4 だって放ってはおけないから
ナオが誠也と暮らし始めた三年前、ナオは何も持っていなかった。
身に着けていたのは雨で駄目になった服と靴で、食料どころか持ち金もなかった。けれど一方的に何かを与えてもらうなど、ナオの自尊心が許さなかった。
そんなナオに、誠也はまず事務所の掃除やお使いの仕事を任せて、ナオに稼ぎ方を教えてくれた。自分のアパートに住まわせてくれて、寝床も用意してくれた。
ナオはそれで十分だと誠也に言った。その日暮らしのように食いつないでやる覚悟はあった。実際、実家にいた頃は電気も水道も止められた日々だって経験していた。
でもそうして一緒に暮らし始めて一月が経つ頃、誠也は苦笑してナオに言った。
「ほっとけねぇ」
それで誠也はナオに、初めて生活必需品以外の贈り物をくれたのだった。
現在のナオは今日も帰宅すると、腕時計を外してキーボックスに置いた。
ナオがレタスをちぎってスープを作っていると、誠也が帰って来る気配がした。
誠也はスーツの上着をハンガーに掛けてくると、台所のナオのところに来て言う。
「チャーシュー余ってるから炒飯でも作るか」
ナオはうなずいて、誠也の手首にまだ腕時計がはまっているのをちらりと見た。
「食べたら出かけるの?」
「ん。多少面倒なことになってな」
誠也がキーボックスに腕時計を置かないときは、まだ今日の仕事が終わっていないときだ。
「金の話はもめ事しかねぇからさ。俺たちみたいな連中が出た方が、早く話が片付くこともあるんだ。……ナオ、スープは後で持って行ってやるから出てな」
誠也はそれが当然のようにナオを台所から出して、自分はフライパンを火にかける。
追い出されたナオが、所在なさげに見えたのだろうか。誠也は目の端でナオを見て、小さく笑う。
「違ぇよ。うちは警察沙汰になるようなことはしねぇ。お前が毎日チェックしてる帳簿だってまともなもんだろ?」
ナオは自分の頼りなさを見透かされたようで、憮然として言う。
「心配なんかしてない。自分はいつ誠也の戦力になれるのかって、思うだけ」
「そうかぁ? スープ作ってくれるだろ」
誠也、とナオが不満そうに呼ぶと、誠也は手早く米と卵を炒めながら目を細める。
「お前は勉強も仕事もやって、その辺の高校生の倍は疲れてる。……だから俺の帰りなんか待たずに、早く寝ろよ」
ナオが誠也のアパートに来たばかりの頃、ナオはたびたび誠也の帰りを待って遅くまで起きていた。
それを今更言われるのは気に入らない。でも今だって時々、こっそり起きていることがあるのを、きっと誠也に気づかれているのだろう。
結局、誠也が作ってくれた炒飯とナオが作ったスープを二人で食べた後、誠也はまた仕事に出て行った。
ナオは誠也に言われた通り、夜に少し勉強をしてから寝床につく。
夜中に目が覚めたとき、ふと腕時計のことを考えた。
――働くなら、腕時計はつけておいた方がいい。
三年前、誠也はそう言ってナオに腕時計を買ってくれた。細身のシルバーバンドにブルーの文字盤の、細工物のように綺麗な時計だった。
ナオが選ぶ服の類はいつも男性物だったが、誠也が買ったそれはナオにとって数少ない、女性物だった。
――自分、女扱いは嫌いなんだ。
ナオは誠也に文句をつけたが、誠也はそれに怒るでもなく、困ったように頬をかいて言った。
――悪ぃ。お前の細い手に、男物の腕時計って発想がなかったんだよ。
時計の繊細な細工を見るに、きっと高かったものを買わせてしまったに違いないのに、誠也は謝るだけだった。
――女物の腕時計って、それしか知らねぇしさ。
……本当は、たぶん誠也の別れた彼女の腕時計と同じだったんだろうなと思ったから、気に入らなかったのだけれども。
でもナオは誠也にもらったそれを、今も大事に使っている。薄汚れた子どもに与えてくれた過分な贈り物、それに釣り合う仕事ができるようになりたかった。
その日も日付が変わる頃、誠也は帰ってきたようだった。
ナオが母親に聞いた父親は、酔って帰ったり暴力を振るったりしたらしいが、誠也はそんな荒れた様子を見せたことがない。いつも決まって、そっとナオが寝ているのを確認してから、なるべく音を立てずに自室に入って、落ちるように眠るのだ。
それで翌日は、特に寝過ごしたりすることもなく、ナオと同じ時間に起きて朝食を取る。そういう意味では、誠也はやくざとは思えないほど規則正しい生活をしている。
「思ったんだけど」
「ん?」
その朝食の席で、ナオはトーストをかじりながら言った。
「自分、誠也にはずっと世話になってるし。ボスからもらった給金で、少し蓄えもできたし」
ぼそぼそと話すナオに、誠也は不思議そうな顔をしている。朝食の席では二人とも、いつもそんなに話さない。それがいきなりこんな話をして、ナオだって自分でちょっと恥ずかしい。
ナオはごくんと息を呑んで、なんだか怒っているように提案した。
「腕時計……どうかな。今度の誠也の誕生日に」
「……は?」
誠也はきょとんとして、それで大体ナオが想像していた通り、苦笑いしてもっともな理由をいくつも返してきた。
お前の稼いだ金なんだから自分のことに使ったらいい。大学に入ったらいろいろ買いたいものも出るだろ。俺が買った時計はそう高いもんじゃないから気にすんな……。誠也は並みの大人よりよっぽど真っ当な理由を、ナオに言って聞かせた。
「もらったものは返す。それだけだよ。役に立たないものを返すわけにいかないし」
ナオはそのすべてを喧嘩するみたいに言い返して、最後に本音を付け加えた。
「誠也、腕時計なら仕事中は外さないだろ」
これは押しつけがましいお守りみたいなものかもしれない。危険な世界に生きている誠也に、自分が贈った何かを持っていてほしくて。
押し問答が、数回あった。誠也はぽりぽりと頭をかいて、どう言い聞かせようかまだ迷っているようだった。でもナオは譲らなくて、顔を引き結んだまま主張を続けた。
やがて誠也は観念したように、宙を仰いでつぶやいた。
「……黙ってどこにも行けないってのは、ある意味幸せかもな」
ナオはその言葉の意味を全部理解したわけじゃなかった。でもそれを言った誠也がほっとしたように笑っていたから、たぶん悪い意味じゃなかった。
「おうよ、買ってくれ。ただし今の仕事が終わってからな。……俺だって心配してんだぞ。お前が今日もちゃんと帰ってくるのか」
ナオは思わず笑いかけたけれどすぐにむすっとして、いつも通りの子ども扱いに文句をつけるのだった。
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