5-6

 霧香は一日市警察署の会議室に通された。そこで岡村が発砲した時の状況について聴取を受けていた。

 会議室のドアがノックもなしに開けられた。入ってきた若い刑事は、おそらくその上司とみられる刑事に睨まれて気まずそうに頭を下げた。それから霧香の方を向いて言った。


「弾はきれいに摘出できましたみたいです。命に別状はないとのことでした。銃創は臓器や太い血管を避けていましたし、運がよかったですね」


 立ち上がろうとした霧香は安堵のあまり椅子にへたり込んでしまった。慌てて女性刑事が霧香を支える。


「それでは小峰さん、少し休憩を入れましょうか」


 上司の方が霧香の様子を見てそう提案した。

 霧香は外の空気を吸いたいと言い、独りで会議室を出た。廊下は北向きで、それだけでも空気が涼しく心地よかった。

 一つの街で不発弾騒動と発砲事件の二つを抱え込み、警官の多くが出払っているのか署は閑散としていた。

 日の当たらない薄暗い廊下で二人の男が向こうからやってくる。


「あの女性、ジャケットの後ろに紙切れをつけていなかったかい?」

「それが銀座のスタイルなんだよ」


 すれ違った二人がイタリア語でそう囁いているのが聞こえた。彼らの近くに他に人はいない。自分のことを言われているのだと気づき、霧香は立ち止まってジャケットを脱いだ。その裾に一枚の付箋が貼ってあった。

 どこかで座った拍子についたのだろうか。霧香は首を傾げながらその付箋に目を落とした。

 そこには「クロタネタタコノタナ」が殴り書きされていた。その文字列の下にはミミズが這ったような線で、四足歩行の獣らしき絵が描かれていた。そして最後には「怪盗黒猫」という署名がまた殴り書きされている。

 黒猫の署名があるということは、予告状のつもりなのだろうか。だとしたら意味の分からないカタカナの列も暗号ということだ。その鍵は小動物のイラストにあるのだろう。

 子供が描いたような滅茶苦茶な絵は、動物という事くらいしかわからない。強いて言えばやや鼻の伸びた丸顔は狸のようでもある。まさかとは思ったが、「クロタネタタコノタナ」から「タ」を抜けば「クロネコノナ」、つまり「黒猫の名」とそれらしい文字列にはなる。

 絵も低レベルなら、絵解きのセンスも低レベルである。こんなものに怪盗黒猫を騙られるのは許せなかった。

 不意に視線に気づいた霧香が頭を上げる。先ほどすれ違った二人が立ち止まってこちらを見ている。目は警戒の色でいっぱいだった。

 あの二人はミラノ県警から派遣された刑事である。美術館でも怪盗黒猫ではないかと彼らに疑われていたことを思い出す。彼らは怪盗黒猫が逮捕時にイタリア語で応対している場面に立ち会ってもいる。

 廊下が冷たい沈黙で満たされる。その空気を無視して、外からは熱気に包まれた群衆が署に近づいてきていた。廊下にも騒ぎが聞こえてくる。それまで人気のなかった廊下を、警官たちが行き交い始めた。

 何かあったらしい。霧香はあえてドイツから黒猫捜査本部に派遣されていた警察官に声を掛けた。


「何があったのですか」


 霧香が聞こえよがしにドイツ語で尋ねる。イタリアの刑事たちはそれを聞いて一気に緊張を緩めた。多くの言語に精通した敏腕通訳だったと思ったのだろう。彼らの意識はすぐに外の騒ぎに移った。


「怪盗黒猫が逮捕されたのですよ」


 ドイツ人の警察官がそれだけ答えて、忙しそうに歩いていった。

 霧香は慌てて窓に近づいた。外ではパトカーが署の前に停まっていた。その周りをカメラマンが囲んでいる。制服警官が記者たちの前に立ちはだかり、パトカーから離そうとしていた。教科書通りの大捕り物への反応だった。やはり黒猫の逮捕らしかった。

 霧香とは違う人物が、黒猫として現れた。それはあのいい加減な付箋の予告状の内容と一致していた。捕まったのは予告状を出した人物だろうか。パトカーのドアが開く。霧香は固唾をのんで、その様子を見つめていた。

 パトカーからは根津が降りてきた。彼は並べた腕にタオルを掛けられ、警官に署へと連行されていた。

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