未練

ゆき

出会い

 照明が落とされ、窓から入る夕日のみに照らされる教室で、怜だけがただ一人机に座っていた。静まり返った教室とは裏腹に廊下の先からは吹奏楽部が奏でる楽器の音が、窓の外からは運動部の叫ぶ大きな声が聞こえる。彼ら彼女らと声をともにしていた中学生のころが懐かしく、今では遠く過去のものとなってしまった。


 幼稚園に通っていた時は私もみんなと同じようにお花屋さんになりたいとか、そんな普通の夢を言っていたのに。いつの日からか、私はお母さんの言う通りの人生しか歩めなくなってしまった。勉強をするために部活には入らないでおきなさいと言われれば入らないし、医者を目指しなさいと言われれば目指す。



 こんな人生、生きていても意味がない。



 椅子が床に擦られる音が教室に響く。怜は机に掛かる鞄をとり、教室を出た。薄暗く、しんとした廊下に怜の足音だけが重くこだます。その足取りに迷いはなくまっすぐと階段へと向かい、屋上に上っていく。


 目の前に立ち入り禁止と書かれた扉が現れた。さすがに鍵がかかっているか。諦め半分でドアノブを回すと冷たい風が怜の頬を撫でた。橙色に染まった空が怜を包みこむ。

 屋上は四方を低い壁によっておおわれていた。近づくとその壁は高さがちょうど怜の胸あたりまであり、奥行きは足一つ分あるようだ。壁の上に遺書と靴を並べるのも良いけれど遺書を出す前に誤って落ちてしまったらいけない。


 怜は鞄から「遺書」と書いた封筒を取り出して床に置き、履いていた靴で抑える。足裏がコンクリートによって冷やされていくのを感じつつ壁に手を乗せ、ぐっと力を籠める。コンクリートから足が離れ、冷たい風が怜の足裏をくすぐった。

 下を覗き込むと中庭の木がさわさわと揺れているのが見える。今から死ぬ私を見送っているのだろうか。木の周りは薄暗く、まるで死後の世界のようだ。


 今行くよ。


 壁によじ登ろうと足をあげる……。が、怜の足はいまだぶらんと壁に沿って揺れている。確かに今、脳に向かって足をあげるように指示を出したのに。


 おかしい。どうして。


 数秒後、怜の足はコンクリートに戻っていた。何度かリベンジしたが結局、手がしびれてきて力が抜けた。私は命を絶つことすらも自分で選択できないのか。怜は地面にへたり込んだ。


 視界がぼやけ、頬を水が伝う。死にたいのにどうして死なせてくれないの。疑問だけが頭の中を交錯していたとき、ふと後ろからまだ若い男の子の声が聞こえてきた。


「死ぬのはこわいよね」

 振り返るがそこにはさっき開けた扉があるだけで誰もいない。気のせいだったのだろうか。左右を見ても、一面に広がる夕焼けがあるだけだ。あたりを見渡していると再び声をかけられる。


「ここだよ」

 声が聞こえた方、上の方を見ると学生服を着た男の子がいた。緑色のスリッパをはいているところを見るに同級生だろう。ただ、見たことのない顔で誰なのかは検討もつかない。


「君はすごいね。自分で死を選べて。僕はまだそれもできない」

 男の子はそう言って怜のもとへと降りてきた。背は同年代の男子に比べて低く、怜と同じか、それ以下。日焼けを全くしていない所を見るに文化部か帰宅部といったところだろうか。人が死のうとしたところを目撃した人とは思えないくらい能天気ににこにこと明るい表情を向けてくる。


「でもよかった。この世に未練があっても死を選ぶことはできるんだね」

「どういうこと」

「そのままの意味だよ。君は死を選んだ。でも死ねなかった。それはきっと、まだこの世に未練を残してしまっているからだって僕は思うんだよ」

 とまどい何も言えない怜を良いことに、男の子は続ける。


「僕と協力しない?」

「何を」

「未練をいっしょに失くしていこう」

 男の子は満足したように怜に背を向けると扉の向こうに片足を踏み込む。今にも出ていってしまいそうだ。 


「じゃあまた明日のお昼に集合ね」

「待ってよ」

「もう最終下校の時間だよ。君も早く出た方が良いよ。」

 言い終わるとともに扉がガチャンと音を鳴らす。男の子が言ったように校舎からチャイムの音が鳴り始める。怜は急いで靴で汚れた遺書を鞄にしまい、屋上を後にした。

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