10 踏みにじられた過去
ボスが珈涼に結婚を申し込んだ翌日から、珈涼はひどく体調を崩したらしい。
それまでは一日に一度だった看護師の来訪が加速的に増えて、ある時には看護師が変えられた。看護師が慌ただしく救急箱や点滴を持って入って行く様子も見られて、それを見ているナオを心配させた。
……自殺未遂。そんな言葉がナオの頭によぎった。ナオは部屋の中に立ち入ることはできないために確かなことはわからないが、珈涼が変調をきたしているのは察しがついた。
来訪が増えたのは看護師だけではなく、今までは夜だけ訪れていたボスも、昼夜関係なく様子を見に行くようになった。相変わらずボスは手土産を携えて中に入って行ったが、点滴をしているような珈涼が外食の類を喜ぶとは思えなかった。
ナオがもう一つ気づいたのは、ボスの変調だった。ボスは常の通り涼しげに仕事をしていたが、さすがに看護師に呼ばれて珈涼のところに駆けつけるときは顔色をなくしていた。紐解いた様子もない手土産をそのまま持ち帰るときは、ボスらしくもなく意気消沈して見えた。
ナオがこの仕事を始めてしばらく経ってから知ったことだが、ボスは珈涼の部屋の下の階に仕事部屋を持っていて、珈涼の部屋を訪れた後にその仕事部屋に戻っていることが多かった。
ある夜、ナオの携帯電話にボスから直電話が入った。指定の場所がそのボスの仕事部屋で、しかも夜も深い頃だった。
「ナオです。失礼します」
ナオがインターホンを鳴らすと、ボスから入っていいと返事があった。ナオは緊張しながら、ゆっくりと扉を開いた。
ボスは異性で、しかもやくざではあるが、ナオはそういう意味で今まで身の危険を感じたことはない。ボスは人格者だったし、部下で愛想のない子どもに手を出すほど女に飢えている人でもなかった。
……でも結婚を申し込んだ女性に拒絶されている今はどうか。誠也も心配して一緒に行くと言ってくれたが、ボスは一人でと指定していたし、ナオは十分に気をつけると誠也に約束してそこにやって来た。
部屋に入って、ナオは認識が甘かったと後悔した。ソファーに掛けたボスの瞳は暗く淀んでいて、手傷を負った野生動物のように危険な空気をまとっていた。
「来たか。そちらに座れ」
ボスは普段は吸わない煙草も吸っていて、そのけだるい仕草はある種凄艶でもあった。投げやりに言われた声も少し掠れていて、普段のボスとは違う人にも感じた。
ナオは慎重に一礼して、ボスの向かいの席に腰を下ろす。
「自分にお話とは?」
「調べてもらいたいものがある」
ボスはテーブルに見覚えのある小袋を転がした。ナオがまばたきをしてそれをみつめると、ボスは低く告げた。
「ここのところ何も食べない珈涼さんが、唯一口に入れたクッキーだ。猫元氏からいただいたものだが……出所を特定してほしい」
珈涼が何も食べないと聞いて、ナオの心がごまかしようもなく痛んだ。けれどそれを言葉にしたボスはそれ以上に、その事実に憔悴しているように見えた。
「……食べてくれるなら、今はそれだけでいいんだ」
ボスが縋るように言うのも、ナオは初めて聞いた。
ナオが憧れるほど大きな仕事をこなし、大勢の部下を従える人なのに、今はたかがクッキーの小袋に希望をかけている。ナオにその問いを投げたのは、たぶんナオが年頃の少女だから。たったそれだけの理由に、ナオは腹が立つより哀しくなった。
ナオは一度うつむいて、やるせない思いを抱えながら言った。
「自分は知っています。このクッキーの出所……誠也に、教えてもらいましたから」
「仁科に?」
ボスは少し意外そうに問い返した。ナオがうなずくと、ボスは体を起こして問う。
「いや、今はなぜ知ったかはどうでもいい。どこのものか教えてくれ」
確かに、今のボスの関心事は誠也が知っていたことではないのだろう。それを聞いて、ナオは目を伏せる。
……本当に、この人の関心事は珈涼しかないのだな。そう思ったから、ナオはあえてその理由を口にしなかった。
ナオは目を上げてボスを見返しながら答える。
「このクッキーはお嬢さんの母親が作ったものです。……お嬢さんが一緒に暮らしてきた、たった一人の家族の」
それを聞いてボスはようやく合点がいったようだった。少し肩の力を抜いて、事実を確かめるように口にする。
「そうか。猫元氏のところにいらっしゃったか」
珈涼の母親は喫茶店を営んでいて、今は姿をくらましていた。それで珈涼は父親の元に引き取られていたところ、そこからボスが奪い去ったと聞いた。
ボスは少しの間考えを巡らせるように黙っていて、やがて口を開く。
「わかった。それだけわかれば十分だ。……ご苦労、もう帰っていい」
ナオは頭を下げて立ち上がると、ふとボスをみつめた。
本当は、ボスに気づいてほしかった。このクッキーのことを誠也が知っていたのは……誠也の別れた彼女が、珈涼の母親の元でバイトしていたからだということ。
ボスは珈涼の身辺を知るために、誠也の彼女に近づいたのだろう。けれど結果として、ボスは誠也の彼女を寝取ってあっけなく捨てた。
きっとボスはそういう女性がいたことさえ忘れている。それくらい、昔から珈涼のことしか見ていなかったのだ。
ナオは一拍迷って、まったく関係のない話題のように言った。
「……自分は、母親などどうでもいい人間ですけど」
ボスは少しだけ怪訝そうな顔をした。ナオはボスの言葉を待たずに続ける。
「お嬢さんにとっては大切な家族ですから。……大事にしてあげてください」
小さな願いをこめてそう言って、ナオは踵を返した。
――お前が巻き込まれなきゃ、それでいい。
誠也はそう言っていた。自分もひどくボスに巻き込まれて、傷ついたのだから。
こんな日は早く帰って誠也の顔が見たかった。それで一緒にご飯を食べて、他愛ない話をして、馬鹿馬鹿しい日常に埋もれたかった。
もうこれで終わりにしよう。そう思った矢先のことだった。
その翌日、ナオは偶然出くわしてしまった。
……深夜、怪我だらけの珈涼がマンションを抜け出すのを、見てしまったのだった。
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