5-3
最後に見回りが来てから十分以上経っていた。見回りは「誰かいませんか」と尋ねるだけで、返事がないことを確かめると個室を見もせずにどこかへ行ってしまった。
辺りは静謐に満たされている。息遣いや足音も聞こえない。避難は完了したのだろう。トイレの明かりが灯り、用具置き場の戸が開き、中から根津が出てくる。
周辺の区画ごと無人になり、館内の空気は凪いでいるようだった。その静寂を切り裂いて一つの足音が近づいて来る。住井だった。仕事中だった彼女は美術館スタッフの制服を着ていた。
「館内は避難完了しております」
住井はそう言うと冗談めかして敬礼した。
不発弾騒ぎを起こして自衛隊を出動させて、避難という名目で美術館に居座る警備の警官たちを来館者もろとも追い払う。小峰が考えたこの計画はとても大胆だった。すぐバレるかもしれないが、それでも短い間美術館の人払いをするには効果的だった。
根津と住井は悠々とした足取りで、大欧州展が開催されている特別展示室へと向かった。
昨日、展示ケースのガラスを変えた時にストッパーを噛ませて完全には閉まらないようにしていた。展示するはずの「太陽の吐息」は盗まれていたから、警察も空のケースの施錠までは厳しく見ることはなかったのだろう。ストッパーは昨日のままで、そのおかげでケースは施錠されていない。
根津はケースを開けた。ポケットから取り出した包みを広げると、中から「太陽の吐息」が現れた。展示室の電灯を浴びて、四方に赤い光を放っている。その色合いはパトランプにも似ていて、根津は一瞬だけゾクリとした。
持っていても警察や怪盗黒猫に狙われるだけで、根津たちにとっては疫病神みたいな物であることには変わりはない。早いこと手放してしまおうと、大粒のルビーを抱いたネックレスをケースに仕舞う。ガラスケースをしっかりと下ろすと、カチリと鍵が閉まる手ごたえがあった。
隣で住井が安堵の息を漏らした。間違えて盗んできてしまった「太陽の吐息」をどうにか黒猫に取られることなく美術館に戻すことができた。
ひと段落はついたが、気は抜けない。根津は感慨にふけることもなく、踵を返す。
「ねえ、『聖カトリーナの雫』はどうするのよ」
住井が慌てて根津を呼び止める。もともとそのネックレスが蛭間という男から根津と住井に依頼されたターゲットだった。根津がターゲットの展示ケースの前で立ち止まり住井の方に手を伸ばす。
「頼んだものは?」
「書庫から取ってきたわよ」
住井はそう言って一冊の本を出した。和紙を閉じた古い書物で、表紙には「御城主評定録」の文字が墨で書かれていた。根津は満足げに礼を言うと、そっとその書物を受け取った。
一向にサファイヤのネックレスに手を出そうとしない根津に、住井が眉をひそめて言った。
「それを何に使うのよ?」
「依頼人の蛭間が言っていただろ、『聖カトリーナの雫』は蛭間家に返還せよという裁定が椎舘藩主から出ていたって。これは代々の椎舘藩主の評定を集めたもので、『聖カトリーナの雫』返還命令についてもこれに載っているんだよ」
根津はその書物の終盤に首飾りの裁定の記録を見つけ、その頁に栞を挟む。そして「聖カトリーナの雫」を展示しているガラスケースの上に、その書物を置いた。
あとは何の手出しをしなくても、蛭間の手元に「聖カトリーナの雫」が戻ることだろう。依頼はこれでほとんど完了したようなものだ。根津はそそくさと展示室を出ていく。
「これでいいの?」
後を追いかけて住井が尋ねた。
「これでいいんだ」
根津は歩きながらそう答える。根津たちが去った展示室は、まるで何もなかったかのように穏やかな静寂に包まれた。
南雲耕紀から掏った車のキーを住井に渡す。
「こんな高い車を運転するなんて緊張するわね」
駐車場でその車を見つけた住井はそう言いながらも、顔をほころばせてハンドルを握った。耕紀の父の車なのだろう、その車は駐車場で黒く光を放って目立っていた。南雲家の次男坊で現役の参議というだけあって、愛車のセンチュリーにはタクシーさながらにシートにカバーさえしてあった。
エンジンが重厚な唸りを上げながら、車は静かに美術館の駐車場を抜けていった。この辺りは市の施設や窓口があるから、普段は昼間の人通りがそれなりにあった。しかし不発弾が見つかり避難指示が出た今、街からは人が消えている。
道路を進んでいき、ようやく人が見えたと思ったら、立ち入り規制をしている自衛隊と警察だった。避難区域の内側から車が現れたのが予想外だったのか、彼らは振り返った姿勢で固まっていた。
ナンバーを見て、警官の一人が姿勢を正して脇へ寄った。自衛隊員は道を塞いで、停止せよと手を広げて腕を前に伸ばす。別の警官が慌ててその隊員に近寄り、耳打ちする。恐らくこの車が地元の名士南雲家のものだと説明しているのだろう。隊員は訝しみながらも渋々と言った様子で道を開けた。
規制線から外に出られた車は、集まっていた避難してきた来館者たちや野次馬、テレビクルーを横目に走っていく。そのまま少し離れた河川敷に住井が車を停めた。
「いつ彼女が黒猫だって気づいたの?」
エンジンを切りながら住井が聞いた。根津は冗談っぽく口を開いた。
「唯一逮捕に成功したイタリア警察の話では、怪盗黒猫はとびっきりの美人だって話だろ」
「そう思っているならどうして、踏み切らなかったの? チャンスならいっぱいあったでしょ」
「どうもな、あんなに純粋で無垢なひとに手を出す気にはなれなかったんだ」
「それが彼女をあんな風にしたとしたら?」
住井が問いかける。根津は何も答えられなかった。何を言っても言い訳にしかならないような気がした。車内を満たした沈黙は、ドアの開錠の音に断ち切られた。住井が根津を促すようにキーを開けたのだ。
「蛭間からの依頼が終わったのに、息つく間もないのね。次は大丈夫なの?」
住井が窓から顔を出して、根津の背中に問いかける。
「大丈夫だ。今度はそんなにかからないだろうよ。胡乱な司法制度だと国際社会からの批判を進んで受けるほど、この国の官吏は肝が据わっていないさ」
根津は背中を向けたまま手を挙げて歩き始めた。
そのまま根津は、先ほどいた美術館の方へ向かった。避難区域に至る道で、根津は南雲耕紀の姿を見つけた。あたりには、耕紀以外にも美術館から避難させられたらしい大勢が、困惑した様子で歩いていた。
耕紀は落ち着きがなかった。不安そうな顔を浮かべて、絶えずポケットを探っているところを見ると、キーを失くしたことにもう気付いているらしい。
あまり心配させてもいけないと思い、根津はそんな耕紀の方へ近づきながら、センチュリーのキーを取り出す。キーには都合よく「K. Nagumo」と刻印されたストラップもついていた。
キーを返そうと、根津は早足で追いついた耕紀の肩を叩く。そして彼の名前を呼んだ。
「南雲さん――」
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