落車したら異世界だった件
やまだたろすけ
プロローグ
自宅から自転車で出発したのが十三時
ふもとのピザ屋でランチを食べて店から出たのが十四時五分
そこから山まで行ってオフロードに入ったのが十四時三十分
下から上まで登り切ったのが十四時五十五分
トレイルを下り始めたのが十五時ちょうど
これがぼくの本日のタイムラインだ。季節は晩春、行楽やアウトドアに絶好のシーズンだ。しかし、そろそろ地獄の真夏さまの気配がちらつき始めるころでもある。年々、春の女神の命が短くなって、ぼくらを悲しませる。
からっとした欧州の夏はロードレースのシーズンだが、じめっとした日本の夏はただの釜茹で地獄だ。もはや外に出るのが命がけだ。
熟練の道楽者はこれを見越して、梅雨と真夏の休みを前借りし、生き急ぐようにせかせか遊びに行く。個人的に四月と五月はバカンス月間だ。これを逃すと十月までまともに遊べない。
というわけで、快適な本日は週に四度の休日の内の週に三度のサイクリングの日で、その三度のサイクリングの日の内の週に一度のトレイルライドの日だ。ゆえに今日の外遊びの相棒はサスペンション付きのごっついマウンテンバイクと相成った。
トレイルのコンディションは最高だった。路面はドライ、気温はノーマル、人影はゼロで、まさにマウンテンバイクびよりだ。ちなみに、場所はうちから小一時間の里山の古道で、近隣では有名な山遊びのスポットだ。マウンテンバイカー、トレイルランナー、ハイカーでここを知らぬ者はいない。土日祝は非常に混む。平日の午後が狙い目だ。
「貸し切りだな。ずっとおれのターン! ははははは!」
無人の山中では戯れ言や高笑いが非常に捗る。アドレナリンとド-パミンとエンドルフィンのたまものだ。おのずとライダーの状態はハイやゾーンやフローに近くなる。この感覚はほかのスポーツやアクティビティにはちょっとない。
ルートの序盤のハードな岩と木の区間はノーミス、ノーダメージで終わった。ぼくはちょっと調子づいて、ブレーキをやや甘くした。これはこのビビりの小心者には珍しいアクションだった。
この直後の一直線のフラットな快速区間のおわりに左曲がりの大きなカーブが現れた。正面は崖だ。かたわらの木の幹のピンク色のテープがやけに目立つ。このド派手な『ピンテ』は里山には定番の目印で、案内や注目や警告の意を表す。その他に柵や手すりやロープやガードレールなどの親切な保護はない。コースアウトは急斜面への直滑降、命がけのダイブである。しかし、まだ肝試しの時期ではない。
一直線をスムーズにだっーと駆け抜けたぼくと車体が人馬一体となって、ぐぐっと曲がりのモーションに入ったまさにそのとき、ピンテの反対側の右手の茂みがごそっと動いた。
「鹿?」
鹿のような獣がちらっと見えたように思った。が、気配はすっと遠のいて、草葉の陰に消えた。
そして、一瞬の脇見の合間にぼくとチャリは虚空へ仲良くコースアウトした。
「やばい、あー」
咄嗟の意識はそんなものだった。と、風景がゆっくりになって、視界が狭まり、地表の一角だけがやけにくっきり鮮明に見えた。これはかの有名な走馬灯タイムだった。つまり、我が本能と肉体は茫然自失の精神を置き去りにして、致命的な危機を無意識に感知した。
ぼくがすごいプロのライダーであったなら、この瞬間に自転車を放り投げたろう。着地をミスして車体に巻き込まれるのが最も危険だ。極論、金属のパーツより土砂の地面の方がフレンドリーである。
が、ぼくはただの素人だった。何かすごい特別なテクニック的なものはこの機に発動しなかった。この身は無情なる重力に引かれ、慣性のままにひゅーんと落ちた。
無意識の脱力が功を奏したか、渦中の愛機が謎の自我に目覚めたか、奇跡的に前後のホイールが同時にがっと接地した。サスペンションがぐうんと沈み、かっちかちのハンドルが胸元に迫る。が、言葉のとおりの間一髪でみぞおちは痛打を免れた。
「やった!」
しかし、これは典型的な一機死亡フラグだった。マウンテンバイクの機械的サスペンションはうまく機能したが、ぼくの膝という生身のぽんこつサスペンションは着地の衝撃をいなし切れなかった。直後、サドルが股間を痛烈に突き上げた。
視界がバグって、意識が飛んで、ぼくは死んだ。
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