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 美術館へ向かう前に、根津は藪原商会に寄った。事務所では主の藪原がソファに横になってテレビを見ている。彼は一度頭を上げてドアの前に立つ根津を認めると、またテレビに戻った。朝の情報番組では、飽きることなく一日市美術館の「太陽の吐息」窃盗事件についてあることないこと言い放っている。

 「聖カトリーナの雫」の窃盗は藪原経由で発注されたため、失敗したことの弁明ついでに根津たちが「太陽の吐息」を間違えて盗ってきてしまったことの顛末は藪原も聞かされているはずだった。

 犯人しか知りえない情報をうっかり漏らしてしまわないように、根津も事件を扱うニュースやワイドショー、週刊誌には目を通していた。いくら捕まらないようにするためとはいえ、事実と推測と妄想を一緒くたに並べた幼稚な放言は目を通すだけでも苦痛だった。藪原が平気でいられるのは単にテレビの音声を退屈を紛らわす雑音として流しているからだろう。

 根津は藪原の目の前に回り込んだ。藪原からすればテレビが遮られる形になったが、抗議することはなく、寝ぼけまなこを持ち上げて根津を見るだけだった。


「偽造パスポートを作ってほしいんだ。スタンプも頼む」


 そう言って根津は模造するスタンプの国名や日付を書き並べたリストを藪原に渡した。藪原は起き上がってそのリストを受け取り、一瞥すると顔を上げた。


「作る分には構わないがね、海外逃亡どころか、これじゃあちょいとした観光旅行にも使えない」

「その点は大丈夫だ。パスポートの方は詳しく調べれば偽造だとわかるくらいの品質でもいいが、スタンプは精巧なのを頼むぜ、薮原」


 藪原はしばらく訝し気にリストと根津を交互に見比べていた。だがしばらくすると、立ち上がって自分のデスクに向かった。それから引き出しから台紙やカッターを取り出して並べていく。

 藪原は根津を見ずに口を開いた。


「見くびらないでくれ、俺がいつ見破られるようなものを作ったというんだ」


 了承だと理解した根津はそのまま出口の方へ歩き始めた。ドアをくぐったところで、ある可能性を思い至ったのか藪原に呼び止められた。


「根津、あんた辞めるつもりなのか?」


 そう尋ねる藪原自身もまだ確証はないらしく、半信半疑の口調だった。


「何をかによるな。ただこの稼業は娑婆でなくてもできる、俺はそう思ってるよ」


 根津は振り向くことなくそう言うと、事務所のドアを後ろ手に閉めた。


   ◇


 美術館は午後の一般公開再開に向けて多忙を極めていた。とりわけ特別展示室はそれまで捜査のために現状保存されていたため、今日の午前中しか修復の時間が与えられていなかった。


「根津さん、展示ケースを新しいのに交換してもらえますか」


 配電盤の修理を終えた根津は小野寺に声を掛けられた。そんな小野寺も蛍光灯を肩に担いでいた。その傍には緩衝材で包まれた直方体が置かれている。恐らくそれが新しい展示ケースだろう。根津は二つ返事で直方体を持ち上げた。

 あの夜に美術館を襲撃した犯人が展示ケースを割って『太陽の吐息』を盗み出したと報道されているのは根津も確認していた。


「『太陽の吐息』の新しい展示ケースですか。でももう盗まれているんですよね」


 根津は素知らぬ顔で聞いてみる。


「空の展示ケースを置いておくみたいですよ。臥薪嘗胆のつもりなんですかね」


 根津はその臥薪嘗胆という表現が腑に落ちた。美術館にいる警官は鬼気迫る様子が前よりも増している。厳重に警備をまんまと掻い潜られたのだから当然なのだが、プライドの高い警察組織のことならそこで戒めに空の展示ケースを用意するのも頷けた。

 根津は新しいガラスケースとともに特別展示室へ向かった。バレない自信はあったが、それでも神経をとがらせた警官の集まる事件現場へ足を踏み入れるのは怖かった。

 あ根津さん、と小野寺は何かを思い出して声を上げる。


「――『太陽の吐息』の展示場所は『聖カトリーナの雫』と入れ替わっているので」

「『聖カトリーナの雫』が展覧会の目玉に繰り上がったんですか」


 根津はまたしらを切って言った。そのせいで違うものを盗んできてしまったのだから、展示場所の交換は痛いほど知っている。


「怪盗黒猫に『太陽の吐息』を盗ませないための戦略で展示場所が変ったらしいんですよ」

「なるほど、警察もよく考えますね」


 まんまと策に嵌まった根津は心から感心して言った。小野寺が皮肉な笑みで応える。


「結局徒労に終わっていますがね」


 小野寺に合わせて愛想笑いを返し、根津は展示室へ向かった。

 展示室は警察が行き交い、展示品を収めたガラスケースにはブルーシートが掛けられている。美術館の展示スペースという雰囲気はほとんどなく、事件現場らしさばかりが目立っていた。


「君、それは?」


 入ってすぐに警官に呼び止められる。はい、と根津は卑屈気味な返事をして顔を上げる。そこに立っていたのは青原だった。偶然は面倒な方に転がるものだと根津は胸の中で毒づいた。

 青原は根津の正体に気づいてはいないらしかった。ただ職務として呼び止めたにすぎないようで、彼は顎で根津の手元を指している。


「新しい展示ケースです。『太陽の吐息』を収めていた物が割られていたということで」


 そう答える根津の方をチラリとも見ず、青原は手元のバインダーに目を落としている。しばらくしてから彼は小さくうなずいた。


「ご苦労」


 青原は尊大な態度でそれだけ言うと、顎で進むように示した。根津は仰々しく頭を下げて歩き始めた。少ししてからブルーシートのことを思い出して振り返る。


「ブルーシートなんですがね、外しちゃって大丈夫ですかね」

「構わん。改修するからその辺に置いておいてくれたまえ」


 青原はバインダーを見続けたまま、追い払うように手を振った。それを見て根津は逃げるようにして展示ケースのもとへ向かった。

 もともと「聖カトリーナの雫」が飾られていた場所で、ブルーシートを剥がすと空の展示ケースが現れた。ケースのガラスは砕かれて、ギザギザとした断面を見せている。さすがに破片は回収されたらしく残っていないが、ガラスの表面にはところどころ指紋の形に白い粉が浮き上がっていた。

 顔を上げれば、天井には通気口がついている。確かにあの日の夜あそこから住井を下ろしてケースの中の物を盗んできてもらった。根津はようやく自分たちが間違えて「太陽の吐息」を盗んできてしまったことを受け入れられたような気がした。

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