慟哭ぶ/悲痛の304号室
マンションの三階に位置する304号室は、窓の外から見るかぎりは何の変哲も無い部屋だった。
午後九時を過ぎているから光源が月の光くらいしか無く、薄暗い無人の空間は異様な不気味さを孕んでいる。
ちなみに、ここまではツムジさんの配下のカラスたちに運んでもらいました。
“ぬらりひょん”といえども空は飛べないから、僕としては非常にありがたい。
出来ることなら仕事以外で自由飛行を楽しみたいのだけれど、そういうわけにいかないからなぁ。
「拙者は周囲を警戒するでござるので、御武運を」
「おう!」
大量のカラスを伴い、カラスに化けたツムジさんは闇夜の中へと消えていく。
昼間のこともあってか、よりカラスの数を増やして警戒に当たってくれるようだ。
頭を爪で引っ掻かれたと聞いていたけど、どうやら軽症で済んだようで安心した。
しかし……実戦経験が浅い琴葉ちゃんはともかくとしても、ツムジさんまで一杯食わされるなんて。
意識の外に潜伏する能力といい、今回の相手は一筋縄ではいかなそうだな。
琴葉ちゃんが開けておいてくれた窓から、閉ざされた部屋へと侵入する。
同時に、僕が受け継いだスキルの発動を意識する。
相手が戦闘してまで拒絶するというのであれば、最初から懐に入るべきだろう。
この場所に居て当然、といった面持ちで、胸を張ってリビングに足を踏み入れる。
机も椅子もないシンプルな空間には、唯一、異質なものが転がっていた。
血にまみれた布団だ。
かけ布団も枕もない、真っ赤なシミの広がった白い布団。
匂いを嗅ごうとしなくとも、鉄の匂いと何やら酸っぱい香りまで鼻に入って来る。
こんなものがあるだなんて報告は受けていない。
琴葉ちゃんと僕との差異を考えてみれば、やはりスキルを発動させておいて正解だったかもな。
布団に近づき、目を凝らして伺ってみれば、なんと赤ん坊が寝転がっていた。
遠目で見れば気付けないほど、鮮血でまみれた小さな赤子。
お腹のあたりからは、肉で形成された管のようなものが繋がったままだ。
頭髪はとても短く、おそらく生まれてから一年も、いや一週間も経っていないのではないだろうか。
それに加えて、さっきから微塵も呼吸をしていない。
瞼も唇も閉じ、鼻の穴までまったく動かないその幼い顔は、一見すれば精巧な人形のようだ。
皮膚が目で見てわかるほどに乾燥していることにさえ目を瞑れば、これが遺体だなんて気付かなかっただろう。
死因は栄養失調だろうか……布団の上で亡くなったとなれば、静謐な印象の部屋が一瞬で不気味な冷たさを含んだ空間に見えてきてしまう。
この部屋はこんなものが置いてあるのに、どうしてこんなに平凡な顔をしていられるのだろうか。
「……なんだか、失礼なことを思われた気がするわ」
それは誤解ですよ、お姉さん。
声がした方を見れば、僕の背後に羽毛にくるまれた女性が立っていた。
柔らかそうな羽はどうやら両腕から生えているようで、それ以外の衣服は一枚も着ていないようだ。
羽とは対照的な黒い髪から、物憂げな視線を僕に向けている。
そして、左腕周辺の羽が真っ赤に染まっている。
琴葉ちゃんの攻撃で負った傷だろう。
出血は既に止まっているようだが、ダメージは十分に与えられたようだ。
「あなた、ここ住人じゃないのよね。でも、部外者な感じがしないわ……」
どうやらスキルが十分に効いていない。
実は、“ぬらりひょん”のスキルが通用しないパターンは複数存在している。
その一つが、「友好関係を持つ人間がいないことを、自覚している場合」だ。
最初から自分の近辺に来てくれるような人間がいなければ、僕の存在を誤認識させることは出来ない。
そういった場合は、相手の親切心に漬け込んで「あなたにとっての敵ではないよ」というのを全力でアピールしないといけなくなる。
多分、このお姉さんはそのパターンだ。
僕の正体をしっかりと判別できない、だが敵意や害意を感じることは難しい。
だから、普段は隠しているこの部屋の秘密……赤い布団とその上の遺体を開示してくれたんだろう。
ここからが、僕の腕の見せ所だ。
「––––––いや、気になったからお邪魔しただけですよ。もしよければ、あなたの話を聴かせてもらえませんか?」
八恵さん直伝・お淑やかスマイルを発動!
お姉さんは怪訝そうな表情を、さらに強めた!
くそっ、ミスっちまったかもしれねぇ!
やっぱ無理だよ! 陰キャ歴が長い僕に交渉術なんてありゃしないんだ!
「……まぁ、せっかく来てもらったんだし、少し話そうかな」
おおっと、ギリギリセーフ!
流石は“ぬらりひょん”パワーだぜ。なんか上手くいった。
お姉さん的には、気を許してもいい相手だと思ってくれたのかな?
尾上さんから「お前は堂々としてりゃいいんだよォ」って何度も言われたけど、やっぱりそれが効いたようだ。
「……こんな殺風景な部屋だと、少し人恋しくなっちゃってね」
「だったら、そうしてこの部屋に居続けてるんですか?」
不気味な布団を挟んでお姉さんが話し始める。
間が持たない僕は、早速ながら本題へと切り込んだ。
この部屋で事件が発生している以上、彼女は地縛霊の可能性がある。
地縛霊––––––自身が縛られた場所そのものに、発生した理由や、悔恨の要因が刻まれている怪異だ。
ベタだけど、赤ん坊に対する心残りが、この人をこの部屋に縛り付けているのではないだろうか。
「…………やっぱり、この子のせいかな」
うわぁ……ベタだぁ。予想が的中した感じがする。
大家さんから聞いた話と、琴葉ちゃんからの報告で僕なりの推測は立てていたのだが、おおよそ正解だったようである。
僕も新人ながら、この仕事に慣れて来たということなのだろうか。
「この子を一人にするわけにはいけないから……」
「なら、どうしてこの子はこの部屋で亡くなったんですか?」
僕の言葉に、女性は突然、虚ろな目のまま動きを止めた。
ちなみにだが、僕は八か月にこの部屋で何があったか、既に知っている。
“ぬらりひょん”のスキルを介して大家さんから聞き出した過去の事件は、怪異が生まれる理由としては十分なほどに凄惨な内容だった。
地縛霊の類を除霊するためには、まずはその記憶を掘り出して、悔恨の根元を強く意識させなきゃいけない。
こっちが根を斬る準備が万全だとしても、斬られる側も準備が出来ていないといけないのだ。
そうでもしなければ、極楽浄土に送ってやることが出来ない。
「––––––私がこの子を殺したも同然なのよ」
レコードが再生されたかのように、記憶を口から吐き出し始めるお姉さん。
その物語は、僕が既に把握した内容と大きな違いはなかったが、そのおぞましさは段違いだった。
彼女自身が反芻したそれは、他人が介入する余地のないほど生々しく、重々しい語り口から始まる。
◆◆◆
当時、翅鳥マンション東棟の304号室には、
水商売で日銭を稼いでいたらしく、美人で人当たりも良いため、ご近所との付き合いも何ら問題はなかったという。
趣味は、フクロウのホーちゃんの世話をすること。
その子のために、惜しむことなく育て方の勉強していたそうだ。
東棟を選んだのも、ホーちゃんに十分な日光を浴びせるためだったらしい。
一見して充実そうに見える彼女の人生においてエラーがあったとするなら、交際していた男性のことが当てはまるだろうか。
若くしながら職を失い、あっという間にギャンブルやらアルコールやらに溺れてしまったらしい。
金をせびるために宿木さんの部屋に訪れることも頻繁にあったらしく、そのまま一方的に肉欲をぶつけられる夜もあったらしい。
どうして交際を続けていたのかといえば、一重に彼の暴力性が原因だ。
隣の部屋にまで響くほど大音量の恫喝。
壁に振動が伝わるほどに容赦ない暴力。
良くない人間と関わっているという悪い噂。
彼女が付き合っていた男性は、いつの間にやら悪い男のごった煮みたいな人間に堕ちてしまっていたのだ。
彼女が既に抵抗する気力を失っていたし、近所の人間も自分へ危害が向くことを恐れて何もしなかった。
いや、彼女に関しては抵抗できるだけの体力を失っていたとも言えるだろう。
稼ぎの大半を奪われ、一方的に殴り飛ばされ、気絶から目を覚ました頃––––––
彼女のお腹の中では、あの男の子種が芽吹いていた。
気が付かない間に確実に成長し、母親の脆弱した身体から、追い打ちをかけるように栄養を奪っていた。
病院に行く時間も無ければ、子供をどうこうするためのお金もない。
行ったとして、それが男にバレたら何をされるかもわからない。
仲が良かったはずの近所の人間は、誰一人として助けてくれない。
過剰なまでにお腹が膨らむようになってからは、仕事に行かなくなったそうだ。
男が合鍵を使って部屋に来れば、膨らんだ腹に驚かれ、勝手に妊娠したことを咎められ、腹を思い切り蹴り飛ばされた。
自身の内臓の中で、熱をもった“何か”が潰れる感触が伝わり、彼女は蹴られた直後に吐いたという。
それっきり、男は家に来なくなった。
彼女は恐怖から逃れられた安堵を抱きつつ、そのまま両脚の間から血を流し、息絶えたと言う。
流れた血はシワだらけになった白い布団を侵食し、鉄の匂いと死臭の染み込んだものに変わっていった。
304号室において、赤ん坊の泣き声が最初に観測されたのがその日だ。
しかし、それでも他の住民は無関心を貫いたらしい。
何の物音もしなくなった頃、不審に思った大家さんが部屋に向かうと、そこには管で繋がれたままの二つの死体と、鳥籠の中で項垂れる羽の塊があったという。
流石の大家さんも、その光景は忘れられなかったそうだ。
マンションの東棟全体に響き渡るほどの、悲痛な慟哭。
それは、母親が何もしてくれずに死んだことへの強い怒りであり、未来のない暗い部屋に産み落とされたことへの絶望だったのだろう。
もしかすれば、助けてくれない周囲に対する憎悪だった可能性すらある。
名も無い赤子は、母親の死体の中から這い出て、必死に叫んでいたのだ。
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