第3話 うれしい呼び出し③
「……っ」
「三石さん……」
柴さんが小さな声で、私の名前を呼んだ。その時だった。
フワッ
「手、借りるぞ」
「え?」
「お前は、そのまま目を閉じていろ」
勇運くんが後ろから手を伸ばし、私の手の上から、自身の手を重ねてくれる。耳元で聞こえる声が優しい。目を瞑ってるのもあって、勇運くんの存在をすごく近くに感じた。
「柴さん、これでも”三石がした署名”になるよな。俺は手を添えてるだけだから」
「……お勧めはしませんが、今回に限り目を瞑ります」
「ふっ、助かる」
そして勇運くんは、私の手を握ったまま、自身の手を動かす。まるで書道の時、先生と一緒に筆を持っている、あの感覚。だけど、少し違うのは――
「あ、下の名前はね、」
名字を書き終わった事がなんとなく分かったから、下の名前を言おうとする。だけど、言う必要はなかった。
「名前は知ってる。冬の音って書いて、冬音」
なんと勇運くんは、私の名前を覚えていた。しかも、漢字まで合ってる。
「……っ」
書道の時の緊張とは違うドキドキが、私の内側から控えめにノックした――そんな気がして、ボールペンを握る手に、じんわり汗がにじむ。
それにしても、勇運くんはえらいな。私なんて……
――何て呼んだら、いいかな……?
私なんて、勇運くんの名字すら知らなかったのに。 いつも成希の事で悩んでいて、心ここにあらずだったから……。
成希と一緒にいる事で、大切な時間をたくさん逃していたと痛感する。早く別れれば良かった。そうすれば、クラスの皆との貴重な時間を、存分に楽しめたかもしれないのに。
全ては、成希から逃げられなかった私の弱さのせい。
「私……、悔しい」
「……ん」
気付けば、閉じた目から、涙がポロッと落ちていた。勇運くんは「書類に落ちるぞ」と言って、自分の袖で、グイッと涙を拭きとる。
そっけなく思えるけど、勇運くんはきっと、私に「泣くな」って言ってるんだ。彼なりの励まし方に、また涙腺が緩む。
「う〜っ」
「書けたから、もう泣くな」
「え……」
わ、早い! 勇運くん、いつの間に……。
「ありがとう、勇運くん」
「ん」
目を開けると、ちょうど柴さんが書類を持ち上げた時だった。柴さんは署名蘭を確認し、「これで大丈夫です」と頷く。そしてファイルに閉じる。のだけど……その時、実質勇運くんが書いた私の名前が、チラリと見えた。
それは、スゴク綺麗で……。「私」よりも堂々とした「三石 冬音」の文字が、そこにあった。
「では、これで受理しますね。本日はありがとうございました……の前に、これを使ってください」
尚も無表情の柴さんが出したのは、テイッシュの箱。そうだ。私、泣いちゃったんだ。恥ずかしいな……。
「すみません、ありがとうございます……」
周知で顔を赤くした私。ありがたくテイッシュを使わせてもらおうとした、その時だった。
「冬音ちゃん⁉」
「え――」
息を切らせた、お巡りさんの姿。交番の入り口で帽子を落とした事にも気づかず、泣いている私の前に、走ってやってきた。
「どうしたの! 何かあったの⁉」
「え、や、あの……っ」
ビックリと、会えた嬉しさと……あとは分からない。だけど、複雑にシェイクされた感情が、一気に目元に集まって、
「本当に、なんでもないんです……っ」
私は、また泣いてしまった。もちろん、お巡りさんはビックリした。「一体なにが」と辺りを見回す。
すると、その時。何を思ったか。柴さんが、さっき書いた“自身のサイン”を、お巡りさんにピラリと見せる。
「これは?」
「私のサインです」
「要は……ゴミですか?」
お巡りさんが真顔で言うものだから、おかしくて。涙が止まり、自然と私は笑うことが出来た。
「私のサインをゴミだなんて。あなたには、この貴重さが分からないのですね。一緒に働いてる者として失格ですよ」
「いや、柴さんの自筆署名なら嫌っていうほど見てますから。俺の上司だし……」
え。柴さんって、お巡りさんの上司だったんだ……っ。
「部下なら上司のサインくらい、有難く受け取りなさい。相勤者*でしょう」
「え、遠慮します……」
「そう言わず」
「遠慮します!」
交番の中に集まる、賑やかな声。それらが、私の記憶にある「あの日」を、わずかに遠ざける。
(※相勤者…勤務時、常に行動を共にする人のこと)
「……ふふっ」
この交番の中で笑えている――その事が、私の自信へと繋がる。
さっき見た「三石 冬音」の名前のように。私の背中が、少しだけ。空に向かって、しゃんと伸びた気がした。
と言っても。
「……」
さっきまで私の傍にいてくれた勇運くんは、今やすごく遠い場所にいる。腕を組んで、ジッとこちらを見ながら立っていた。
「冬音ちゃん、名前を書きに来てくれたの? 俺が確認ミスしたばかりに……。ごめんね、ありがとう~」
「と、とんでもないですっ」
見つめる先には、笑顔で話す、私とお巡りさん。すると勇運くんは、「はぁ……」と。重く深いため息を、誰にもバレないよう、静かについたのだった。
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