5
思い出した。すべて、思い出してしまった。
姉が死ぬ前日、つまり卒業式の日の夜の出来事は、僕の中では完全に黒歴史。思い出したくないトラウマになっていたのだ。
その諸悪の根源である姉が、命を絶った。そして僕は死体を見つけた。首をつり、ゆらゆらと揺れている、命を喪った肉塊を見た瞬間、僕はすべてを忘れたのだ。
「紡。紡? 大丈夫なの?」
僕が倒れたため、大輔は部屋の探索を中止して、僕の部屋のベッドへと運び入れてくれていた。そして母と渚にも知らせ、ずっとついていてくれたんだろう。母の目には涙が浮かんでいる。
「うん、大丈夫……」
余計な心配をかけてしまった。記憶喪失の僕に、姉の死を悟られないように暮らす毎日は、どれほど神経をすり減らすものだっただろう。想像に難くない。
「ねぇ、母さん」
なめらかに声が出た。何もかも、わかった。あの黒く染まった糸を見た瞬間に、答えは出た。
「姉さんの遺書みたいなものって、ある?」
気絶していた息子から、いきなり思いもよらないことを言われた母は、目を見開いていた。
「思い出したの……?」
かすかにうなずいた。思い出したとはいっても、死体を見つけたときのことだとか、葬儀のときのことについては、まだ実感が伴わない。
鮮明によみがえったのは、死の前日、狂ったように僕を求める姉の姿だ。
母は涙を拭い、部屋を出て行った。それからすぐに戻ってくると、一通の封筒を差し出した。中にはノートを千切った紙がぺらりと入っている。
姉の性格上、こんな風に折りたたんで封筒に入れるなんて、しない。ノートの切れ端っていう時点で、大切に残そうとした言葉じゃない。封筒は、母が保管する際に用意したものに違いなかった。
姉の字は、およそ女性らしくないものだった。角張っていて、大きくて、しかもお世辞にも整っているとは言いがたい。神経質なのか大雑把なのか、とめやはねの部分は教科書どおりなのに、勢いよく筆記するものだから、自然と続け字になっている。
彼女の遺書は、短いものだった。しかも、一見するとよくわからない。
普通なら、自分が受けた苦痛を叫ぶ。あるいは、生きている家族へのメッセージを書く。
しかし、姉の遺書は短く、不可解なものだった。
『忘れないで。私はあなたのもの、あなたは私のもの』
とだけ。自分の名前すら書いていない。
恋の恨み言らしき念が込められている手紙だったが、親には「あなた」が誰なのかを把握することはできなかっただろう。恋人らしい人間どころか、友人ですらほとんどゼロ人に近かった。
悪夢を思い出した僕には、わかる。
これは僕への、文字通り命を賭けたラブレターだ。死は、不変で永遠。拒絶した次の日に自死することで、僕に罪悪感を植えつけるとともに、僕の中の姉を永久に保とうとした。
それを彼女は、究極の愛とでも言うつもりか。
ふつふつと、僕の中に怒りがマグマのように湧いてきた。立ち上がり、出かけようとする僕を、母だけじゃなく、大輔や渚も押しとどめた。
「お前が行こうとしてる場所は、わかってる。でも今日は、もうやめとけ」
物理で止めるために、僕をヘッドロックした大輔が、囁いてきた。彼もあの糸は、「えん」で買ったものだということに気づいている。
早くしなくちゃいけないのに。僕がすべてを思い出したことに、呪わしき存在となった姉は、気づいているはずだ。
「あなたにまで何かあったら、お母さんどうしたらいいの……」
渚に肩を抱かれ、さめざめと泣く母親を見て、力を抜いた。僕は抵抗することなく、ベッドに再び身体を横たえた。
「大輔さん。明日、付き合ってくれる?」
出て行く直前に声をかけると、大輔は、「乗りかかった船だ」と、気安く請け負ってくれた。
その笑顔は、少し硬いものだったけれど。
翌日の午前中、親と交渉して休みをもぎ取ってきた大輔と合流して、糸屋へと向かった。嗅ぎつけたのか、大輔から聞いたのか、渚も一緒である。
気分のいい話ではない。大輔は僕の隠し撮り写真フォルダを一緒に見ているから、薄々姉の歪んだ愛情に気づいているだろうが、渚には何も話していない。
だからついてこなくても平気だと言ったのだが、頑として彼女は許さなかった。
「あの女の店でしょう? 一緒に行くに決まってるじゃない」
ちらちらと大輔を見ながら言うので、ああ、そうか、恋敵の店に行かせるわけにはいかないよな、と納得した。同行者は、こんな風に頼りない僕だし。
「もちろん、あんたのことが心配なのもホント。もしもあの女が何かしてきたら、大輔じゃ頼りにならないかもしれないし」
糸子は特に何もしないと思う。これは予想ではなく、確信のレベルで。
あの人はいつだって、篤久のときも美空や美希のときも、遠藤のときだって、何かが起きることを予想しているくせに、何の手立てもうたなかった。
糸屋は今日も、ひっそりとしていた。太陽も昇りきらないうちから気温ばかり上昇していく外界とは隔絶された雰囲気に、僕たちは圧倒される。
「開けます」
無言で頷くふたりに勇気をもらい、僕は店の中へと入った。
「いらっしゃいませ」
凜と響く、涼やかな声。カウンターの中で座っている彼女は、僕の顔を見ると同時に、文庫本を閉じた。それから引き出しを開け、先日篤久の件のときに借りた、糸切りばさみを取り出した。
「きゃっ」
突然刃物が出てきたため、渚が小さく悲鳴を上げた。大輔が「大丈夫だ」と囁き、「これでしょう?」と、持ってきた糸の塊を、カウンターに放り投げた。
大輔は、この糸を僕の傍に置いておくことは危険だと直感し、自宅へと持ち帰ってくれていた。一日ぶりに見た糸玉は、昨日よりも黒さを増している気がする。
糸子は凄まじい集中力で、絡まった糸をはさみと指を使ってほどいていく。ブチブチとすべて、力任せに切ってしまえばいいのにと思ったけれど、彼女なりの思惑があるのだろう。黙って見守った。
五分くらい経っただろうか。彼女は糸をほどききった。そして中から出てきたものを、僕たちに見せる。人の形をかたどった板だ。胴体の部分には、姉の特徴的な字が書かれている。
『切原紡 平成××年十月三日生』
ぶわり、と肌が総毛立つ感覚がしたのは、僕だけではないだろう。ある程度、予想していた僕と大輔ですらそうなのだから、渚が感じている恐怖は、どれほどのものか。
彼女は口元を押さえ、叫び出しそうになるのを必死に我慢している。渚の背を撫でて、大輔は無理はするなと言ったが、気丈にも首を横に振っている。
「あたしだって、ちゃんと見届けたいの。何ができるわけでもないけれど」
その気持ちだけで、じゅうぶん僕は救われるし、ありがたいと思う。
感謝の気持ちはすべてが解決してから伝えるとして、僕は糸子に向き合った。
「これは、どういう意味があるものですか?」
彼女は小首を傾げる。
「さぁ……私はまじないを自分で執り行うわけではないから」
大輔が怒った様子で、カウンターを拳で殴った。
「無責任だな、あんた。自分とこの商品だろうが。この黒い糸も」
一目惚れした相手に対するものとは思えない、強い口調だった。一緒に店についてきてほしいと、へたれたことを言っていた男と同一人物とは思えない。
糸子は首を横に振る。
「人の縁に、自ら介入することはないわ。私は見るだけ。求められれば、その限りではないけれど」
「絶対に、ですか?」
彼女は肯定して、僕をじっと見つめた。
「……私は、黒い糸を売ることは、決してない」
「姉に……僕と同じ切原の名前を持つ女性に、赤い糸を売ったことは?」
さぁ、と彼女は言った。客が少ない店とはいえ、都市伝説目当てで若い女性客は、時折糸屋を訪れる。
その中に姉がいたことは間違いないだろうが、彼女が覚えていないのは、本当のことだろう。そもそも、客にいちいち名前を聞いたりはしない。
もしも、糸子が姉の名前を尋ねていたとしたら、運命はまた、別の方向へと巡っていたのかもしれない。
切原結。僕と同じ、切って結ぶ、相反する言葉が使われた名前に、糸子は縁を感じただろうか。
糸子は、僕の名前と生年月日が書かれた人形を預かった。燃やしておいてくれるという。
まじないをしないとは言ったが、対処法を知らないわけではない。呪物は火か水で浄化するのがセオリーらしい。
それから糸切りばさみを僕に手渡した。
「私ができるのは、糸を売ることだけ。これ以上は、あなたに絡む黒い糸をどうしようもない。だから」
戦いなさい。自分で断ち切りなさい。
渚は「そんなもので……」と、小声で不信の声を上げた。大輔が制止する。彼は篤久の一件に立ち会っているから、この糸切りの効果を知っている。
ただ、自分で扱ったわけではないから、これは知らないだろう。
このはさみは、本当にただの糸切りはさみなのだ。素材や作りは段違いによいものだが、金を出せば、誰だって買えるものだ。魔法の道具なんかじゃない。
物理の糸だけではなく、執着心を表す見えない糸すら切れるのは、使う人間の心次第なのだ。糸子がずっと言っているように、赤い糸を買ったからといって、人は意中の人間と結ばれるわけではない。
別に家にあるものを使ったところで構いはしないのだろうが、彼女から手渡されることによって、糸子の念も、ここには籠められている。
僕は、自分自身に絡みつく黒い糸を、姉の妄執の糸を、断ち切らなければならないのだ。
決意をみなぎらせ、僕は勝手知ったる店内から、白い糸の束を取った。
「これ、ください」
赤い糸は縁結び。白い糸は縁切りに。美しい黒絹糸の髪を持つ女店主は、声を高らかに宣言する。
「ごえんのお返しでございます」
と。
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