8
聡子は逮捕され、篤久も、学校と警察の両方から事情を聞かれた。
刃傷沙汰を起こした聡子はもちろん悪いが、それを誘発したのは、篤久の複数人相手の異性交遊であることは、明らかだった。
生徒同士の事件に発展していた可能性も高く、実際、裏では陰湿な嫌がらせを相互に行っている女子がいたことが、調査によって発覚した。
そうまでして執着していた篤久に対して、だが、女子生徒たちは、まるで憑き物が落ちたかのように、すっかり興味を失ってしまった。
美希は、
「よく見れば、惚れる要素なんてどこにもなかった」
と、首を傾げていた。
青山たちは「だから言っただろ」と自信を取り戻し、遠藤は、今回の事件で英雄になったとは思えない、控えめな態度で、うっすら微笑んでいた。
篤久への恋心を失ってしまったのは聡子も同様で、「なぜこんなことをしでかしたのかわからない」と、涙ながらに訴えているらしい。
赤い糸の効力は、消え失せた。篤久が懲りた瞬間に、ぶつりと切れてしまったのかもしれない。
僕は、久しぶりに親友……篤久の家を訪れた。
呼び鈴を押すと、心労が祟り、この数日間ですっかりやつれてしまった、彼の母親が出てくる。
「紡くん……」
元凶の篤久を、学校側は被害者としてだけではなく、加害者としても扱った。休学ではなく、無期限の停学処分を下した。
涙を目に浮かべて、疲れ果てた母親に、僕はなんと言葉をかけていいのかわからなかった。
「よくお見舞いに来てくれたわね……」
自ら進んで、篤久に会いに来ようとする人間は、いない。
もともとは明るい息子だった篤久を、どう扱っていいのかわかりかねている様子で、彼女は僕を彼の部屋に誘導した。
扉を開けずとも、その奥に潜む不穏な空気は感じられた。この場からUターンして、逃げ帰ってしまいたい気持ちに駆られる。
けれど僕には、篤久のことを見届けなくてはならないという、意地があるのだ。
赤い糸のことは、僕しか知らない。もしもまだ彼が囚われているのならば、説得できるのは、僕しかいないのだ。
篤久の母が両手を祈るように組んで見守る中、僕は意を決して、扉を開ける。
「うっ」
思わず、息を詰めた。
破ったノートや適当に保管してあったプリント類が、散乱している。
ただ散らかっているだけじゃなく、赤で塗られている。ボールペンにサインペン、昔使っていた絵の具。いろんな赤で染まる中、インクがすべてなくなってしまったのだろう。
篤久は、親指を食いちぎっていた。おまじないを隠すために巻いていた包帯が、血で赤く染まる。
それはまるで、太い一本の赤い糸のようで。
「こ、この赤い糸があれば、もっとうまくやれる……」
引きこもった息子が、こんな調子になっていたことに気づかなかった母親は、惨憺たる状況に、気を失った。僕は彼女の身体をどうにか支え、ゆっくりと床に下ろした。
それから、篤久に近づく。僕の存在など気づかないように、篤久は血染めの包帯を指に巻いていく。糸屋で購入した赤い糸は、すでに彼の指の根元にきつく食い込んで、鬱血してしまっている。
「これは、美希ちゃん。これは、
関係したすべての女子の名前をブツブツと呟く篤久は、正気ではない。
僕にできることは、二人を乗せるための救急車を呼ぶことだけだった。
篤久はそのまま入院した。母の方は、数日ですぐに出てこられたが、彼はいつになったら退院できることか、わからない。身体も心もボロボロになった親友を、僕は直視できなかった。
美希との縁がつながった段階で、やめておけば幸福だったのに。二兎を追うものは一兎も、とはよく言うが、彼は実際、何人の女性を狙っていたのか。僕もすべてを聞いたわけじゃない。
篤久が悪いのは、重々承知している。それでも大切な親友の、あんな姿は見たくなかった。哀れだった。
だから、その怒りは本人ではなく、別へと向かう。
僕は初めて、ひとりで店の扉に手をかけた。前回までは、篤久と一緒にくぐった、古い店だ。
「いらっしゃいませ」
全国区のニュースにも取り上げられるほどの大事件だった。細められた目は、何も見ていないようで、実はすべてを見透かしている。
高校で起きた事件の当事者が、自分の店で糸を買っていった少年であることを、彼女は知っているはず。
なのに、その連れであった僕がひとりで姿を現しても、店主は一切、顔色を変えなかった。含んだような微笑で、歓迎の意を一応表すと、それっきり黙って、カウンターの中で座って、刺繍をしている。依然と同じ、白い布に白い糸で。
僕は衝動のまま、カウンターに乱暴に手をついた。
けっこうな音がしたが、彼女は動じなかった。針仕事を止めて、僕を見上げる。
目が合った。黒目がちな、不思議な瞳。普通に見える範囲を超越しているかのような、その光彩に吸い込まれそうになる。凝視してくる彼女に圧倒されそうになりつつも、僕はなんとか、篤久のことを話した。
「あなたが売った赤い糸のせいで、僕の友人は大変な目に遭った。身体の傷だけじゃない。精神を病んで、今も入院している」
言ったところで、彼女は医者ではない。ただ糸を売る店の主人だというだけの存在だ。責任を取ることができるわけではない。
それでも、謝罪だけは。
変な噂のある糸を、何の注意もなく売りつけたことだけは、謝ってほしかった。
もしも彼女が最初から篤久に、複数人相手には使ってはいけないと忠告していれば、今のこの状況には、陥っていなかったはずだから。
僕の剣幕に、店主は涼しい顔を崩さなかった。それどころか、「それで?」と、謝る気は毛頭ないことがわかる。
「それで……って、責任とか、感じないんですか?」
女は恐ろしい。包丁を持ち出した聡子や、篤久とのことをなかったことにしている美希から、僕は学んでいた。
「それが、彼の選んだ縁の因果でしょう」
「でも」と言いつのる僕を、彼女は止めた。縫いさしの白い糸を巻きつけた、人差し指をつきつけて。
「あなたの親友のような道をたどる人を出したくないのなら、あなたがここで見張ればいいわ」
人知を超えて美しい女は、ただ微笑んでいるだけで、恐ろしい。
「あなたはここで働くべき。そういう縁に縛られている人」
訳のわからないことを言う女――
僕は反発もできずに、頷いていた。
糸子に逆らえないんじゃない。篤久のためだと、自分に言い聞かせながら。
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