第5章「永遠」 第2話(三浦蓮)

 病院祭から一週間が経った。

 あの日から、上野さんの容態が急速に悪化した。酸素の投与や医療用麻薬の持続皮下注射が開始された。痛みや倦怠感が強く、ベッドから離れることはできない。

 確かに、病院祭の前から背中の痛みや動悸などの違和感を訴えることが増えていた。が、あまりの突然な変化に多くのスタッフが驚いていた。

 詩を考えたり、書いたりすることも辛いようで、リハビリのできない日が続いた。作業療法の内容を変更して、身体機能に対するアプローチを施そうとするも、彼女から断られてしまった。

 それでも週に三回、これまでどおり病室を訪ね、会話をするよう努めた。

 ただ、そばにいることしかできないとわかっていたからだ。

 彼女はいつも感謝を口にして、他愛もない会話に、にこにこと微笑むばかり。無理をして笑っているのは明らかだった。その顔を見ていると、彼女に話したいことがたくさんあったはずなのに、言葉が出てこなくなる。彼女も、頭を使ったり、言葉を発することが、ひどく疲れてしまうようだった。


 そんな日が続く中、リハビリ室に坂本さんが訪ねてきた。


「もう、リハビリ辞めてもいいと思うよ。紗良ちゃんもだいぶ疲れてるみたいだし、彼女の性格を思えば、三浦くんが行くとさ、うまく話せない自分が嫌になるんじゃないかな」


 坂本さんは、いつになく真剣な表情で、壊れやすいものに触れるように、とても柔らかく僕に話しかけた。


「……いや、そういうつもりで訪室しているわけじゃないんです」


「でも、三浦くんがそんなつもりなくても、会わないことも彼女のためかもよ。衰弱した姿、君だけには見せたくなかったかもしれないよ?」


 むっとしてしまった。僕が絶対に言われたくない言葉だった。自分でもわかっているのだ。彼女のそばにいたい気持ちと、彼女がそばにいてほしい気持ちのバランスが、不安定になっていることを。

 そうはっきりと自覚せざるを得ない状況になったとき、胸の底から込み上げてくるものがあった。


「……坂本さん。この仕事やってて、わからなくなるんです」


「何が?」


「愛って、なんですか? 僕たちは、何のために生きているんですか?」


 僕は泣いていた。最近は自分でも驚くほど、涙もろくなっていた。

 坂本さんは何も答えずに、肩をぽんぽんと叩くだけだった。


 病院の敷地に咲いていた桜が、気づいたときには、ほとんど散ってしまっていた。

 確実に、時は流れている。


 一週間ぶりに上野さんの病室を尋ねると、意識が朦朧とした状態になっていた。酸素投与量は、十リットル。頬は痩せこけ、髪はぼさぼさになったまま、目を閉じている。入院時の明るく溌剌とした彼女の面影はない。

 壁に飾られた、アビーロードを歩きながらピースをする彼女の写真を目にし、人間の運命の残酷さを目の当たりにしているようだった。

 看護師がかけたであろう、ジョン・レノンの曲が流れている。


 上野さんの手を握ってみると、ごく僅かに指の筋肉が収縮したことがわかった。 


「ううう……」


 呻くような声で、僕に何かを伝える。

 わかるよ。

 わかる。

 大丈夫だよ。


 僕はこの日、実家から荷物を持ってきていた。Martinのギターである。ピックガードが削れてボロボロになっている。

 ジョンの曲を止めて、彼のカバー曲「スターティング・オーヴァー」を小さな声で、囁くように歌った。


 それから三日後のことだった。リハビリ室のデスクで弁当を食べていると、内線電話に着信があった。

 ホスピス病棟に急いで駆けつけると、既に葬儀会社の人が来ていた。上野さんは霊柩車に運ばれた直後だと言う。

 あの車の中で彼女は眠っているのか。不思議な感覚だった。

 病棟スタッフが皆、病院玄関から車を見送る。言葉はなく、ただただ泣いていた。

 僕はぼんやりとしていた。

 嘘みたいだ。実感がわかない。


 葉桜が静かに風に揺れていた。花など何もなかったように。


 その日から、何に対しても意欲が湧かず、無為な時間が流れていった。

 もう何もしたくない。

 抜け殻のように空虚だった。世界に色も味もないように。

 

 そんなあるとき、デスカンファレンスから戻って歩いていると、佐々木さんから声をかけられた。


「紗良ちゃんから、三浦さんに渡すよう頼まれていたものがあるんです。亡くなったときに渡してほしいって……。でも、三浦さんが落ち込んでいて、なかなか言い出せなかったんです。もう少し落ち着いてからの方がいいかと思っていたんですけど……。三浦さんの様子を見ていると、今、読んだ方がいいのかとも考えまして……」


 佐々木さんの視線が泳いでいる。目が潤んでいた。彼女もだいぶ精神的に辛かったのだろう。それなのに、そんな重要な役目を引き受けていたなんて、知らなかった。


「えっ、なんですか? まさか、詩を書いたノートですか?」


「詩もあるみたいなんですけど……手紙です。紗良ちゃんが最期に書いたものです。もちろん、私は読んでませんので、三浦さんが受け止めてあげてください。紗良ちゃんのこと」


 病棟スタッフも、上野さんが手紙を綴っていたことを知らなかったと言う。手紙を残していたことは、二人の秘密だったようだ。

 佐々木さんから預かった手紙を家に持ち帰る。家族が寝静まった後、書斎のデスクに置いた。

 もしこれを読んでしまったら、彼女のすべてが終わってしまうような、僕と彼女の時間にピリオドを打つような気がした。怖かった。僕はそこまで強い人間じゃない。そうなるくらいなら、心は散らかったままでいい。この悲しみに耐えることで、彼女のそばにいられるなら。

 でも……彼女の気持ちを知らないままでいいのか。彼女が最期に伝えたかったことを知らないで、そばにいるなんて言えるのだろうか。


 おそるおそる、封筒から便箋を取り出した。

 花見のときに撮影した写真が同封してある。桜の木の下で、僕と上野さんが笑っていた。その顔を見て、突き落とされるような気持ちになった。このときの僕に言ってやりたい。もっとこの時間を大事にしろよ、と。

 便箋に彼女の香りがするような気がして、鼻を近づけた。が、そんなことはなかった。

 僕は深呼吸をし、震える手で手紙を広げた。

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