第55話 一筆啓上、「やだ」と言った
四時間目、それは空腹との戦いでもある。
既に100キロ目前となっていた肥満児にしたら、それは他の児童よりも深刻な問題だ。
腹が容赦なく何度も音を立てている。こんな時、もし食べ物の匂いがする消しゴムなんか持っていたら、ガム代わりに噛みそうになるほどだ。
そんな中、背後から俺の背を何度も叩く奴がいた。
「風間、風間」
後ろの席の女子だ。どうせまた清志だろうと俺は寝たふりをする。
「風間風間風間風間」
しかし女子は諦めてくれない。
仕方なく振り返ると、
「清志くんがおしっこって言ってる」
このクソがっ!腹減ってる時にオムツかよ!と煮え滾る激情を噛み締め、俺は何も言わずに清志の元へと向かう。
「優しくしてね🎵優しくしてね🎵」
清志は仰向けの態勢で、まるで歌っているかのように言った。
その刹那、俺の頭の中で何かが弾ける。
この状況、前にも見た事がある。
俺は前にもこの場面に遭遇していた。
「やだ」
そうだ。俺は過去にも同じ状況に遭遇し、その時も同じ台詞を吐いたのであった。
虚ろな眼差しの清志を見据えて、俺ははっきり「やだ」と言ったのである。
そうだ。これは俺が物心付いて以来、初めて他人にNoを突き付けた瞬間なのである。
これまで何処か俯瞰のように見えた世界が、この瞬間、はっきりと焦点が合ったかのように実感をつかんだ。
「お前さ、調子に乗るんじゃねえよ。当然のように人に何から何までさせて、さらに優しくしろと注文するのか?図々しいんだよ。
お前、これ、わかっててやってるだろ?」
俺は滾る激情を抑えつつ、声をひそめた。
「優しくしてね🎵優しくしてね🎵優しくしてね🎵優しくしてね🎵」
清志は虚ろな眼差しで連呼する。
俺は愚弄されているような気分だ。
しかし、
「お前、自分が庇護されて当然の存在だとでも思っているのか?
調子に乗るなよ」
奴の言葉へ被せるように言いつつ、尿で重くなったオムツを交換する。
暴発しそうな感情をなんとか抑え込み、オムツ交換をし、授業をやり過ごす。そうしてようやく、待ちに待った給食の時間が来た。
今日はカレーだ。
清志の食事は交替制でやることとなっていた。
先発の者が清志へ食事介助をし、次の者が給食を食べ終わったら先発と交替という流れだ。
今日は大久保が先発である。
大久保はいつもわざと給食をゆっくり食べて、食事介助へ来ない節がある。
だから、今日は俺もゆっくりと給食を味わう。カレーのおかわり、三回はするからな…
川俣もその辺りは心得ているはずだ。
今日は大久保の先発完投、給食抜きだ。
俺がカレーのおかわり三度目をし、席へ戻ろうとした時、大久保は給食を取りに来た。
「清志の奴、今日は食べたのか?」
「うん 今日は順調に食べてくれたよ」
俺からの問いかけに大久保は満面の笑みで答えた。
俺は要領の悪いガキだったのだが、大久保のそれは俺を遥かに上回る。
その大久保の手から清志が食べた…、本当か?
嫌な予感がする…
今日の昼休み後の5時間目は体育、サッカーだ。
俺たちは校庭へと駆り出され、ボールが飛んで行く方へ走らされる。
体重が100キロ近くある俺には拷問、俺ほどではないが充分肥満児の大久保にも拷問であった。
一方の清志と言えば、校庭の木陰にマットを敷いて、そこで女子と戯れている。
「痛い!」
女子の声が聞こえた。
清志はおんぶをした女子の髪を引っ張っているようだ。
俺はサッカーの前に、女子へ清志との密着は厳禁だ、と忠告したはずなのに。愚かな…
その次の瞬間、その女子たちから悲鳴が上がった。
「風間〜!大久保〜!」
清志係を呼ぶ声が聞こえた。
呼ばれたら行くしかない。清志係はサッカーを抜け、清志がいる木陰へと向かった。
現場は動物園のような臭気が漂っていた。
清志はおんぶから引き剥がされてマットの上に座り、一方の女子は下半身を茶褐色に染めて泣き叫んでいた。
「清志くんがウンチ漏らした!」
俺たち清志係が到着するなり、女子らは口々にそう言った。
「清志と密着するなと忠告したはずだ。
お前らが理解しないから、清志が体で説明してくれたんだろう。
こいつは人の善意を弄ぶ奴だからな」
女子らの恨めしそうな眼差しを一身に浴びる。
そうだ…、俺は小5にして、ひねくれた無頼の根性をしていたのだ。
清志に糞を掛けられた女子は、他の女子によって保健室へと連れて行かれた。
「清志のオムツ交換だ」
と言ったものの、俺はある事に気付く。
「あれ?グンちゃんは?」
「え?」
俺の一言に大久保は露骨なまでに絶句した。
「風間くん。忘れちゃったの?川俣くんは児相に連れて行かれちゃったんだよ」
川俣が児相?大久保のその言葉に我が耳を疑う。
「何だって!いつの話だよ?」
「ニヶ月前ぐらいだよ。風間くんもその時いたよ?」
大久保の言葉に驚きつつも、記憶の糸を辿る。
そうだ!そうだった…、堰を切ったように記憶が甦る。
川俣はオムツ交換時、清志の尻を拭こうと奴の両足を持ち上げた。
その刹那のことである。
清志は下痢糞混じりの放屁をし、川俣はそれを顔面に浴びて怒り心頭に発し、清志を殴り首を締めて教師らに止めに入られたのだ。
そしてそのまま、児相に連れて行かれたと村上から聞かされたのであった。
これは確か夏休み明け直後の出来事だ。今、季節は秋。校庭のイチョウの木の葉が黄色くなり始めている。
どういうことだ。俺の中で川俣は…、グンちゃんは昨日まで一緒に居たはずなのに、これは一体何なのか。
そんな俺の思索を金切り声が邪魔をする。
清志が悲鳴を上げたのだ。
「きれいきれいにしてーっ!」
「黙れ!だったら、する前に自分からトイレに行け!お前はわかっててわざとしてるだろうよ!」
清志の叫びに俺も思わず叫び返す。校庭でサッカーをしている奴らが何事かと俺たちの方を見た。
「大久保、オムツ交換だ!お前は清志の腕を押さえてろ!」
「わかった!」
俺の指示に大久保は清志を仰向けに寝かせ、俺は糞だらけになった清志のズボンを脱がす。
「すっ、凄え。何だよ、これ」
その様相に思わず口を衝いて出た。清志はいつも下痢だか軟便なのだが、その量が尋常でなかったのである。オムツが完全に糞に飲み込まれたかのようだ。
「あれっぽっちのカレーを食べて、なんでこんなに出るんだよ」
清志がいつも持参している、小さなタッパーに入ったカレーを思い出した。
「今日は食べてないよ」
と大久保は言った。
「え?お前、さっき食べたって言ってただろ?」
大久保は口を滑らせたとばかりに、気不味そうな表情を浮かべた。
「ごめん。本当は捨てた」
なるほどな。大久保は真面目くさっているのだが、こういう面があるのだ。
だから、クラス内で皆から嫌われているのだ。
「何かおかしいと思った」
と言いつつ、清志のオムツを下ろす。
「こいつは圧倒的だ…」
と思わず口を衝いて出た。清志のオムツの下は更に酷いことになっていたのだ。
軟便だか下痢だかで、清志のドリルが埋もれ、性別不明状態となっている…
「どうするの、これ」
大久保もこの様相に衝撃を受けたようだ。
「わからん」
清志が持参している鞄の中に、トイレットペーパーが入っているのだが、どこから拭けばいいのかわからない。
「きれいきれいきれいにしてーっ!」
清志が金切り声で叫んだ。
「黙れ!一人前に急かすんじゃねぇ!」
俺の叫びに清志はより大きな悲鳴を上げた。その刹那、清志は大久保の拘束を振り解く。
そして、清志はその手を自分の股間にあてがう。
「しまった!」
と大久保が言った時、清志は糞に埋もれたドリルを手で弄り始めた。
そして、清志はその手を口の中に入れる。
「えーーーーっ!」
大久保は驚愕で仰け反り尻餅を付く。
清志は大久保の驚愕を他所に、自分の手にむしゃぶり付いている。
「これは驚きだ。
親が持たせたカレーは食わずに、自分のカレーは貪り食ってやがる…」
清志は恍惚とした表情で自分のカレーを貪り喰らい続ける。
大久保のえずく声が聞こえた。
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