校舎う/VS音楽室の肖像画
「ルールはとってもぉぉ、簡単だぁよぉぉ~♪」
月明かり以外の光源の無い、暗く静かな音楽室。
壁に掛けられた時計は数字が左右反転しており、秒針も左回りだ。
これでは、小説などでよく見かける鏡の中の世界に思えて仕方ない。
おそらくは結界で閉じられているのであろう空間に、耳を塞ぎたくなるほどの大音量の歌声が響いている。
一番最初に口を開いたのは、モーツァルトに類似した個体。
若々しくも喧しい声で、ルール説明が勝手に始まったことを教えてくれた。
「ボクらが君たちを追いかけるかぁら~♬ にぃぃげぇぇてぇぇぇ♬」
続いて、バッハに似た個体。
厚みのある低音ボイスは、きっと耳を塞いでいても聞こえて来ただろう。
彼の歌を聴く限りだと、どうやら鬼ごっこ自体のルールはシンプルなようだ。
「おとぉ~さぁ~ん、おとぉ~さぁ~ん♩ 魔王ぅが~来るぅよ~♩」
次に歌い出したのは、シューベルトらしき個体だ。
歌っているのは自身の楽曲である「魔王」だとは思うけれど、その中にゲームのヒントになりそうな単語は含まれてはいないようだ。
「てってってってぇぇ~ん♫ てってってってぇぇ~ん♫」
そして最後は、ベートーヴェンに似た個体。
彼もシューベルトと同じように、自身の作品である「運命」のワンフレーズをひたすら繰り返しているだけのようだ。
「気が抜けてまうなぁ……」
隣のランさんが見るからに油断している。
最初は珍妙な外見をした未知の集団という印象だったというのに、話を聴けば聴くほど悪意は無いんじゃないかと思えてしまう。
これが油断させるために仕組んだ罠だとしたら、大したものだろう。
「……でも、とりあえず挑戦しておくべきですよね」
「せやな。出られへん以上、この子らに結界開けてもらわなアカンし」
ゲームの内容が「おにごっこ」であるならば、私は非常に幸運だっと言わざるを得ない。
なんてったって、こっちには怪異界最速のスプリンターである“ターボレディ”が居るからだ。
仮に私が彼らに捕まって失格となっても、ランさんなら逃げ切ってくれるはずだ。
「ボクらの手が触れたらぁぁ~、アウトになっちゃうよ~~ん♪」
「……ほんで、制限時間はどんぐらいなん? 五分? 十分?」
再びやる気を見せてくれたランさんが、モーツァルトもどきへと質問する。
彼らがまともに説明しない以上、私たちの方から詳細を詰めていくべきだろう。
どうやら挑戦者とのコミュニケーションは問題なく取れるようで、モーツァルトは嬉しそうな顔のまま口を開いた。
「るるるるるぅぅぅ~~♪ そんなの、ないよぉ~~♪」
その言葉で、私もランさんも耳を疑う。
私たちが彼らに追われる側だというのは察したが、逃げ続ける時間に限度が無いだなんて聞いていない。
これでは、私たちが勝利する手段がない。
ワンサイドゲームが聞いてあきれるほどの、無茶苦茶なルールだ。
「さぁ~さぁ~♪ 早速始めましょうねぇ~~♪」
「ちょ、ちょっと待って! そんなルールじゃ––––––」
「よぉぉぉいぃぃ♬ スタートぉぉぉぉ~~~♬」
そして、有無を言わさず開始が宣言される。
私は苦言を呈しようとしたが、マイペースな彼らには通じなかったようだ。
呆然とする私の視界に、過剰なほどに仰け反ったベートーヴェンが映る。
空気を吸って胸部を膨らませ、その反動を殺さず、思い切り半身を放り出した。
「じゃっ、じゃっ、じゃっっ……じゃああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんッッッッッッ♩」
その挙動まま、肺の内部に詰まっていた音圧を吐き出す。
空間全体がユラユラとうねり、耳をつんざくほどの超高圧の音の波が走り抜けた。
散らばっていた椅子が粉々に砕けて、四方の壁にもガラスにもヒビが走っている。
私は、その苛烈な口撃を認識し、それでもなお呼吸を続けられていた。
その理由は、私を抱きかかえているこのお姉さんにある。
「––––––ランさんっ!?」
「間一髪やったなぁ、治歳チャン!」
凄まじい速度で背面方向へと流れていく校舎の光景。
目を凝らせば蒼い炎が微かに走り、すぐ近くからエンジン音のような低い拍動が聞こえてくる。
ランさんは自分の高速移動スキルを使用し、私を抱きかかえて走っているのだ。
非難のみに意識が向いていた私を助け、音楽室から全速力で離れていく。
「ったく無茶苦茶やでホンマに……! どうにか結界から出ぇへんと!」
「でも制限時間が無いんじゃ、いくら逃げたって––––––」
「おとぉ~さぁ~ん、おとぉ~さぁ~ん♩ 魔王ぅが~来るぅよ~♩」
突如、廊下の曲がり角の向こう側からシューベルトが飛び出す。
その掌は魔王のもののように邪悪なオーラをまとっており、鋭く伸びた爪がランさんへと振り下ろされる。
私はとっさに、胸ポケットに入れておいた粉末状の睡眠薬を投げ捨てた。
辰兄さんのスピードに慣れている私には、高速移動中でも物体の運動を正確に目で追うことが可能なのだ。
「お! おぉ!? おとぉぉさぁ––––––」
「ナイスやで治歳ちゃんッッッ!!」
あの粉末は非常に軽く、なおかつ水にも溶けにくい代物。
“学校の七不思議”とはいえ、そんなものが目には入れば痛いようだ。
ランさんが私を抱きしめながら身を捻り、真っすぐに伸ばされた右脚で蹴ると、ノーガードだったシューベルトは壁際へと叩き付けられた。
「離れるで! しっかり掴まっといてぇ!!」
間髪入れず、ランさんは再び走り出す。
この状況を乗り越えるには、まず奴らから距離を取る必要がある。
◆◆◆
「どうにか、ルールの穴を突くしかないなぁ」
光源が何処かもわからない淡い光が通る、無人の静かな廊下。
その中央に陣取った私とランさんは、周囲を警戒しつつの作戦会議を行っていた。
案ずるべき内容は、まさしく私たちが勝利するための手段。
子供じみたゲームルールに対抗するための方法を見つけなくては、私たちはこの空間から出られないままに朝を迎えることになってしまう。
「でも、さっきのシューベルト、とんでもない速度でしたよ」
ベートーヴェンのシャウトを回避するためにランさんが使用したのは、瞬間的に運動速度を爆発させる《
《
第一、あんなにお腹の膨れた男性がランさんに匹敵するスピードを持っているとは思えない。
何か、スピードとは別の仕組みがあるはずだ。
「例えば、ワープみたいな?」
「……ワープというより、ここに連れてこられたのと同じ絡繰りかもしれんな」
私の想像をやんわりと流し、ランさんは何かを思案している。
この空間内に連れてこられたのと同じ、となると何になるんだろう?
私はあの時、鮎川くんを庇おうとする竹永さんの方へと視線を向けていたせいで、どのように結界に閉じ込められたのかの客観的推察が出来ていないのだ。
先ほどの超高速で動けるのがランさんしかいない以上、私は少しでも足を引っ張らないように頭を回して––––––––––––
「––––––喋ってる暇が、あぁ~るんだぁ~ねぇ~~♬」
「ぅおおバッハ!?」
暗闇の向こう側から現れたのは、バッハ。
私の目前へと突然飛び出し、両手に握った指揮棒の先端を向けている。
「やっぱ、そうやないかいっ……《
「ひよぅぅッッッ––––––––––––」
叫ぶよりも先に筋肉質な腕にクレーンされた私の肉体は、置いていかれたバッハから徐々に距離を取っていく。
またしてもランさんの高速離脱ジャンプで回避できたようだ。
というか、今の私カッコ悪くないか!?
ランさんはスキルを発動すると背中からマフラーを生やす特異性を持っており、他者をおぶった状態で高速移動することが出来ないのだ。
そのため、どうしたって人間を腕に抱えて走らなければいけなくなる。
「すっ、すいませんっ! 私ぃっ、お荷物になってますぅぅっ!!」
「口閉じとかんと舌噛むで治歳チャンッッッ!!」
ロケットのように推進する私たちは、そのままの勢いで暗い階段を下っていくのだった。
◆◆◆
ハッキリ言って不味い状況だ。
ランさんの速度を以てしても逃避に専念させられてしまっている。
私がお荷物になっている点を差し引いても、あの音楽家たちが“ターボレディ”の速度に着いてこれている事実があまりにも致命的だ。
あれから時間制限もなく逃げ続けるとなると、おそらくランさんの息と体力が持たない。
生憎だが、全身への酸素供給を促進させるような薬は持っていないし、そもそも開発できていない。
このまま指揮棒で貫かれるか、あるいは超音圧シャウトで吹き飛ばされるしか道はないのだろうか。
「ランさん、もうわた––––––むっ!?」
いっそのことなら、私を囮にしようと考え、その案を口から出そうとした時。
私の口元を、ランさんの掌が塞いできた。
ビックリして目線を動かすが、彼女は唇を真一文字をしたままで何も語ってはくれない。
「喋るな」ってことなんだろうか?
「…………?」
疑問を視線だけ訴えると、ランさんの人差し指が窓ガラスを示した。
ガラスは外部からの淡い光を反射して、私たち二人の姿をぼんやりと映している。
ランさんの高速移動による余波を受けても割れない、結界の壁の役割を担うとても強固な檻だ。
それがどうしたというのだろうか。
「??」
「~~~~~~ッッッ!」
察しが悪くて申し訳ない。
じれったさを感じたのか、ランさんは私の耳元に口を近づけ、極めて小さな声で囁いてきた。
吐息がかかって、ちょっとくすぐったい。
(……多分やけど、鏡がワープポイントちゃうんかな?)
「……!!」
くすぐったがっていたら、非常に納得のいく考察が飛び込んで来た。
シューベルトもバッハも、“ターボレディ”並みの速度で動いていたわけではない。
私たちの最寄りのガラスから生えてきていたのだ。
まさしくワープ。最近のゲームっぽく言い表せば、「ファストトラベル」のようなものだろう。
(……なら、どうやって私たちの位置を補足していると思いますか?)
(きっと「音」やな。だから小声で話しとんねん)
新たに生まれた疑問を彼女の耳元に向けて投げかけ、答えが返って来る。
私の口を押えたのも、現在の珍妙なコミュニケーションスタイルも、その対策ということか。
思い返せば、バッハは私たちの会話に対して「喋っている暇があるんだね」と、あたかも聞いていたかのような様子だった。
著名な作曲家たちを模した怪異であれば、その優れた耳こそが最大のスキルということなのだろう。
(せやから音よりも速く走れば先手を打てる。治歳チャン、だっこしていくで!)
あ、やっぱそうなっちゃいますか!?
本当に申し訳ない。私の体重が、以前計測した時よりも増えていないといいのだけど。そんなことを心配している状況じゃないだろう。
でも、この状況を打開するにはそれしかない。
ランさんの有する“ターボレディ”のスキル、その神髄を使えば突破できるかもしれない。
頼れるお姉さんに腕を巻き付け、私は意を決して、頷いた。
「《
肌を通して、リズミカルに唸る心音が響く。
肉体の向こう側……ランさんの背面からは、固い筒状のものが勢いよく突き出す「ガシャン」という音が続けて鳴った。
肩甲骨と背骨に沿ってマフラーの本数が増し、合計で8本に至る。
「––––––《
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