Midnight Moonlight (特別版)

灰月 薫

第1話 「まだ———死にたく、ない」

かつて車だった鉄の塊が少年の身体を潰していた。

呼吸が浅く浅くなって行く。

虚ろな、でも黒い光を帯びた双眸はスマホの画面に向いていた。

発信中。そう白い文字が黒い画面に光る。

——ただいま電話に出ることができません。発信音の後にメッセージを録音してください。

機械音を淡々と発するスマホを、彼はただ一心に見つめている。

早く———早く——

ようやく鳴った電子音が、メッセージ録音開始を知らせる。

詰まりながら、彼はただ一言。それだけを呟いた。



「まだ———死にたく、ない」








☆★☆★☆



赤い閃光が影を切り裂いた。


暗闇に満ちているビルの中を、一筋の光が駆けて行く。

その光の正体は、少女の手に握られた一振りの剣だった。

淡い光を放つそれは彼女の手の中で踊る。動きを止めない。

軽々と舞う剣が斬っていたのは、黒———そうとしか形容出来ないものだった。

少女の持つ剣と窓からのネオン以外に光のない室内では、黒いの輪郭も定かでは無い。

一つ、二つ。

「多いな」

何が?“カゲ”が、だ。

少女は剣を振るいながら、誰にでもなく呟いた。

カゲ。それはたった今斬られている黒いモノの名前だった。

少女は足を止めない。

階段を駆け上がり、次の部屋でまた淡々とカゲを斬る。

ピクリとも動かない目元。そう、彼女にとってこれはタスクでしかない。

ただ、剣を振る。カゲを殺す。そして剣を振る。

その繰り返しだ。

幾つもの部屋を潜り抜けたところで、ようやく彼女はその足を止めた。

「……」

向こうの扉から微かに音がした気がした。唸るような短い音が。

耳を澄ますが、もうそれは聞こえない。

——誰か、いる?

少女の手に少し力がこもる。

——何故かは分からないが、このビルには異常な数のカゲが集まっていている。

こんなところに人がいたら、まず生きては帰れない。カゲに襲われるからだ。

一体二体ならまだともかく、何十体もカゲが群がる此処では十分……いや、五分もあれば殺されるだろう。カゲの種類によっては、死体も残らない。

そんな状況下での物音は、彼女に静かな動揺をもたらしていた。

ゆっくりとドアノブを掴み、引く。

少女を出迎えたのは、無数の鉄の塊だった。

並ぶキーボードとディスプレイ。コンピュータが所狭しとそびえている。

制御室のようなものか?

彼女は壁をまさぐって、手近なスイッチを押した。

微かな点滅をした後、電気がつく。

——ここの電気は死んでないのか。

音の正体は誤作動したコンピュータだったのだろうか。

しかし、見渡す限りのコンピュータはどれも動きを停止していた。

その時だった。

——ガタン。

今度は確かに音がした。少女は剣を掴んで息を潜めた。

音の元に走り寄る。

その正体を目にして、彼女は剣を持つ手を下ろした。

代わりに、反対の手を差し出した。

「大丈夫?」

手を差し伸べられた相手は、薄く瞼を上げた。

「……ん」

唸るように答えたのは、血まみれの少年だった。

固まりかけの赤い液体は彼の顔を伝って服にまで落ちていた。

いまいち焦点の定まりきらない彼の瞳。それが少女を上から下まで見回す。

——本当に大丈夫か?

少女は少し怪訝そうな表情になった。

それは彼の怪我を心配しているだけではなかった。

目の前の少年からは未だ何かしらの感情が見て取れない。不気味なほど——そう、不気味なほどにだ。

怪我をして痛い、カゲがいて怖い、助けが来て嬉しい。

そのどれもを欠落させたような無表情が、彼の顔に張り付けられていた。

だが、それも束の間。

「うん、だいじょうぶ」

子供のような無邪気な笑顔で、彼は少女の手を取った。

その笑顔を見て、少女は内心安堵した。

——安堵した?

その言い方じゃ、まるで……アタシが怖がっていたみたいじゃないか。

自分が彼に畏怖の感情を抱いていたことに我ながら驚く。

思わず後退りをしていて、手が熱いモニターに触れた。

その感情を誤魔化すように、視線を彼の額に移した。

「……なら良いんだけど。

傷は?頭、怪我してるだろ」

「あぁ……えっと、言っても信じてもらえないと思う……」

少し決まり悪そうに、彼は目を伏せる。

「信じるさ。だってこの世には魔法もモンスターもいるんだから」

そう言いながら、少女は手を伸ばした。


——治癒魔法ヒーリング


するとどうだろうか。

彼の額の傷がゆっくりと塞がった。

少年は不思議そうに自分の額をペタペタと触る。

「な、治った……?」

「魔法だよ。じゃなきゃ傷がすぐ治るわけないだろ」

少女は彼の近くにしゃがみ込んで尋ねた。

「礼代わりに教えてくれ。アンタを襲ったのはカゲ——違うか?」

目を覗き込まれた彼は、ゆっくりとその両手を下げる。

「カゲ……あぁ、あののこと?」

少女は頷く。

彼は顔についた血を拭って続けた。

「そう……それ。そのカゲ……かな、に追いかけられて俺はこの部屋に逃げ込んだんだ。

物が多いから隠れられそうかなって思って。

でもそこで転んじゃって頭打ったから、すぐに気失っちゃった……」

怪我の原因はそれか。

「まぁ、ここに転がり込んだのは好手だったな。カゲの動線から外れてるし、暗いから見つかりづらい。実際アンタは生きてる」

少女はもう一度立ち上がった。

「とりあえずここから出よう。それが先決だ。

アタシも着いていくよ」

「ありがとう……でも、どうして?」

「別に。ここから生きて出たいのはアタシも同じ。それだけだ」

「うん……そうか、ありがとう」

少し震える手で、彼は少女に手を差し出した。

「俺ははる。ええっと、明石晴あかしはる

「……よろしく、ハル。アタシのことはセナって呼びな」

セナはハルの手を掴んで引き上げた。


☆★☆★☆


行きの内にカゲを殺しておいて良かった。

セナは心底そう思った。

ハルはキョロキョロと辺りを見渡しながら彼女の後を小走りに追ってきている。

セナよりも身長こそ高いが、さながら子犬のようだ。

「ハル」

セナが呼びかけるとハルは肩を振るわせた。

「なに……?」

「怖がらなくて良い。大概のカゲはもう殺したし、見つかりづらいルートを通ってるから」

その言葉に、ハルの肩が少し下りる。

「セナ」

彼が少し距離を詰めて切り出す。しかし、その続きは言われず、彼は俯いてしまった。

「何?」

淡白にセナは聞き返す。ハルは肩を縮こませて尋ねた。

「ええっと……セナは何者、なの?

魔法?も使えるし、カゲ?にも詳しいし」

——そう来たか。

セナは内心ため息をつく。

「アタシはそこら辺の人だよ。ただ“常夜とこよ”にちょっと詳しいだけ」

「とこよ……?」

「そ、常夜。

まさかアンタ、ここが普通の世界だとか思ってないだろうな。

……いつもアンタがいる世界が表だとしたら、ここは裏みたいなもんだ。カゲが集まって、人じゃない者がウジャウジャしてる。普通の人間がいちゃいけない場所だ」

セナの話に、ハルは口をパクパクさせた。

彼女は軽蔑の視線を送る。

「……マジでアンタ何も知らないんだ。ま、迷い込んだだけなら無理ないけどさ」

「ごめん……」

彼は首を更に縮める。

言っちゃ悪いかもしれないが、子犬を揶揄っているようで面白い。

彼らは階段の前に来ていた。暗い階下が口を開けている。

セナは、いつの間にか足を止めていた。

「どうしたの?」

追い越した少年は、不思議そうに首を傾げる。だが、俯いているセナには彼の顔は伺えなかった。

「なぁ、アタシからも一ついいか」

その瞬間、辺りは完全な静寂に包まれる。

少年の心臓の音すら聞こえそうな、しじま。

それを丁寧に割くため、少女は口を開く。

「アンタのはどこまでだ?

答えろ——」

セナは少年の名を呼んだ。





「——安倍永遠あべ とわ




彼がアタシに教えたのは、偽名だ。


明石晴?——そんな人間を、アタシは見つけに来たんじゃない。

顔を上げた少女が見たのは、笑うの姿だった。

つい数秒前までのオドオドとした態度は、どこかに飛び去ってしまった。ただ静かな笑みを湛えた少年は、背筋を伸ばして立っていた。

「……どこで知ったの?」

笑みを1ミリも崩さずに彼は聞く。

「それは確かな情報?本当に俺は安倍永遠って言うの?」

彼の言葉に、セナはたじろいだ。

彼は何を言っている?

アタシは確かにこの少年が“安倍永遠”だと、そう伝えられた。

間違いが万が一にもないように、写真に写っていた細部までを覚えている。

……彼は、安倍永遠だ。

「アンタは安倍永遠だ」

「そっか!」

ハル——もといトワはその瞬間、満面の笑みを浮かべた。

「俺の名前、安倍永遠っていうんだ!

教えてくれてありがとうね、セナ」

無邪気な笑顔。本当に心の底から嬉しそうだと思わせる、表情。

しかし。

グラリと世界が揺れた。

——違う。

セナは自分の目の前の少年を見て悟る。

——トワに突き飛ばされたんだ。

そこからは速かった。

セナの体が床に叩きつけられる前に、彼は手近な壁の何かを叩き、そして重い扉を閉めてしまった。

「生き残れると、良いね」

——その時の彼の表情を、アタシは一生忘れられないだろう。

一切の邪悪のない、邪悪な笑顔を。


ヂリリリリリリ——


扉が閉まるや否や、叩き割られた火災報知器が五月蝿く泣き喚く。

音に釣られたカゲが、次々と少女の背後に忍び寄った。

「あぁ……そういうこと」

セナは諦めたように呟いた。

彼女の中で繋がってしまった——いや、もう遅いのだろうが。

繋がった、悟った。

——アタシは、 あの男安倍永遠に騙されて死ぬのだと。

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