第50話 一筆啓上、流れ星が見えた

 俺の全身を緊張感が支配している。

 前方、教壇の上には数学教師の児玉が白いチョークを片手に、黒板へ何やら数式を書いている。

 俺の机上の立てかけた教科書、それは衝立か、盾ってところだ。

 その下には某ファストフード店で買った、目玉焼きとハムが挟まっているマフィンと、同じ店で買った紙コップのコーラがある。

 児玉が黒板の方を向いた隙をついて、俺はマフィンを食べ、コーラを喉奥へ流し込む。

 早弁ってやつだ。肥満児だった頃の俺なら本気の空腹でやっていたことだが、今の俺は違う。

 こんなものは退屈しのぎでしかない。

 しかし、そんな退屈しのぎでさえも、緊張感を付け足すことによって別の体験となるのだ。

 その方がやる意義があるってものだろうよ。

 だから、俺は早弁をするのだ。



 修学旅行後、初の登校日である。

 現役の高校生だった頃でさえも、授業なぞ関心が無かったのに、何の因果か高校生活二周目だ。退屈極まりない。

 栗栖の奴は何故に高校生活の世界を望んだのか…


 不意に俺の机上へ、縦横3センチぐらいの紙片が置かれた。

 これを置いたのは右隣の女子学生だ。さっきから俺に熱い視線を送っていることに気付いているのだが、俺はそれを敢えて気付かぬフリをしていた。

 何故か…、心が滾らぬからだ。

 かつて肥満児だった頃の俺なら、冷静なふりをして狂喜乱舞していた事だろう。

 しかし状況が変わったのだ。

 かつて豚だった頃の俺に、蔑みの視線しか向けなかった奴が、俺の見た目が変わったからと掌を返してくる。

 こんなことに納得出来るはずもない。


「風間くん、手紙読んで」


 右隣の女子学生が声をひそめた。


「そっとしておいてくれ。

 仮にお前を抱いたとしても、俺は明日を約束出来ぬ男なのだ」


 と声をひそめつつ、流し目加減の眼差しを送る。

 女子学生はそのまま、机の上に突っ伏して動かなくなった。どうやら失神したようだ。


 俺のこの状況は左斜め前方に座る高梨に比べたらマシな方だ。

 常に薔薇を咥えた薔薇の貴公子と化した高梨には、ひっきりなしに“手紙”が届く。

 しかし高梨は冷酷無比であった。その手紙を開きもせずに破き、机の横に吊るしたコンビニ袋へ捨てるのだ。

 その度に女学生のすすり泣く声が聞こえてくる。


「勿体無い…」


 と声が聞こえた。

 栗栖だ。栗栖は高梨の斜め後ろの席であり、さっきからその様子をつぶさに見ていたのである。


「高梨くんよりも僕にした方がいいって。僕なら君の気持ちを受け止めるよ」


 栗栖はすすり泣く女学生に向かって言った。


「え?あんたみたいな不細工なんて無理」


 すすり泣いていたはずの女学生は一瞬にして泣き止み、毅然とした態度で言い放った。


「人は見た目じゃないよ!性格だよ!

 僕はこんなに性格がいいのに」


 と栗栖が言ったその刹那、白い光芒が流星の如く宙を走り、一直線に栗栖の額に炸裂する。


「痛いっ」


 栗栖は反射的に額を手で押さえる。


「栗栖っ!私語を慎め!」


 児玉の怒号が教室に響き渡った。


 この世界は栗栖のものと思われる。

 だったら何故に栗栖はかつての姿のままなのか。俺や高梨のように美男子に変貌した方がよいと思うのだが…



「やはり、ここに来たか」


 背後からの突然の一言に、俺の身体は驚きで強張った。


 振り返るとそこには榎本がいた。

 高校生には見えない中年男が青々とした坊主頭でサングラス、さらに袖の無い黒の学ラン姿は滑稽さと異様さのマリアージュだ。

 

「私はあの日、早々に退いた……

 その後の顛末は、耳にしているよ」


 ここは入間川高校の屋上だ。

 榎本が言った“あの日”とは、かつて入間川高校が黒薔薇党によって占拠された日のことであり、人間爆弾にされた栗栖は屋上、この場で爆破されたのであった。

“早々に退いた”とは、栗栖が爆破された後、榎本は一足先に逃げようとした途中、校門前で地雷を踏んでさよならしたことである。



「確かその辺りだったな」


 榎本がそう言いつつ、指差したのはちょうど栗栖が爆破された場であった。


「あぁ。爆破された跡なんてあるわけがない。

 今、俺たちがいるのは高校一年の十月、占拠されたのは高校三年の五月、これから先の話だからな」


 未来の出来事と知っていても確認せずにいられなかったのだ。


「放課後、校内を散歩してみないか?」


 榎本のサングラスが陽の光を反射して一瞬、光った。


「榎本さん、それも悪くないな」


「俺たちも行くぜ」


 俺の一言の後、誰かがそう付け足した。

 その声は屋上出入り口の方から聞こえた。視線を送るとそこには森本と高梨、堀込、パリスがいた。


「ちなみに旧校舎は市の施設になっているよ」


 高梨がそう言いつつ、かつて入間川高校の旧校舎があった方を指差していた。

 現在の入間川高校と通りを挟んだ隣接地に、入間川高校の旧校舎があったのである。

 黒薔薇党に占拠、封鎖された日、高梨は旧校舎のプール近くの地下道を使い、現校舎の地下一階ボイラー室へと潜入した、という話であった。

 この世界が本当の過去だとしたら、今も旧校舎は存在しているはずなのに、明らかに違う建物が立っている。

 高梨の言う、その市の施設とやらも昨日今日建てられた物ではないようだ。それなりに年数が経っている雰囲気がある。


「全く、都合のいいように物があったり、消えたりしやがって…」


「風間の言うことはごもっともだ。

 しかし、それがこの世界なのだよ」


 俺の一言に榎本はいつもの某大尉を意識した喋りで返した。



 放課後、俺たちは校舎のあちこちを巡った。因縁のある場所も、何もない場所も、時間をかけて見て回った。

 やはりどこも変わった場所は無い。それもそうだ、“事件”が起きる前だからな。無いのが当たり前であろう。

 そうとわかっていても、俺には一番確認したい場所があった。

 それは地下一階の給食室奥のボイラー室、さらにその先にある旧校舎のプール横へ繋がっているとされた地下道だ。

 給食室には職員がいるもしれない、ということで後回しにしていた。



 陽が沈み始めた頃、俺たちは校舎の裏手へとたどり着く。

 そこには下り坂、スロープがあり、それを下ると地下一階の給食室へと繋がる。

 そのスロープの上に着き、見下ろすと給食室の搬入口が見えた。

 俺はあの日のことを思い出す。

 最後に残った俺と高梨、パリスは、給食室奥のボイラー室から、旧校舎へ繋がる地下道を使って脱出しようとしていた。

 その最中、高梨が押す車椅子に乗ってスロープを下りている時、俺は思いきり車椅子ごと転んだのであった。



「詩郎、あの時はごめん」


 高梨は咥えていた薔薇を片手に頭を下げた。

 高梨も同じことを思い出していたようだ。


「終わったことだ。気にするな」


 と言いつつ、俺はなだらかなスロープを下り始めた。



 スロープを下りると、そこはトラック等も停められる搬入口だ。

 搬入口周辺は大きな扉があり、そのガラス窓越しに給食室が見える。中の灯りは消されていることから、この周辺一帯は薄闇に包まれていた。厨房職員らは全員、退勤しているようだ。


「流石にこの時間には全員帰っているよな。よし」


 と森本が言い掛けたその刹那、搬入口周辺の明かりが一斉に灯される。

 不意の点灯に驚き、思わず掌で光を遮る。


「ここは関係者以外、立ち入り禁止だ」


 搬入口付近から男の声が聞こえた。落ち着きのある渋い声…


 牛浜だ!


 牛浜は搬入口付近の電灯のスイッチがある場所にいた。


「不味い…」


 誰かが声をひそめた。



「何の用があってここに来た?」


 牛浜の声が辺りに響いた。


「先生。以前より、ここに何があるのか……興味を抱いておりまして」


 牛浜からの問い掛けに榎本が即答した。


「ここは給食室だ」


 牛浜も即答した。


「そうでしたか。

 みんな、ここは給食室だそうだ。陽も暮れてきた事だし、ここで解散としよう」


「そうだな」


 皆、榎本の話に同意しつつ、スロープを引き返すことにした。

 俺たちは先日のサイパンで丸坊主にされたからな。誰も牛浜を出し抜いてでも…、という考えは無い。

 しかし、緩やかな傾斜だとしても、来てすぐ上り坂を戻るのか…

 かつて豚だった頃のように、歩いていると膝が痛くなる、ということは無いのだが、やはりその頃の感覚は抜けないものだ。

 坂を見ただけで、とくに上り坂を見ると膝が痛くなってきそうである。上り坂は勘弁してくれ。

 何故、ここに牛浜がいるのか。

 これは少々、都合良過ぎやしないか…

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