飛び込むなら俺の胸にしろ

カネコ撫子@推し愛発売中

第1話


 これは、俺が幸せになる話である。


 今日は12月20日。クリスマスを控えた街並みは、少し浮ついている。


 俺も例に漏れず、いつになく落ち着かない心をしずめるように無料の水を口に運ぶ。『おやください』と店員を呼ぶことすら躊躇ちゅうちょする洒落たイタリアンレストラン。仕事帰りで汗ばんだスーツ。駅のトイレで消臭剤を振りまいて来たから問題はないだろう。

 あくまでも自然体で――。俺がさりげなく聞き出した限り、それが彼女の理想だった。ここでバチッとキメると、普段の俺ではないのだ。ただいつも通り過ぎても問題。それだったら居酒屋で言う羽目になる。俺はこういうレストランに行くようなタイプではないが、今日は彼女の誕生日。さほど違和感はない。

 加藤聖夏かとうせいか。2年付き合っている年下彼女だ。そして――今日俺がプロポーズをするたった一人の相手でもある。惚気のろけではないが、かなり美人だと思う。

 きっかけは同期との飲み会中にナンパした。半年間のお友達期間を経て交際に発展した。彼女自身、付き合った当初はバリバリのキャリアウーマンで、彼氏とか結婚願望があるタイプではなかった。

 だが最近になって『結婚も悪くないかもね』なんて言葉をよく聞くようになった。1歳下だが俺よりもしっかり者で、正直一人でも生きていけるような強い人間。ごく普通のサラリーマンでしかない俺が釣り合うとは思えないが、聖夏と居る時は心が落ち着いた。ずっと一緒に居たいと思った。だからプロポーズをする。ただそれだけの話だ。


「シュンちゃんごめん、遅くなっちゃって」


 頬杖をついて窓の外を眺めていると、聞き慣れた声が耳を抜けた。視線を移すと、スーツ姿の彼女が顔の前で両手を合わせている。いつも以上に申し訳なさそうな表情に、思わず頬が緩んだ。仕事で遅れると連絡をもらっていたから、別に驚くこともなかった。そんな気にしないで良いのに。


「良いって良いって。仕事、忙しいんでしょ?」

「うん、まあね……」


 聖夏は何故か申し訳なさそうに返答する。

 俺が店員にコース開始の合図を送ると、精悍せいかんな顔をした店員が飲み物を聞きにやって来た。俺が赤ワインを頼むと、聖夏は水を注文した。いつもなら俺と同じように酒を飲むのに。


「酒飲まないんだ?」

「うん、今日は……」


 素っ気ない態度だ。いつもと何かが違う。「どうかしたのか」と俺が問いかけると、彼女は目線を合わせず口を開く。


「なんか、いつもと雰囲気違うね。今日なんかあったっけ?」


 それはこっちのセリフである。少なくとも去年の誕生日は楽しみに待ってくれていたのに。だが聖夏のあまりにも素直な表情に、俺は何と言えば良いのか分からなかった。

 彼女は真面目な性格で、どちらかと言えば融通が利かないタイプ。自身の誕生日を忘れるようなは今までしたことがない。


「何って、今日は聖夏の誕生日だろ? お祝いに決まってるじゃん」


 素直に指摘すると、彼女は大きく開けた口を右手で塞いだ。素直に驚いているようだった。


「あ、そっか……忘れてたよ……」

「おいおい本当働き過ぎじゃないか? マジで倒れないか心配なんだけど」

「ううん。大丈夫だよ。気にしないで」


 苦笑い。よそよそしい。この

 ここまで数分の会話で、俺は頭を抱えることになった。俺は知っている。こういう時の聖夏は、何か後ろめたいことがあるか、俺に隠し事があるか、俺に言いたいことがある。いずれにしても良い方向に転がるとは思えなかった。

 今からプロポーズをしようというのに、どうしてこんなテンションが低いのか。何というか、プロポーズっていうのは、お互いの気持ちが盛り上がっていることが前提に存在する事象ではないのか。これではまるで、俺一人が勝手に盛り上がっているだけではないか。


「……なんかあった?」


 とりあえず、今の雰囲気では想いを伝えることはできない。プロポーズのことは一旦忘れて、いつも通りのデートだと考えよう。

 聖夏はいまだに俺の目を見ない。空の皿と添えられているフォークとナイフを虚ろな目で見つめている。


「シュンちゃん」


 かと思えば、その大きな瞳を上げて俺のくすんだ目を見つめてくる。

 かつてのような輝きはそこに無かった。


「お、おう」

「……その」

「うん」

「あのねっ……えっと……」

「……どうしたのさ」


 あぁ、きっと良くないことなんだろうな。俺の直感がそう言う。普段はこんな言いよどむことはない。2年間付き合ってきて、初めて見せる姿だった。

 タイミング悪く、前菜と飲み物が運ばれてくる。本当なら真っ先に乾杯したかったが、そういうわけにもいかなかった。申し訳なさそうに前菜を見つめながら、意を決したように聖夏は顔を上げた。


「私と別れて欲しいの」


 刹那。店内に誕生日を祝うメロディーが流れる。厨房から記念プレートを持ってきた男性店員は、俺の横を通り過ぎて一つ後ろの席にそれを置く。女性の嬉しそうな声が背中越しに聞こえてくる。

 聖夏は正反対の表情で俺を見ていた。俺が告白したときは、あんなに照れていたのに。今は無情なほどに真っ直ぐ俺の瞳を捉えている。


「別れ……って、はっ? ちょ、ちょっと待ってよ」

「ごめん。本当にごめん」


 彼女はただ頭を下げる。悩み事の相談程度にしか考えていなかった俺にとって、それはまさに急転直下の発言でしかなかった。

 動揺のせいで目線が泳ぐ。聖夏の目もそうだが、彼女自身に視線をやることすら狼狽うろたえてしまう。その発言を飲み込むことができずにいると、聖夏が口を開く。


「私、海外に行こうと思うの」

「海外って……仕事で?」

「大手の取引先から『アメリカで働いてみないか』って誘われたんだ。だから――」

「転職してアメリカに……?」


 聖夏はうなずく。理由は分かったが、その世界に俺という存在は居ないのだろうか。居てはダメなのだろうか。俺は今日、君と一緒に人生を歩もうと覚悟を決めていたのに、一緒に居てはダメなのだろうか。


「お、俺は……今日、聖夏に」


 スーツのポケットに忍ばせた婚約指輪を入れたケースに手を伸ばす。何度も何度も入れ忘れていないか確認したのに、どうしてこんなにもむなしくなるのだろう。

 何度も何度もイメージトレーニングしたのに、セリフは噛まないように頭の中で復唱しまくったのに、その舞台に上がることすら許してもらえないのか、俺は。


「ごめん。シュンちゃんの想いには応えられない」

「ま、待ってくれよ。別に別れる必要はないだろ? 俺は遠距離でも――」


 聖夏は食い気味に首を横に振る。


「今のところ、日本に戻る気はないの。待ってくれるのは――正直重い」

「せ、聖夏……」

「ずっと夢だったの。海外で仕事をすることが」

「だ、だとしても!」


 俺が少しだけ語気を強めると、彼女の冷静な視線が胸を突き刺す。冷たくて底が見えない感情の目。ケンカしたときの目だ。


「シュンちゃん。私はシュンちゃんより自分の夢を優先させた女だよ。あなたのことよりも、自分を選んだの。そんな良い女じゃないよ」


 彼女の声は本当に落ち着いていた。いや、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。

 冷静に考えれば、実に聖夏らしい決断だった。仕事をバリバリやることに生きがいを抱いていて、恋人との時間はそれなりにあれば十分だった人。その一緒に過ごした時間は嘘ではないが、感じたことは正反対だったわけで。

 俺は婚約指輪のケースを取り出して、彼女の目の前で開く。


「俺は……結婚したい。聖夏はそれだけ良い女だ」


 聖夏は少しだけ驚いていたが、すぐに冷静な表情に戻った。


「ごめん」


 これは、俺が幸せになる話――だったのに。

 するりするりと、手元からすり抜けた。俺の手が届かないところまで。

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