくては。ええ、我々も最大限協力いたしますから」


 そう言われても、ジョヴァンナは「はあ」と生返事を返すことしかできません。


 すっかり気落ちしたジョヴァンナは、途方に暮れてしまいました。


 まさか、相思相愛だったはずのベレンガリオに嫌われる日が訪れるとは、思ってもみなかったのです。







 グレーゼ侯爵邸では、ベレンガリオとジョヴァンナの離婚危機の話題で持ちきりでした。


 厨房では、メインディッシュとなるシチューの大鍋を火にかけ、長い木のヘラでかき混ぜる未亡人の中年女性シェフが、背後で野菜の下拵えをしている年若いキッチンメイドたちとこんな話をしていました。


「でもさ、やっぱり事情があるとはいえ、大変な思いをして帰ってきたら妻が激太りしてた、っていうのは殿方にとってはショックかもね……いや、坊っちゃまが潔癖症すぎるんだけど」


 まだグレーゼ侯爵邸に来て日の浅いキッチンメイドも、ベレンガリオの面倒な性格を把握しています。となれば、十年以上働くシェフは、ベレンガリオを擁護する——かと思いきや、馬鹿なことをしたとばかりにすっかり呆れた様子です。


「しょうがないよ。まあ、悪い人じゃあないんだがね。第一、奥様を迎えたのも坊っちゃまが一目惚れしたからなのに、離婚する、じゃあないんだよ」

「それは私も思った。自分から結婚を申し込んでおいてさ、無責任だよね」

「男ってのはそういうもんなんだよ。ほら、手を動かしな。奥様に早く食事をお持ちしないと」


 シェフの一声に、キッチンメイドたちは思い思いの返事をします。


 ジョヴァンナは呪いのせいで太った、呪いを受けるごとに太る。しかし、断食や厳しいダイエットをしてジョヴァンナが倒れたことを知っているグレーゼ侯爵邸の使用人たちは、無理に痩せさせようとはしません。侯爵夫人が栄養不足で倒れた、などという噂が広まれば、グレーゼ侯爵家の名誉に関わります。


「そういえば、呪いの中には不幸を引き起こすひどいものもあるって聞いたけど」

「らしいよ。坊っちゃまに向かうその呪いを、奥様が一身に受けてらっしゃるんだ。太ったのはその結果さ。元々、奥様の家系は遡れば魔法使いや魔女を多く輩出してきたとかで、子孫の奥様にもその才能が残っているとか。じゃなきゃ、呪いなんて普通の女性は受けられやしないよ」

「ふぅん。呪いってそんなにひどいんだ。おとぎ話に出てくる、魔女が人間をお菓子に変える、みたいなのかと思ってたら」

「それだって相当ひどいだろ」

「あ、そうか。食べられたら死んじゃう!」


 どこかずれた金髪とそばかすのキッチンメイドの言葉に、周囲から笑いが巻き起こります。


 彼女たちは、本当に呪いについて何も知りません。誰が、なぜ、いつ、どうやって、そんなこともさっぱり見当がつかないくらい、この国では忘れ去られたことなのです。


 厨房前では、まんまるの背中が、そっと去っていきます。


 ジョヴァンナです。厨房に用事があったのですが、シェフとキッチンメイドたちの話す自分のことを聞いてしまい、何となく姿を現しづらくなって引き返してしまいました。


 彼女たちに悪気はなく、それどころか不憫に思ってくれていることは、ジョヴァンナも知っています。しかし、色々と迷惑をかけている自覚があるため、まだ侯爵夫人になったばかりのジョヴァンナは、使用人たちへの申し訳ない気持ちでいっぱいです。


 厨房から離れ、階段に辿り着いた矢先、ジョヴァンナのお腹の音が鳴りました。階段の吹き抜けを伝い、その音が上へ上へと響いていきます。


 無情にも、乙女にとっては恥以外何者でもない音がこだまし、ジョヴァンナは思わずため息をこぼしました。


「はあ……お腹空いたなぁ。何か食べたいのに、どうしよう」


 ジョヴァンナの胸元には、金のフクロウが緑の宝石を抱き抱えるモチーフのブローチがあります。八角形に磨かれた緑の宝石は、まるで脈打つように、ほのかに、そしてゆっくりと光が明滅していました。


 シェフやキッチンメイドたちが話していたとおり、ジョヴァンナの故郷ダーナテスカにはかつて魔法使いや魔女がいました。ダーナテスカという土地には古くからの魔法学院があり、二百年ほど前まで栄えていたのですが、いつしか閉鎖された魔法学院跡地にダーナテスカ伯爵邸ができ、魔法使いや魔女たちの活躍はすっかり鳴りをひそめてしまったのです。


 ジョヴァンナの先祖にも著名な魔法使いがいたようで、胸元に輝く母から贈られた金フクロウのブローチは、その魔法使いが子孫のためにお守りとして作ったものである、と言い伝えられています。ある意味では、そのせいで今のジョヴァンナの苦難があるのですが——ジョヴァンナはそう考えません。きっと、こんな事態が起きるであろうことを見越して、子孫の力となるために遺されたものなのだ、そう信じています。


 少し前まで、ベレンガリオへ向けての呪いは絶えず、金フクロウのブローチはその呪いを吸収してくれていたようです。それでも完全に失くすことはできず、その余波を受けてジョヴァンナは太ったのです。夜中でも緑の宝石がピカピカにずっと光っていた時期には、ジョヴァンナの体重も今より重かったので、少しずつ呪いは消えていっているのでしょう。


 とはいえ、ジョヴァンナはどんどん太ってしまってお腹の減りが早くなり、夕食を待たず厨房に何か料理を求めていくことが常態化しています。これでは痩せる目処など立ちはしません。


 ジョヴァンナの胸中では、部屋に戻るか厨房に引き返すか——空腹とプライドと、ベレンガリオの離婚宣告と痩せたい気持ちがせめぎ合います。


 ところが、ジョヴァンナの後ろから、存在を知らせるがごとく、わざとらしい咳払いが聞こえてきました。


「んん! こほん!」


 ジョヴァンナが振り向けば、そこにはベレンガリオが立っていました。


 ジョヴァンナは思わず悲鳴を上げます。


「ひい!? ベ、ベレンガリオ様、ご機嫌麗しゅう」

「……腹が、どうしたって?」


 どうやら、独り言を聞かれていたようです。いつから後ろにいたのか、まったく分かりません。


 これ以上、詰問されてはかないません。というよりも、ジョヴァンナの心が保ちません。


 ジョヴァンナは叫びながら、脱兎のごとく逃げ出します。


「何でもありません! 失礼いたしました、大至急荷物をまとめます!」

「あ、おい」


 呼び止める声が聞こえた気もしますが、それどころではありません。


 ジョヴァンナは必死になって、遠く離れた自室へ精一杯駆け出しました。その足音は廊下を少々揺らし、お腹の虫の音よりもだいぶ騒がしかったのですが、気にする余裕などありませんでした。

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