20代 第二次西園寺公望内閣

20代 第二次西園寺公望内閣 (2571(明治44・1911)年8月30日~2572(大正元・1912)年12月21日)

▽来歴・概要

 公家。清華家。侯爵。立憲政友会第2代総裁。第18代内閣総理大臣。

 第二次西園寺内閣が取り組んだ政策としては行財政改革が挙げられる。日露戦争後の財政難を理由に計画されたが、明治天皇の崩御を機に中断し、その後再開せずに政権が崩壊したため、実現することはなかった。

 明治45年5月15日、任期満了の衆議院議員総選挙が行われた。立憲政友会は議会第一党となり、衆議院の過半数を獲得した。第二党は立憲国民党となったが、その獲得議席は政友会の半数にも満たぬ程度であった。ため、この時点では西園寺政権は安定政権となるはずであった。

 明治45年7月30日、明治天皇が崩御し、大正天皇が即位した。大正改元を機に、議会政治の刷新を掲げて、桂は新党結成を宣言した。桂は陸軍の現役を退き、予備役入りすることで政治活動に本腰を入れることを決意し、各党からの参加を募った。桂新党の中心勢力となったのは、野党第二党の中央倶楽部であった。中央倶楽部は元々政府に近かった国民協会の議員の内で反政友会系議員が主体となっていたために、中央倶楽部の大半が桂新党へ合流した。更に、英国流の二大政党制を志向するとする桂の結党趣旨に賛同したのが立憲国民党の中でも大隈重信に近かった集団である。元々二大政党制は大隈の持論であったことから、憲政本党系の議員も流れてきた。一方、政友会では幹事長の原敬の締め付けもあり、10名程度の脱党に留まった。80人ほどの議員を確保し、立憲国民党を超えて野党第一党として立場を確保した桂は、9月1日立憲同志会の立ち上げを宣言する。

 新党を立ち上げたものの立憲同志会は野党第一党の立場に過ぎなかった。新党を立ち上げたものの、自身の第一次、第二次内閣で閣外協力を結んでいた政友会との間に全面抗争を起こそうというつもりはなく、西園寺自身との友誼も感じていたがために桂は党勢の拡大をじっくりと行う予定であった。しかし、事態は急速に転換する。二個師団増設問題が発生したのである。

 大正元年11月、来年度予算編成の閣議において、上原陸相は、シベリア鉄道複線化、辛亥革命による中国の情勢不安定、韓国併合による朝鮮半島防備といった日露戦争後の大陸情勢の変化を理由として二個師団の増設のための予算計上を要求した。対する西園寺は財政難、日露協商成立による日論関係の安定、増資反対の世論を理由として予算計上を退けた。陸軍の長老でもあった山縣としては、内閣・政友会サイドとは予算獲得のための条件闘争のつもりであった。立憲同志会の総裁として政界入りした桂も山縣との間で要求の半分の一個師団を増設する足掛かりとして折り合いをつけようという方向で動いていた。

 徳川慶喜から気に入られ、小栗忠順が頼みとした大村益次郎以来明治陸軍を牽引してきたのは長州藩出身の軍人であった。幕府側の辛勝に終わった第二次長州征伐において寡兵にもかかわらず幕府軍と対峙した長州藩の指揮を執ったのが大村である。德川慶喜が大村を明治政府に引き立てたのは、彼の才能は当然のことであるが、一度は関係が決裂した長州との関係を再構築する意味合いも含んでいた。その人事は、桂太郎、児玉源太郎、寺内正毅と言った三代の陸軍大臣が10年以上も長州藩系から出されるという長期人事に発展した。

 その人事に割を食ったのが非長州系の軍人である。彼らにとっての挽回の場がこの二個師団増設問題であった。上原陸相は陸軍省の後押しで再度閣議の場で増師の要求を行う。閣議は前回と引き続きこれを退けたが、要求貫徹を求める上原は、12月2日、大正天皇に帷幄上奏を行い、陸軍大臣辞職の意向を奏上する。この動きに慌てた山縣と桂は急遽参内して、上原の辞表を留め置くように進言する。

 ところが、上原は陸軍省軍務局を中心とした増師要求派の声を背景にあくまでも二個師団増設の貫徹を要求し、受け入れられなければ辞職すると大正天皇に伝えた。世論を背景にした西園寺は、上原陸相を更迭する方針で対処し、後任の陸相を推薦するように山縣に伝えた。山縣と桂は手分けして、上原の説得と後任の陸相候補となる陸軍大中将をあたったが、政争に巻き込まれることを恐れて長州藩出身者の中でも尻込みする者が多かった。何より陸軍大臣の部下となる陸軍省、特に軍務局のスタッフが軍拡路線を主導していたため、これを統御して、内閣側と協調できるだけの政治力を発揮できる者がいなかった。

 桂は山縣に対して勅命を以て自分を現役に戻してもらい、西園寺内閣の陸相に就任することを願った。当時の陸軍省官制では、陸軍大臣は現役の陸軍大中将に限られており、予備役の陸軍大将であった桂には就任資格はなかった(軍部大臣現役武官制)。山縣はこれを許さなかった。一度首相となった者が格下の各省大臣に就任するというのは桂のためにならずと考えていたからである。

 西園寺は、山縣が伊藤博文がかつて議会対策で行ったように、勅諭を以て上原に対して陸相留任と増師要求の撤回を指示すると考えていた。しかし、山縣は天皇が政争に関与することには否定的な立場をとっていた。対立する勢力の片一方に肩入れするような関与は、もう片一方からの不信感を持たれる。特に二度の戦争に勝利し、立憲政治を推進してきた明治天皇が崩御した直後のこの段階では、新帝に対する国民の視線を考慮せずにはいられなかった。

 西園寺首相サイドに政策転換が見られない上原陸相にも焦りがみえだした。帝國議会の召集が12月24日に控え、予算案の修正のタイムリミットが刻一刻と近づいてきている中で西園寺サイドは政策転換をしないということになると、自身の陸相辞任が確定する。そうなると内閣は陸軍大臣が不存在ということになり、内閣は総辞職をせざるを得なくなる。そうなると自身が内閣崩壊の引き金を引いたということになり、政治的な失点ともなりかねない。山縣と桂には辞職の意向を翻さなかったが、上原は不安な日々をすごした。

 陸軍省サイドは、増師は国防上の必要という理由から主張を撤回しなかった。また、桂も山縣も陸軍出身であり、最終的には陸軍省の主張に味方せざるを得ないと考えていた。あるいは、満額回答を引き出せなくても上原陸相の辞任が認められ、内閣総辞職となることを天秤に掛ければ、多少の妥協は必要かもしれないが一個師団増設程度の予算はつけると考えていた。彼らは、譲歩を引き出すためには折れる姿勢を見せるわけにはいかないと考え、上原陸相をたきつける方向で動いていた。

 予算編成のタイムリミットを迎え、政権を継続させることを諦めた西園寺首相は12月7日に内閣総辞職の意向を大正天皇に奏上した。

▽在任中の主な出来事

・二個師団増設問題

▽内閣の出した主な法令

▽内閣の対応した帝國議会

第28回帝國議會・通常会

日程

 召集:2571(明治44・1911)年11月 9日(官報公示10日)

 集会:2571(明治44・1911)年12月23日

 開会:2571(明治44・1911)年12月27日

 閉会:2572(明治45・1912)年 3月25日

 会期:90日、実数90日

議院役員

4 徳川 家達(とくがわ いえさと)

 就任:2563(明治36・1903)年12月 4日

 退任:

 生年:2523(1863)年8月24日(文久3年7月11日)、39歳

 出生:武蔵国江戸江戸城田安屋敷(東京都千代田区宮城)

 学歴:英イートン・カレッジ

 官職:貴族院議員・華族議員(公爵)

 会派:火曜会

 回数:終身

 前職:麝香間祗候

 特記:德川家達家初代。

貴族院副議長

5 黒田長成(くろだ ながしげ)

 就任:2561(明治34・1901)年10月 7日(再任)

 退任:

 生年:2527(1867)年6月7日(慶応3年5月5日)、35歳

 出生:筑前国福岡(福岡県福岡市)

 学歴:英ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業

 官職:貴族院議員・華族議員(侯爵)

 会派:無所属

 回数:終身

 前職:宮内省式部官、福岡県立中学修猷館館長

 特記:第12代福岡藩主黒田長知の長男。

    侯爵

15 大岡育造(おおおか いくぞう)

 就任:2571(明治44・1911)年12月24日(選出)

 退任:

 生年:2516(1856)年7月4日(安政3年6月3日)、54歳

 出生:長門国豊浦郡小串村(山口県下関市)

 学歴:長崎医学校(現・長崎医科大学)、講法学舎

 官職:衆議院議員(山口県郡部区)

 会派:立憲政友会

 回数:10回(1期~10期)

 前職:代言人/東京府会議員

 特記:

衆議院副議長

12 肥塚龍(こいづか りゅう)

 就任:2568(明治41・1908)年12月23日(選出)

 退任:

 生年:2508(1848)年2月14日(嘉永元年1月10日)、60歳

 出生:播磨国揖西郡御津村中島(兵庫県龍野市)

 学歴:

 官職:衆議院議員(兵庫県郡部区)

 会派:憲政本党

 回数:6回(3期~5期、7期、9期~10期)

 前職:横浜毎日新聞社、神奈川県会議員、東京市会議員、東京市参事会員、赤坂区会議員、衆議院議員、農商務省鉱山局長、東京府知事兼東京市長

 特記:

第11回衆議院議員総選挙

 改選数:395

 公示日:2572(明治45・1912)年4月11日

 投票日:2572(明治45・1912)年5月15日

 選挙制度:大選挙区制(一部1人区制)、秘密投票制

 実施地域:48庁府県(北海道(千島列島以外)、沖縄県(沖縄本島以外)、樺太庁(豊原町、大泊町など一部以外)、小笠原諸島を除く)

 選挙権:

  直接国税10円以上納税の満25歳以上の日本国民男性

下記の者は権利の適用除外

   華族の当主、現役軍人

   禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人

 被選挙権:

  満30歳以上の日本国民男性

下記の者は権利の適用除外

   華族の当主、現役軍人

   禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人

   宮内官、司法官、会計検査官、収税官、警察官

   管轄区内の府県郡官吏

   各選挙区の市町村選挙管理担当吏員

   神官、僧侶、教師

 選挙結果:

  立憲政友会

   前回選挙:187

   選挙直前:207

   獲得議席:209(+2)

  立憲国民党

   前回選挙:新党

   選挙直前:87

   獲得議席:95(+8)

  中央倶楽部

   前回選挙:新党

   選挙直前:50

   獲得議席:31(△19)

  立憲帝政党

   前回選挙:17

   選挙直前:17

   獲得議席:17(±0)

  無所属

   前回選挙:

   選挙直前:

   獲得議席:43

第29回帝國議會・臨時会

 召集:2572(大正 元・1912)年8月 6日(官報公示6日)

 集会:2572(大正 元・1912)年8月21日

 開会:2572(大正 元・1912)年8月23日

 閉会:2572(大正 元・1912)年8月25日

 会期:3日、実数3日

議院役員

4 徳川 家達(とくがわ いえさと)

※第28議会に同じ

貴族院副議長

5 黒田長成(くろだ ながしげ)

※第28議会に同じ

16 大岡育造(おおおか いくぞう)

 就任:2571(明治44・1911)年12月24日(選出)

 退任:

 生年:2516(1856)年7月4日(安政3年6月3日)、55歳

 出生:長門国豊浦郡小串村(山口県下関市)

 学歴:長崎医学校(現・長崎医科大学)、講法学舎

 官職:衆議院議員(山口県郡部区)

 会派:立憲政友会

 回数:10回(1期~10期)

 前職:代言人/東京府会議員

 特記:

衆議院副議長

12 関直彦(せき なおひこ)

 就任:2568(明治41・1908)年12月23日(選出)

 退任:

 生年:2517(1857)年9月4日(安政4年7月16日)、54歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:東京大学法学部法律科卒業

 官職:衆議院議員(東京府東京市区)

 会派:立憲国民党

 回数:6回(1期~2期、6期、9~11期)

 前職:東京日日新聞記者、日報社社長/弁護士資格取得、東京弁護士会長/東京日日新聞・大阪日日新聞・帝国石油各社長/麹町区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員、衆議院議員

 特記:紀州藩士関平兵衛の次男

▽内閣閣僚

内閣総理大臣

20 西園寺公望(さいおんじ きんもち)

 就任:2571(明治44・1911)年 8月30日(新任)

 退任:2572(大正 元・1912)年12月21日(内閣総辞職)

 生年:2509(1849)年12月7日(嘉永2年10月23日)、61歳

 出生:山城国京都(京都府京都市)

 学歴:ソルボンヌ大学卒業

 官職:貴族院議員・華族議員(侯爵)

 会派:立憲政友会

 回数:終身

 前職:東洋自由新聞社長/

    駐墺公使、駐独公使、兼駐白公使/

    賞勲局総裁、法典調査会副総裁(総裁は伊藤博文)

    貴族院副議長(3)、

    内閣総理大臣(18)

 特記:

外務大臣

22 内田康哉(うちだ こうさい/やすや)

 就任:2571(明治44・1911)年 8月30日(初入閣)

 退任:2572(大正 元・1912)年12月21日(内閣総辞職)

 生年:2525(1865)年9月29日(慶応元年8月10日))、45歳

 出生:肥後国八代郡竜北(熊本県八代郡氷川町)

 学歴:新川義塾、同志社英学校中退、東京帝国大学法科卒業

 官職:

 会派:

 回数:

 前職:外務省入省、外務省通商局長ロンドン公使館勤務、清国北京公使館勤務、清国臨時代理公使、外務次官、駐墺大使兼スイス公使、駐米大使

 特記:男爵

内務大臣

25 原敬(はら たかし)

 就任:2571(明治44・1911)年 8月30日(再入閣)

 退任:2572(大正 元・1912)年12月21日(内閣総辞職)

 生年:2516(1856)年3月15日(安政3年2月9日)、55歳

 出生:陸奥国岩手郡本宮村(岩手県盛岡市)

 学歴:司法省法学校中途退学、パリ政治学院・科目履修生(国際公法)

 官職:衆議院議員(岩手県盛岡市区)

 会派:立憲政友会・総務委員

 回数:4回(7期~10期)

 前職:郵便報知新聞社記者

    外務省御用掛、清国天津領事、仏公使館在勤、農商務省参事官

    外務省通商局長兼大臣官房移民課長兼取調局長、外務次官、朝鮮国駐箚特命全権公使

    大阪毎日新聞社編集総理、同社長

    逓信大臣

 特記:

大蔵大臣

21 山本達雄(やまもと たつお)

 就任:2571(明治44・1911)年 8月30日(初入閣)

 退任:2572(大正 元・1912)年12月21日(内閣総辞職)

 生年:2516(1856)年4月7日(安政3年3月3日)、55歳

 出生:豊後国海部郡(大分県臼杵市)

 学歴:慶應義塾中退、明治義塾(三菱商業学校)卒業、

 官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)

 会派:無所属

 回数:明治36(1903)年11月20日

 前職:郵便汽船三菱会社(後の日本郵船)入社、日本銀行入行、横浜正金銀行取締役、ロンドン派遣、日本銀行理事、日本銀行総裁(5)、貴族院勅選議員、日本勧業銀行総裁

 特記:

陸軍大臣

11 石本新六(いしもと しんろく)

 就任:2571(明治44・1911)年 8月30日(初入閣)

 退任:2572(大正45・1912)年 4月 2日(死去)

 生年:2514(1854)年2月17日(嘉永7年1月20日)、56歳

 出生:播磨国姫路(兵庫県姫路市)

 学歴:大学南校、陸軍幼年学校、陸軍士官学校(旧1期)卒業、仏フォンテンブロー砲工校卒業

 官職:陸軍中将

 会派:

 回数:

 前職:陸軍工兵少尉任官、欧州差遣(イタリア)、参謀本部第3局第2課員、参謀本部第2局員、陸軍省軍務局工兵事務課長、工兵課長、築城部本部長、兼陸軍砲工学校長、陸軍次官兼法務局長

 特記:明治40(1907)年9月21日、男爵叙爵

12 上原勇作(うえはら ゆうさく)

 就任:2572(大正45・1912)年 4月 2日(初入閣)

 退任:2572(大正 元・1912)年12月21日(内閣総辞職)

 生年:2516(1856)年12月6日(安政3年11月9日)、55歳

 出生:日向国都城(宮崎県都城市)

 学歴:大学南校、陸軍幼年学校、陸軍士官学校(旧3期)卒業、仏フォンテンブロー砲工校卒業

 官職:陸軍中将

 会派:

 回数:

 前職:陸軍工兵少尉任官、陸士教官、臨時砲台建築部本務官、欧州出張、参謀本部有栖川宮熾仁親王副官、陸軍大学校教官、参謀本部第2局員、第1軍参謀、参謀本部第2局員、参謀本部第4部長、参謀本部第3部長、兼参謀本部第5部長、兼陸軍砲工学校長、工兵監、第4軍参謀長、工兵監、第7師団長、第14師団長

 特記:明治40(1907)年9月21日、男爵叙爵

海軍大臣

9 斎藤實(さいとう まこと)

 就任:2568(明治41・1908)年 7月14日(留任)

 退任:2571(明治44・1911)年 8月30日(内閣総辞職)

 生年:2518(1858)年12月2日(安政5年10月27日)、49歳

 出生:陸奥国胆沢郡塩竈村(岩手県奥州市水沢吉小路)

 学歴:海軍兵学寮(6期)卒業

 官職:海軍中将→海軍大将

 会派:

 回数:

 前職:米国留学兼駐米公使館付駐在武官、海軍次官、兼海軍省軍務局長、兼艦政本部長

 特記:

司法大臣

20 松田正久(まつだ まさひさ)

 就任:2571(明治44・1911)年 8月30日(再入閣)

 退任:2572(大正 元・1912)年12月21日(内閣総辞職)

 生年:2505(1845)年5月17日(弘化2年4月12日)、66歳

 出生:肥前国小城郡牛津(佐賀県小城市)

 学歴:昌平坂学問所

 官職:衆議院議員(佐賀県郡部区)

 会派:立憲政友会・総務委員

 回数:6回(1期、6期~10期)

 前職:小城藩士/幕府陸軍局

    長崎県会議員、同会議長、司法省出仕、大蔵大臣(14)、衆議院議長(12)、司法大臣(17、20)

 特記:小城藩士横尾只七の次男

文部大臣

21 長谷場純孝(はせば すみたか)

 就任:2571(明治44・1911)年 8月30日(初入閣)

 退任:2572(大正 元・1912)年11月 9日(依願免本官・病気療養)

 生年:2514(1854)年4月27日(嘉永7/安政元年4月1日)、54歳

 出生:薩摩国日置郡串木野郷(鹿児島県串木野市)

 学歴:薩摩藩校造士館

 官職:衆議院議員(鹿児島県郡部)

 会派:立憲政友会

 回数:10回(1期~10期)

 前職:鹿児島県会議員、衆議院議員、衆議院議長(14)

 特記:

臨時兼任 牧野伸顕(まきの のぶあき)

 就任:2566(明治39・1906)年 1月 7日(臨時兼任)

 退任:2568(明治41・1908)年 7月14日(内閣総辞職)

 ※農商務大臣による臨時兼任

農商務大臣

19 牧野伸顕(まきの のぶあき)

 就任:2571(明治44・1911)年 8月30日(再入閣・新任)

 退任:2572(大正 元・1912)年12月21日(内閣総辞職)

 生年:2521(1861)年11月24日(文久元年10月22日)、49歳

 出生:薩摩国鹿児島郡鹿児島城下加治屋町(鹿児島県鹿児島市)

 学歴:アメリカ留学、東京大学中退

 官職:

 会派:

 回数:

 前職:外務省入省、英公使館在勤、

    内閣書記官、法制局参事官、兵庫県書記官、首相秘書官、福井県知事、茨城県知事/文部次官、在イタリア公使、オーストリア公使、文部大臣

 特記:大久保利通次男

    明治40年11月、男爵叙爵

    文部大臣臨時兼任

逓信大臣

16 星亨(ほし とおる)

 就任:2571(明治44・1911)年 8月30日(再入閣)

 退任:2572(大正 元・1912)年12月21日(内閣総辞職)

 生年:2510(1850)年5月19日(嘉永3年4月8日)、61歳

 出生:武蔵国江戸築地小田原町(東京都中央区築地)

 学歴:横浜英学所、開成所、英ミドル・テンプル

 官職:衆議院議員(栃木県郡部区)

 会派:立憲政友会

 回数:9回(2期~10期)

 前職:幕府大蔵局、横浜税関所長、弁護士、自由党員、駐米公使、外務大臣、逓信大臣

 特記:実父は左官職人。

内閣書記官長

22 南弘(みなみ ひろし)

 就任:2571(明治44・1911)年 8月30日(再任)

 退任:2572(大正 元・1912)年12月21日(内閣総辞職)

 生年:2529(1869)年11月13日(明治2年10月10日)、38歳

 出生:越中国(富山県氷見市仏生寺)

 学歴:仏生寺小学校、富山中学校、第四高等学校、東京帝国大学法科大学政治学科卒業

 官職:

 会派:

 回数:

 前職:内閣書記官、内務省勤務、内閣書記官長(20)

 特記:明治生まれ初の内閣書記官長

法制局長官

15 安広伴一郎(やすひろ ばんいちろう)

 就任:2568(明治41・1908)年 7月14日(再任)

 退任:2571(明治44・1911)年 8月31日(依願免本官)

 生年:2519(1859)年11月7日(安政6年10月13日)、48歳

 出生:豊前国仲津郡(福岡県行橋市)

 学歴:慶應義塾、英香港中央書院、英ケンブリッジ大学卒業

 官職:

 会派:

 回数:

 前職:内閣書記官、法制局・内務省各参事、司法・内務各大臣秘書官、内務省社事局長

 特記:

16 岡野敬次郎(おかの けいじろう)

 就任:2571(明治44・1911)年 8月31日(再任)

 退任:2572(大正 元・1912)年12月21日(依願免本官)

 生年:2525(1865)年11月9日(慶応元年9月21日)、40歳

 出生:上野国群馬郡岩鼻町(群馬県高崎市)

 学歴:共立学校、第一高等中学校、帝国大学法科大学(現・東京帝国大学)卒業、同大学大学院

 官職:

 会派:

 回数:

 前職:帝国大学法科大学教授、農商務省官房長、内閣恩給局長、高等捕獲審検所評定官、法制局長官(14)

 特記:

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