野良猫少女と保護者ヤクザ

真木

1 野良猫にだってプライドはある

 中学三年生のその頃、ナオはこの世界に誰も味方がいないように思っていた。

 両親は早くに離婚して、ナオは父親だという人の顔も覚えていなかった。母親は風俗業で生活を回すので手一杯で、思い出したようにナオにカップ麺を用意するくらいだった。

 学校は時々行っていたが、悪い連中が近づいてくるので逃げるようにそこから遠ざかった。友達と言えるほどの人間もいなかったので、それでよかった。

 ある日、母親が家に帰らなくなった。大きくは借金から、後は今の生活の何もかもから逃げたのだろう。

 一週間が経ち、家に何も食べるものがなくなったとき、ナオは覚悟を決めて繁華街に出た。

 雨が降っていて、染みていく靴の感触で気分がひどく悪かった。本当は靴よりも、空っぽの胃とか力が入らない手足だとかを気にした方がいいのだろうが、ナオには靴のことばかりが頭を占めていた。

 靴はまともな生活をしている人間の証だと、何かの本で読んだ。……ナオは、自分はまともな人間だと信じていたかった。

 靴を気にしすぎたせいか、空腹が限界だったのか、ナオは足を滑らせて倒れた。

「いて……」

 零時を回った時刻の繁華街は、そんなナオをどこか楽しげに見下ろしているように思えた。ナオは這うようにして起き上がって、誰をとも決めずににらみつけた。

「……おい。腹減ってんのか」

 そのときだった。ナオに降りてきたのは、誰かの同情の声だった。

 ナオが見上げると、背の高い黒服の男が立っていた。さっぱりとした短髪、力強い目鼻立ちをしていて、チンピラと言うには品が良い、精悍な大人の男だった。

 けれどナオは弱い者に見られるなんて矜持が許さなかった。ナオは男を下からでもにらんで告げる。

「あんた、大人だろ。稼ぎ方を教えてほしい」

 ナオは頼み込むには横柄かもしれない強さで男に言った。

「労働ってことならゴミ集めでも客引きでも、何でもやる。ただし性は売らない。……あれは、気持ち悪い」

 男はナオの挑むような目つきと言葉に感心したようだった。ポケットから手を出して、ナオの目をのぞきこむように言葉を返した。

「ガキだが、気骨はあるな。年は?」

「十五」

「学校は?」

「悪い連中に目をつけられたから行かない。すぐ働きたい」

 男はナオの言葉というよりは、ナオがまとう気迫のようなものを見定めている気がした。

 ナオの方も、注意深く男を見定めていた。男は夜の空気をまとっていて、まっとうな仕事の人間とは思えない。けれども自分がこれから踏み込む世界は、光の当たるところではない確信があった。

 男は試すようにナオに言う。

「警察には行かないのか。食事と寝床はもらえるかもしれねぇぞ」

「働いて、自分の金で食事と寝床を手に入れたい。……誰かを踏みにじろうと、自分は自分が生かしてるって胸を張っていたい」

 ふいに男は喉を鳴らして笑った。

「立派だが、お前の年では少し早すぎるように思うぞ。……まずは、今日の飯だ」

 男は屈みこんで、ナオの頭にぽんと手を置いた。案外優しい手つきに、ナオはじろりと男を見上げた。

 ざぁざぁと雨が降っていた。傘を置いた男は自分も濡れながら、ナオに言った。

「どうだ。……俺んち、来るか?」

 ナオはぱちりとまばたきをして男を見返した。一瞬警戒を忘れて幼さのにじむ表情になったナオに、男はふっと笑った。

「稼ぎ方、教えてやる。性を売らないって条件も入れとく。でもその前に、俺んち来て飯食おうぜ」

「……なんだよ」

 ナオは子ども扱いされたのだと憮然としたが、男の表情には慈愛としか言いようのないものしか見つけられなかった。

「気に入ったんだよ、お前のこと」

 こんな雨の日に、ぼろぼろで痩せっぽちのガキに、何を言うんだろうと思った。

 ナオの怪訝そうなまなざしに、男は打ち明けるように答える。

「俺、今日ずっと付き合ってた女にフラれてな。そんな日に会ったのも何かの縁だ。一人で帰るのが嫌なだけだから、お前も気にせず上がり込んじまえばいい」

 男は邪気なく笑ってナオに手を差し出した。

 こんな小汚い子どもの手を取って、ましてや家に連れ帰ってどうするのだ。なんていい加減な奴だと呆れながら、ナオはひととき差し出された手を見返した。

 でも少しだけ安心したのも本当だった。自分で生きていきたいと思っても、まだ体がその気持ちに追いついていなかったから。

 ナオが恐る恐る手を差し出すと、男はそれを受け止めて、包むように手を握った。

「ちっせぇ手」

「お前がでかいだけだろ」

 反射的に言い返すと、男はそうかぁ?とからかうようにつぶやいた。

 夜の闇の中で見上げた男は、あまり関わり合いになりたくなかった「悪い連中」の世界の人間だろうに、ナオはこの男のことはそんなに嫌じゃなかった。

 ……たぶんそのときからもう、彼に好意らしいものを持っていた。それに気づくのは、何年も後のことだったが。

 ナオが野良猫のように誠也せいやの家に転がり込んだのは、そんな雨の夜のことだった。

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