8 すべきことを決めるのは大人じゃない

 ナオが珈涼の護衛の仕事から自由になったのを、誠也は喜んでくれた。

 真夜中の裏仕事からナオを連れて帰った日、誠也はナオに言った。

「俺もボスに、お前のその仕事は何度かやめさせるように頼んできた。ボスは立派な人だが、生粋の極道だ。常とは違う価値観で人を振り回す。ナオ、お前はそれに巻き込まれちゃならねぇ」

 誠也がボスに直談判してくれていたのも、初めて知った。ボスに盾突くのはリスクが大きいだろうに、ナオを心配してそうしてくれたのだとわかった。

 巻き込まれるな。誠也は何度もナオにそう言った。

 ナオも今回の裏仕事の後、ボスへの恐れが膨れ上がったのは本当だった。眠らせた少女をシーツに包んで連れ帰ってマンションに閉じ込め、服を処分してしまう。それはまともな世界の住人のすることではない。

 けれどナオの中には、珈涼に寄せた同情とも共感とも区別がつかない感情が残っていた。この仕事を始めたときからあったその感情は、ボスへの恐れとは裏腹に、小さな良心とともに大切にしてきた。

「……今日も出てこない」

 ボスに自由にしていいと言われているが、ナオは今日も珈涼のマンションの前にある公園から、珈涼の動向をうかがっていた。

 珈涼の部屋はどこもカーテンで閉め切られているが、室外機は常に動いている。一日一回看護師が入って行って、体調管理もしっかりされているようだ。

 けれどあの真夜中の日から三日が過ぎたが、珈涼は一度も外に出ていない。服が持ち去られてしまって、出られないのだろう。

 ボスは変わらず、夕刻になると毎日、手土産を携えてマンションにやって来る。それで深夜、ボスだけがそっと部屋を後にする。

 放っておけばいいじゃないか、ボスと愛人の仲なんて。ナオは何度か自分にそう言い聞かせようとしたが、どうしても小さな良心がうずく。珈涼が見せた柔い笑顔が、今はまったく無表情になっていないかと心配になる。

 ボスに逆らって珈涼を逃すまではさすがにできない。そんなことをしたら、ナオの保護者である誠也にも害が及ぶ。

 ……だけど、自分にも何かできないか。三日間、ナオはそればかりを考えていた。

「気になるかい?」

 ふいにナオに声がかかって、そちらを振り向く。

 公園の前に車が横づけされていて、窓から老人が顔をのぞかせていた。白ひげの柔和な表情の老人で、ナオははっと息を呑む。

猫元ねこもとかしら……! ご挨拶もなく失礼しました」

 彼はボスの組と友好関係にある、猫元組の組長だった。雲の上の人だが、女性や子どもに優しく、ナオのことも中学生のときからたびたび声をかけてくれる面倒見のいい親分だった。

 ナオは慌てて四十五度の礼を取ると、そっと車に歩み寄って声をかける。

「自分に何か御用でしょうか?」

 すると猫元は軽く車の中を示した。ナオはその意図を察して、失礼します、と断りを入れてから車中に入る。

 車の中で膝をつくナオに、猫元は隣に座るように促した。ナオは少し迷ったが、彼の言う通り猫元の隣のシートに腰を下ろす。

 何か密かに伝えたいことがあるのだろう。そうナオが緊張していると、猫元は信じられないような内容を告げた。

「……月岡君は、珈涼ちゃんと結婚するつもりでいる」

 ナオは息を呑んで言葉を失った。まじまじと猫元を見返して、呆然とした声音で返す。

「ほとんど監禁状態の少女に、結婚という枷までつけると?」

「やはり君は珈涼ちゃんに同情的だね。そうだと思った」

 猫元は目を細めてそう断定した。ナオは先ほどとは違う意味でこくりと息を呑む。

 友好的な組の頭とはいえ、ボスにさえ隠している自分の感情を見抜かれてしまったのはまずかっただろうか。ナオはそう思ったが、猫元は心配そうに口の端を下げて言う。

「君は珈涼ちゃんと同じ、十八歳の少女だ。良心的で自立心もある。それがもう二週間以上、昼も夜も珈涼ちゃんを見つめ続けていれば、今の状況を理不尽に感じても無理はない」

 ナオはわかりやすい自分の気質を少し反省した。

 けれど次の瞬間には、そこまでばれていたらもう仕方がないと開き直る。ナオは硬質な声音で猫元に問いかけた。

「猫元の頭は、ボスの結婚に反対するおつもりですか?」

「いや、私は月岡君と珈涼ちゃんを祝福するつもりだ」

 そんな一方的な結婚を祝福? ナオは腹立たしさを感じたが、猫元はふいにナオに小袋を差し出して言った。

「君も私にとっては孫みたいな、可愛い子だ。理不尽に反発するのはいざという時に取っておきなさい。……おやつでも食べて落ち着くことも必要だよ」

 猫元はナオに小袋を握らせると、年を重ねてきた懐の深さでナオをなだめる。

「それに私は君より長く、珈琲ちゃんのことを見てきた。彼女は、このまま羽を切られた鳥のように弱っていくだけの子じゃないよ。信じてあげてほしい」

「信じる……」

 ぽつりとつぶやいたナオに、猫元はうなずく。

「よくみつめていてあげるんだ。……君だけが彼女の助けになるときも、きっと来るだろう」

 猫元に肩を叩かれて、ナオは小袋を手に考える。

 和菓子の老舗を傘下にしている猫元組だが、その小袋に入っているのはクッキーのようだった。自社で作ったものでも買ったものではなく、誰かの手作りのように思える。

 何かの謎かけのようなそれを手に、ナオは猫元を見返して言う。

「自分はお嬢さんとは他人です。仕事だけのつながりです」

 ナオは一度目を伏せて、誓うように言葉を続けた。

「……そう周りに見せておいて、時期が来たら自分のすべきことをします」

 猫元は笑って、ナオが中学のときからたびたびそうしたように、ナオの頭をぽんと撫でた。

 ナオは車の中からマンションを見上げて、その時を見極める覚悟を決めたのだった。




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