5

 糸屋に行ってから、一週間が経った。

 放課後、僕の近くに寄ってきた篤久は、頭がお花畑状態らしい。ふわふわと夢見心地の目がとろんとしていて、言葉を選ばずに言うと、気持ち悪かった。

 だが、どれほど気味が悪くても、彼は僕の親友だ。

「なぁなぁ、紡」

 と、声をかけてくるが、自分から話をしようとしないのは、「何かあったのか?」と、僕に聞いてもらいたい心理の表れ。

 期待には応えてあげてしまうのが、僕だ。

 溜息交じりに彼の望む言葉を口にすれば、「よくぞ聞いてくれました!」

 喜色満面の笑みを浮かべた篤久は、大声を張り上げかけて、ぴしりと閉ざした。

 そして僕の耳元に、ぐいと顔を接近させる。唇が触れそうで、僕は身震いしてしまった。彼の声量のボリュームつまみは、珍しく正常に機能した。絞って絞って、僕の耳にしか入らない声で、篤久は言った。

「みみみ、美希ちゃんと付き合うことになった!」

 !

 本当に?

 驚きのあまり、言葉を失った僕をよそに、彼は背中をバシバシと叩いてくる。声の調整はできるようになっても、馬鹿力は直らない。息が詰まった。

「この糸、すげえ効果あるぜ! お前も好きな子できたら、買ってみろよ! 一発だ、一発!」

 篤久はいまだに、包帯の下に赤い糸を巻きつけている。ひらひらと見せつけられて、僕は忌々しく彼の指を見つめる。

 僕はそれでも、糸屋にまつわる都市伝説のことなんて、信じられなかった。結局、篤久が美希の前でいい格好ができたのは偶然で、それが自信となってさらに好循環になった、というのが真相だと僕は思っている。

 だが、篤久はそうじゃない。赤い糸を心の底から信じている。

 それは、後日の彼の言動にもよく表れていた。

「なぁ、またあの店行こうぜ」

 一瞬、「あの店」がどこを指すのかわからなかった。よく行くファストフード店なら、そのまま言うだろう。

 そういえば、あの店でアルバイトをしている大学生らしい女の子にも、篤久は「可愛い」と言っていたっけ。スマイルください、と冗談でも言えなかった。

 隣の席の美希にすら、話しかけられないへたれなのだから。

「あの店って……」

「糸屋だよ、糸屋」

 途端に僕は、篤久がなんだか気味の悪い存在に感じられた。手芸趣味に目覚めたわけでもないだろう。

 糸屋に行くということはすなわち、縁結びか縁切りのどちらかを願っているということだ。美希との関係を順調に育んでいる今、必要はない。

 その辺を突っ込んでみると、篤久は鼻で笑った。迫力のある彼にそういう嫌な態度を取られると、余計に腹が立つ。瞬間的に沸騰しそうになったが、とにかく言い分を聞いてやろうと抑えた。

「一巻きだけでこんなに効果があるんだぞ? たくさん買ったら、他の女の子とも仲良くなれるかもしんねぇじゃん?」

 僕が、篤久相手に暴力を振るえるくらいの肉体派なら、最後まで聞いた瞬間に、グーパンチだ。僕が穏健派でひょろひょろモヤシであることに、篤久は感謝した方がいい。

 中学時代、読書感想文を書く以前の問題として、本が読めない! と泣きついてきた彼に、当時流行っていたネット発のライトノベルを勧めたことを、後悔した。

 異世界転生でチートな能力を授かった主人公が、たいした理由もなく可愛い女の子たちに惚れられ、誰かひとりを選ぶことなく全員と関係を結んでしまうハーレムものだった。

 ちなみに僕自身は、冒頭部で挫折している。

 女の子がたくさん出てくる漫画が好きだから、僕好みじゃないけど、篤久には向いていると思ったのだ。

 字も大きかったし、難しい言葉は使われていないが、難読漢字にカタカナで格好いい(?)ふりがながついた技が多用されるライトノベルで、篤久はその性癖を開眼させてしまったのかもしれない。

 赤い糸はチート。能力を手に入れたら次は、女。

 美希ひとりとも、話すのに苦労していた彼は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。

 そして、頼むよ、と何度も言われて、結局糸屋に行ってしまう自分も甘いし、大馬鹿野郎だ。

 放課後、商店街の一角へ。早く早くと背中を叩く篤久をなんとか宥めながら、扉を開けた。

「いらっしゃいませ」

 先日の初来店時と変わらず、この世のものとは思えない儚さで、女店主は立っていた。僕の顔を見て、わずかに目を見開いたかと思うと、彼女はすぐに顔を伏せてしまう。

 なんだろう。嫌な感じ。

 客ではなく付き添いなのは、先日の来店時にわかっているはず。だから、彼女が気にするべきは、糸を買ってくれる篤久の方。

 なのに店主は、僕を見る。じっと、どこを見ているのかわからない、遠い目で。

「店長さん、これください」

 迷うことなく赤い糸を手にした篤久に、彼女は顔色ひとつ変えずに値段を言う。

 そして、ちらりと僕の方を見たかと思うと、唇に酷薄な笑みだけを浮かべて、釣り銭の入ったトレイを押し出した。

「ごえんのお返しでございます……」




 翌日、学校に現れた篤久は、ある意味クラスの話題をかっさらっていた。

「おはよう」

 にこやかに挨拶をしているが、両手の指、全十本に包帯が巻かれていて、とてもじゃないが正気とは思えない。周りが心配するものの、本人は「なんでもない」と笑っている。

 怪我ではないことを知っているのは、僕だけだ。あの包帯の下には、赤い糸がぐるぐると巻かれている。小指だけでは足りないくらい、好みの女子が多いということだ。

「おはよう、あっくん」

 美希が彼氏の登校に気づき、スカートの裾を弄りながら近づいていく。

「美希ちゃん! おはよう!」

 朗らかな彼と、心配する彼女の対比。美希は本当に篤久が怪我をしたと思っていて、心底案じている。眉根を寄せて、彼の指と顔を交互に見やる。

 学年一の美少女が、自分のことだけを考えてくれていることに、気をよくした篤久は、鼻息を荒くした。

 少し前なら、「キモい」と斬られていたところだが、赤い糸の魔法を使う彼に対して、女子の中には明らかに秋波を送っている子もいた。

 まさか本当に、惚れ薬のような効果があるのか?

 篤久の狙うハーレムは、すぐそこだった。可愛い子に頼られ、かっこいい! とおだてられる篤久は、調子に乗っていた。

 学校では美希とイチャイチャして、青山&渡瀬のコンビを苛立たせる。

 放課後は、ファストフード店の女子大生に「スマイルください」と言いながら、連絡先を渡す。好意的に受け取られて、友達登録してもらったと、次の日に見せつけてきた。

 美希には「用事がある」と言っておいて、他のクラスの子や美人な先輩とデートを重ねた。

 この間までへたれだったのに、今はいっぱしのプレイボーイ気取り。

 不実な関係について、他の誰にも話せない彼は、僕にだけこっそりと進捗を語り聞かせる。

 もちろん、僕は聞きたくないし、容認したくもない。現実世界に生きている相手との恋愛ではなく、篤久がやっているのは、シミュレーションゲームの攻略だった。

 さらに多くの赤い糸を買い求めに行くと言ったときには、さすがに止めた。

「篤久。今、自分がどんな顔してるか、わかってるか?」

 と。

 暗い欲望に爛々と光る目は、濁っている。顔色はどす黒く、もともと彫りの深い顔立ちだったが、そこに険が加わるようになってきた。快活さ、素直さという彼の美点は失われ、僕は篤久の親友をやっているのが、嫌になる。

 僕の心からの忠告を、篤久は聞かなかった。それどころか、

「自分がモテないからって、ひがんでんじゃねぇよ。お前も赤い糸を買えばいいだけだろうが」

 などと、完全に馬鹿にしてくる。

 僕はもう、糸屋には付き合わなかった。いいや、もう、篤久のことなんて知るもんか。

 ひとりでまっすぐ帰宅する。相変わらず、我が家の空気は暗くて重い。今は、篤久のことも胸の中でぐるぐるとわだかまっていて、余計に。

 ああ、誰かに相談したい。篤久の愚痴を聞いてもらいたい。

 両親にも友達にも言えない、この苦しみを救ってくれる人は、ひとりしかいない。

 自室でひとりになった瞬間、僕の心を見透かしたかのように、電話が鳴る。名前の通知を見なくたってわかる。

「もしもし……姉さん」

 ジジ、というノイズが少しだけ入る。それでも、姉のアルトボイスは損なわれない。

 姉さんだけが、僕のことを気にしてくれている。

 第一声が沈んでいることにすぐに気がついて、なにかあったの? と尋ねてくれる。

 それだけで、少し心が軽くなった。

 僕はいつもの調子を取り戻し、姉さんに最近の出来事をすべて語った。

「あいつ、本気でハーレムつくる気みたいなんだ」

 馬鹿だよな、と笑う。チートでハーレムなんて、フィクションの世界にしか存在しない。

 青山や渡瀬みたいに、顔がよくてプラスアルファ優れた部分がある、「モテそうだなあ」という連中だって、「好きだ」と言ってくれる女の子はたくさんいるとしても、付き合うことができるのは、その中のひとりだけ。

 複数の女子と秘密裏に付き合うことは、露見したら終わりだ。自身の評判は、地に落ちる。

 ばれていないうちは楽しいかもしれないが、その後のことを考えたら、賢い男は二股なんてしないものだ。

 のちのちのことを考えず、目先の欲望ばかりを優先させるから、篤久は馬鹿なのだ。

 姉さんは、僕の話を黙って聞いていた。相づちすら打っていなかったように思う。一方的すぎたことを反省して、口を噤んだ瞬間、姉が、ねぇ、と語りかけてくる。

 注意されるのかな、と思った。けれど、姉の言葉は違った。

 ハーレムの主には、力が必要よ。権力なり武力なり、知力なり。そんな力がなくてもハーレムをつくりたいのなら、方法はひとつだけ……。

 人の心を惑わすような姉の物言いに、脳内にもやがかかる。姉さんの言葉だけがすべてで、他の誰の話も聞きたくない。そんな気分だ。

「その方法って……?」

 先を促す僕に、姉さんは笑った。最初は極小に絞った大きさだったが、やがて高く、大きな笑い声に変化していく。ドップラー効果で接近してくる救急車のサイレンを彷彿とさせる、そんな声。

 姉さんは、続けた。

 刺したり刺されたりする覚悟。凡人のハーレムに必要なのは、それよ。

 それだけ言って、電話はいきなりブツリと切られてしまった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る